身代わり王女は隣国の皇弟に囚われる

15

 ちくちく、と絹のハンカチに針を通す。

 塔にいるときマリーに教えてもらったおかげで、裁縫だけは昔から得意だった。妃教育で最初から及第点をもらえた、唯一の分野だ。海碧の刺繍糸でシルビオのイニシャルである「S」を形作っていく。黙々と手を動かしていると、さまざまなことが頭に思い浮かぶ。エリシアとマリーはどこにいるのだろう、王国の人たちは元気にしているのだろうか。それから――。

 ――私は、いつまでここに居ていいんだろう。

 はた、と刺繍する手が止まる。口を開けて静止したネリアの顔を、「エリシア様?」と教師が覗き込んだ。「な、なんでもありませんわ」と慌てて再び手を動かすけれど、先ほどまでのように集中はできない。無意識に思い浮かんだ願望じみたことが、頭から離れてくれない。心なしかいつもより、心臓の鼓動が早い。

「まあ、なんて素敵なのかしら」
「そ、そうかしら?」
「ええ。殿下もきっとお気に召されますわ」

 ネリアの手元を覗き込み、にっこりと微笑む先生。「そうだといいのだけれど」と返しながら、エリシアならこういうときどういう反応をするのだろうと思いを馳せた。エリシアの身代わりを務めている以上、常に双子の姉がどうしていたかを意識するようにはしているのだけれど。そういえば、双子の姉が刺繍をしているところは見たことがない。彼女の刺繍の腕前はどうだったのだろう、とぼんやり思いながらハンカチへ視線を落とす。刺し途中のイニシャルを見ているうちに、考え事は双子の姉から婚約者へと移った。

 ――殿下は、喜んでくれるのかしら。

 思えば、シルビオに何かを贈ったことはない。ネリアは髪の色と同じ、ブラックサファイアのネックレスを貰ったのに。今もドレスの下で揺れるそれに、そっと服越しに触れる。生まれて初めて異性から貰ったプレゼントを、ネリアは肌身離さず身に付けていた。ネックレスを貰ったのに対してハンカチを贈るのでは、あまりに釣り合いが取れていない。けれど、きっと無下にはされないのだろう。初対面時のシルビオならいざ知らず、最近はなんだかんだネリアと仲良くしてくれるし、根は善人なのだ。大袈裟に喜ぶことはなくとも、たまになら使ってくれそうだと勝手に予感している。

 ――出会った頃からは、想像もつかないわね。

 初対面で首元に刃を突きつけられたネリアに現状を教えたところで、きっと信じないだろう。ネリアだって、ふと我に返って信じられない思いに駆られるのだから。シルビオとの距離が急激に縮まったような気がするのは、いつからだろうか。夜の時間を一緒に過ごすようになってから、ゆっくりとお互いのことを知れたような気はしているけれど。やはり、きっかけはお披露目パーティーの翌日だろう。パーティーでのやらかしの数々を謝罪するネリアに、シルビオは怒らなかったどころか、なぜか抱きしめてきたのだ。知らない間に別人に入れ替わったのかも、と疑ってしまったのはここだけの話である。

 それから数日、夜に二人で話すときはシルビオの膝の上が定位置。最初こそドギマギしたけれど、ネリアの順応性は意外と高い。徐々に気にならなくなっていた。それに、物理的な距離こそ近いものの、話す内容自体は今までと変わらない。妃教育の内容やその日にあったこと、王国の様子等々。意外と話題に困らないのはいつも通りだ。

 けれど、変わったのは座る位置だけではない。ネリアを見つめる視線や、話しかける声、それに触れる指先。何もかも、初めて会った頃とは違う。大事な友人に接しているかのような親しみが込められていると思うのは、気のせいではないはずだ。偽王女だと疑い冷遇していたシルビオはどこに行ったのだろうか。パーティーで酔っ払ったネリアは、そんなにもシルビオに響く言葉でも告げたのだろうか。生憎、庭園で何を話したのかの記憶は一切ないし、シルビオに聞いてもはぐらかされるので真相は闇の中だ。

 けれど、優しくしてくれるのならそれに越したことはない。仮にも婚約者なのだ、冷たくされるより優しくされた方がいいに決まっている。刺繍途中のハンカチを見つめ、完成させようとひっそり意気込む。頭に浮かんだ願望じみたことなど、気づけば頭から抜け落ちてしまっていた。

 *

 侍女であるサラとケイトを連れ、皇宮内を歩くネリア。向かう先は皇弟の執務室。明日、王国へと調査に向かうシルビオに、先ほど刺繍したハンカチと手紙を渡すためだ。

 初めて手紙を送ってからと言うもの、ネリアはたびたびシルビオに手紙を書いている。今日は妃教育の勉強をしたいから夜に会えないだとか、セレステ様とのお茶会に誘われたのだけれど一緒にどうかだとか、侍女に伝言を頼めばそれで済むような内容ばかりだけれど。誰かに言伝だけ頼むより、一筆添えたほうが相手も嬉しいとセレステに教わったのだ。出会ったときから変わらず、セレステはいつもネリアに優しくしてくれる。忠実に実践するうち、気づけばシルビオも業務連絡は手紙で寄越してくれるようになっていた。

 そんなシルビオから、「今日の夜は会えない」という手紙をもらったので、その返事と一緒にハンカチを包んだネリア。侍女に託してもよかったのだけれど、どうせなら自分で渡したいと思い立った。理由は特にない、なんとなくと言ったところだろう。けれど、サラもケイトもニコニコしているので悪いことではないはずだ。

 ――会いに行ったら、どんな顔をするかしら。

 そんなことを考えながら黙々と歩いていると、あっという間に執務室の前に辿り着く。初めて踏み入ろうとすることに緊張しつつ、ノックしようと手を上げたときだった。僅かに開いた扉の隙間から、声が聞こえる。

「殿下は、本当にエリシア王女とご結婚なさるおつもりで?」
「!」

 エリシア王女、というのは、ここではネリアのことだ。聞いたことのない声の主は、臣下の誰かだろうか。苦言を呈するようなトーンから察するに、良い話ではないのだろう。背後のサラとケイトには聞こえていないのか、「エリシア様……?」と手を挙げたまま動かないネリアに怪訝そうにしている。扉をノックすることも、引き返すこともできないまま、身を固くした。

「何が言いたい」
「先日のパーティーでの振る舞いですよ。いくら王女と言えど、陛下の御前で侯爵閣下に言い返すなど……無礼にも程があると持ちきりなのはご存知でしょう?」

 心臓に、ヒヤリと冷たい何かを突き刺されたようだ。どうして、そのことに思い至らなかったのだろう。妃教育の教師にも苦言を呈されたのだ、臣下が良く思っているはずがない。シルビオが許してくれたことや、仲良くしてくれていることに、浮かれている場合ではなかった。頭をガツンと殴られたような感覚を覚え、俯いてしまう。ノックしようと挙げた手も、気づけばだらりと垂れ下がっていた。

「きな臭い王国の、常識のなっていない王女より、帝国で妃を探した方が――」
「くどい」

 尚も言い募る臣下に、ぴしゃりと一蹴する声。ハッと顔を挙げると、「私の婚約者が非常識だと、直接私に告げることを非常識だとは思わないのか?」とシルビオは続けた。冷えた心臓が、一気に温度を取り戻す。「い、いえっ、決してそんなつもりでは……」と慌てて手のひらを返す臣下に、「そもそも、あの発言は私を庇ってのものだ。彼女が責められる謂れはない」ときっぱり告げるシルビオ。

 バクバクと、心臓がそれまでとは違った意味で脈打つのを感じた。お礼を告げてくれたときから変わらず、シルビオにとってあの出来事は感謝こそすれ非難するようなものではないらしい。安堵と同時に、言いようのない熱が胸のうちから込み上げた。けれど、息を吐くのも束の間、シルビオの言葉がネリアを現実に引き戻す。

「そもそも、この婚約は陛下直々の御命令だ。今更覆せるとでも?」
「……おっしゃる通りで、ございます」

 不承不承、と言った様子で臣下が頷くのを耳にしながら、浮かれた熱が急速に冷えていく。くるりと振り向き、侍女二人に手紙とハンカチを押し付けるようにして渡した。シルビオと臣下の会話は、結局二人には聞こえていなかったのだろう。困惑したような表情を浮かべてネリアを見つめている。

「これ、殿下に渡しておいてくれる?」
「えっ」
「ご自分で渡されないのですか?」
「ええ。用事を思い出したから、部屋に戻っているわ」

 そう言って来た道を辿ると、「エリシア様!」と背後からケイトに名前を呼ばれる。足音から察するに、サラが残って渡してくれるのだろう。事情がよくわからなくとも、忠実に職務を果たしてくれる侍女たちに感謝と罪悪感を覚えた。

 *

 部屋に戻ったネリアは、一人にしてほしいとケイトに告げる。様子のおかしいネリアを、ケイトは最後まで心配そうにしてくれたけれど、結局何も言わず下がってくれた。ようやくエリシアを装わずに済む、という解放感で全身から力が抜けていく。靴を脱ぐことも、コルセットを緩めることもしないまま、寝台に突っ伏した。頭の中で、さまざまな感情が巡る。

 ――庇ってくれるなんて、思わなかった。

 最近、仲良くしてくれると浮かれてはいたけれど。苦言を呈されているのを、あんなふうに庇ってくれるとは思っていなかった。顔が熱くて、心臓がうるさい。自分のしたことは間違っていなかったのだと、認めてもらえたような気がした。けれど、次いで思い出すのは、「この婚約は陛下直々の御命令だ」という言葉。浮かれたところで、この婚約は恋愛感情で結ばれたわけでもなんでもなく、単なる政略的な目的によるもの。それに、婚約を結んだのは、「エリシア王女」であってネリアではないのだ。

 ――私は、いつまでエリシアの身代わりでいられるんだろう。

 身代わりをしてほしい、と告げたエリシアは、どのぐらいの時間を稼いでほしいとは言わなかった。やらなければならないことがある、とも言われたけれど、そもそも「やりたいこと」が何なのかもネリアは知らない。一応は王女であるにも関わらず、ネリアには知らないことだらけだ。

 ――もし今、エリシアが現れたとしたら。

 この婚約はどうなるのだろう。破棄されるのだろうか、と思ったけれどその可能性はきっと低い。そもそも、帝国の村人と王国の貴族が行方不明であること、ネリアの両親が不審死を遂げたことに対する重要参考人としてネリアは連れてこられたのだ。王女かどうかすら皇宮中から疑われているにも関わらず、急ぐようにして皇弟との婚約が結ばれたのはおそらく。

 ――帝国は、王国を乗っ取りたいんでしょうね。

 王女と名乗るネリアを女王として即位させ、陰で実権を握るのではなく。わざわざ皇弟と婚約を結ばせたのは、王国を取り込み帝国の領地としたいからだろう。初めての食事会のときから、薄々察してはいることだ。だとすればエリシアが目の前に現れたとしても、余程のことがない限り、皇弟とエリシア王女の婚約が破棄されることはないだろう。

 けれど、その「エリシア王女」とはどちらを指すのだろうか。帝国が求めているのは「キシュ王国のエリシア王女」であって、ネリアではない。ネリアだって「キシュ王国のネリア王女」だけれど、その事実を知るものはエリシアとマリーしかいないのだ。魔力がないせいで、生まれたときに捨てられたネリア。彼女のことを知る国民は、誰一人としていない。それならば答えは明白。魔力を持たず誰にも存在を知られていないネリアより、稀代の魔法使いと持て囃されるエリシアの方が妃に相応しいに決まっている。

 ――殿下は、どう思うんだろう。

 最近はそこまで言われることもなくなったけれど、今でもシルビオはネリアのことを「エリシア王女」ではないと疑っている。実際そうなのだけれど、もしネリアの正体を知ったら彼はどうするのだろうか。騙したなと怒るのか、それともやっぱりなと皮肉げに笑うのか。いずれにせよ、婚約者がネリアのままでもいいと言ってくれる自信はなかった。ネリアのことを庇ってくれたけれど、あくまで「エリシア王女」としての行動を庇ってくれただけ。政略結婚の相手だから、優しくしてくれているだけ。本当の名前を名乗ることもできず、エリシアの振りをするしかできないネリアに、シルビオはきっと興味なんてない。

 ドレス越しに、ネックレスに触れる。生まれて初めてもらった宝石。瞳の色ではなく、髪の色が綺麗だからと贈ってくれたブラックサファイア。エリシアが見つかってもシルビオと婚約したままでいたい、だなんて虫のいい話が罷り通るわけはない。突き刺すような胸の痛みのせいで、視界が滲んだ。

 シルビオに渡してもらうよう、サラに託したハンカチに思いを馳せる。いつか別れが訪れたとしても、ハンカチは使ってくれるといいなと願った。
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