身代わり王女は隣国の皇弟に囚われる
17
シルビオが王国から帰ってきた夜のこと。ネリアは一人自室で、マリーからの手紙を読み返していた。
『ネリア様
次の満月の夜、誰にも言わずに皇宮の裏門までお越しくださいませ。お迎えにあがります。
マリー』
裏返してみても、内容はこれだけ。ネリアの安否を気遣う言葉も、マリーやエリシアの安否を告げるような言葉もない。素っ気ないとも取れそうな手紙だけれど、知らせがあったこと自体が良い報せだろう。ほっと安堵の息を吐いた。けれど、それはそれとして。
――迎えに来るって、どういうことなんだろう。
覚えている限り、マリーが帝国に行ったことがあると聞いた記憶はない。にも関わらず、皇宮の裏門を指定してきたのはどういうことなのか。迎えにきてくれたとして、一体どこへ連れて行かれるのだろう。それに、「誰にも言わずに」というのも気になる。こっそり皇宮を抜け出すことを指示されているけれど、そんなことは可能なのだろうか。エリシアがどこにいるのかも気になる。知りたいことが山ほどあるのに、あまりにも情報が少ない。
――エリシアとは、話せるかしら。
もしエリシアに会えるのなら、話したいことがたくさんある。今まで何をしていたのか、やらなければならないことはできたのか、王国のこれからをどう考えているのか。来る日も来る日も妃教育に励み、王国はどう足掻いても帝国には勝てないことを悟った。国王夫妻は亡くなり、中枢を担えるであろう貴族は行方不明。エリシアが女王として即位するより、帝国に統治を任せた方が国民はきっと幸せだろう。偽物のネリアではなく、本物のエリシアがシルビオと結婚する。もともとエリシアの身代わりで結んだのであって、ネリアが婚約したわけではないのだ。あるべき姿に戻るだけのこと、それだけのことなのに。
――もう、会えなくなるんだ。
身代わり期間の終わりを急に実感する。次の満月の夜は一週間後。ついこの間、お別れに備えなければと思っていたけれど、こんなに早いとは思わなかった。一抹の寂しさを覚えたけれどそれでも、マリーからの曖昧な手紙を信じることに躊躇いはない。誰からも存在を知られていないネリアのことを、唯一知ってくれていたのはマリーとエリシアだけなのだ。二人の言うことなら、一も二もなく信じるのは致し方ない。
――殿下は、本当に読んでないのかしら。
書き出しにネリアの名前が書かれている手紙を見返す。綺麗に封がされていたけれど、一度開けた手紙を魔法で閉じることはできるだろう。口が悪い割に根が善人である彼は、平時であれば他人への手紙を勝手に開けるようなことはきっとしない。けれど、誰かもわからない人物が婚約者に宛てた手紙を、検めることもしないまま渡すような人だろうか。おまけに、マリーの名前が出たことに動揺しすぎて、「覚えがあるか」という質問に頷くという失態を犯している。あの場で疑われ、手紙を見せろと言われてもおかしくなかったのに、そうされなかったことが今になって引っかかる。
ネリアを信じてくれているのか、それとも。
*
それからの日々は、意外なほど穏やかに過ぎた。
シルビオとはその後も夜に顔を合わせたけれど、手紙の「て」の字も口にしない。まるでマリーに出会った事実すらなかったかのようだ。詮索されるよりよっぽどマシだけれど、何も言われないのも気にはなる。やっぱりシルビオは手紙を読んでいて、その上で泳がされているのではないかと疑ってしまうけれど、ネリアからそれを言い出すことはできなかった。
相変わらずシルビオの膝に乗せられたまま、手に持つ本越しにこっそりとシルビオの方を盗み見る。雑談の話題は意外と尽きないけれど、たまにこうして二人で黙々と読書に勤しむこともある。こんなふうに沈黙が苦にならない時間を一緒に過ごせるようになるとは、初対面のときは思わなかった。透き通るような碧眼が文字を追う様子を見ながら、相変わらず黙っていたら王子様みたいだ、と失礼なことを思ったとき。シルビオの視線が本からネリアに映る。考えがバレてしまったのだろうか、とドギマギしていると、「さっきから見てるけど、何?」と尋ねられた。
「な、なんでもありませんわ」
「……どうせまた、黙ってたら王子様みたいだとか思ってたんだろ」
「どうしてわかりましたの!?」
「当たりかよ」
「あっ……!」
思わず口をぱちんと抑えると、「わかりやすいな、相変わらず」と呆れたように笑われる。馬鹿にするでもなく、嘲るでもないその笑みに、どうしてか顔が熱くなった。親愛のような眼差しは、エリシアにも向けられるのだろうか。きっと向けられるのだろう。ことあるごとに、「ちょっと可愛いからって」とよくわからない言いがかりをつけられるのだ。よくわからないけれど、ネリアの顔が気に入っていることには違いない。同じ顔をしたエリシアのことも、すぐに気に入るだろう。それがなんだか寂しく思うのは、きっと気のせいだ。
「あのさ」
「!」
本を置いたシルビオが、ネリアを抱きしめる。咄嗟のことで、栞を挟む間もない。そのまま閉じてしまった本をソファに置くしかなかった。縋り付くようにして、ネリアの肩に額を擦り付けるようなシルビオ。今までにない力強さに、ドキドキしてしまった。
「俺に言いたいこと、ある?」
「え? あ、ありません、けど……」
「ふうん……本当はなんて名前なの?」
「えっ!?」
脈絡のない質問に驚くけれど、シルビオはネリアの肩から顔を離さない。しがみつく力が強いせいで、身じろぎもできない。まるでネリアがどこかへ行こうとしているのを察して、引き止めようとしているかのようだ。やっぱり、シルビオは手紙を読んだのだろうか。高鳴っていた心臓が、違う意味でドキドキと脈打ち始める。バレたら、どうなるのだろう。何も告げずに姿を消すよりも、本当のことを打ち明けてしまった方がいいのではないか。そう思ったけれど、結局ネリアの意思は変わらなかった。
「エリシア、ですわ」
「……」
王国のため、とエリシアに頼まれたのだ。たとえ嘘だとバレて地下牢に入れられても、死ぬことになっても。王女として、ここで投げ出すわけにはいかない。心臓の音が聞こえてしまいそうな距離で、ネリアはじっとシルビオの反応を待つ。ゆっくりと顔を上げたシルビオの顔には、表情は浮かんでいなくて、底冷えするような碧眼だけが爛々と輝いていた。自分が何か重大な選択を誤ったような感覚に囚われながら、それでも引き返せないネリアは唇を引き結ぶ。
「わかった」
シルビオはそれだけ呟いて頷くと、テーブルの上の本に手を伸ばす。何も言わずに読書を再開するので、拍子抜けしてしまった。
*
空に銀色の満月が輝く夜。真っ白い衣装に身を包んだネリアは、シルビオの部屋で押し倒されている。
「で? 名前を聞こうか?」
昨日と聞かれていることは全く同じなのに、シルビオの様子はまるで違う。眉間に皺を寄せ、こめかみに青筋を浮かべて、ネリアに覆い被さる。掴まれた両手首は、しっかりとシーツに縫い留められていて抜け出せそうにない。痛みに顔を顰めるけれど、シルビオが気にした様子もない。頑なに口を開こうとしないネリアの顎を右手で掴みあげる。片手が自由になったけれど、それだけでどうにかできるはずもなかった。
「この期に及んでだんまりか? 偽物だってバレてんのに」
「っ……」
投げつけられた言葉に、心臓が痛む。確かにネリアはエリシアではないけれど、それでも王女なのに。じわりと滲む視界に、怯んだような表情を浮かべるシルビオが見えたけれど、それも一瞬。「黙ってねえでなんとか言えって」と冷たく言い放たれる。
――どうして、こうなったんだろう。
今更なことが頭を過ぎる。マリーの手紙通り、満月の夜にネリアは皇宮の裏門へと向かった。侍女を下がらせ、誰にも告げずに部屋を抜け出したネリア。さすがに帝国で与えられた服を着ていくわけにはいかないだろう、とエリシアに着せられた真っ白い衣装に身を包み、夜の皇宮をコソコソと忍び歩く。見回りの兵士や使用人と遭遇しないよう細心の注意を払ったけれど、拍子抜けするほど誰とも会わない。その時点で、何かがおかしいと気がつくべきだった。
お披露目パーティーの後に散策した以来の庭園を、景色を楽しむまもなく駆け抜ける。庭園にもやはり人はいなくて、こんなに人のいない皇宮は初めてだわ、なんて呑気なことを考えていた。誰にも会うことなく、裏門まで辿り着きそっと扉を開ける。帝国に連れてこられた日以来の、外の世界。
鼓動する心臓のあたりに手を当てて辺りを見回すと、マリーはすぐに見つかった。どこかやつれているようにも見えるマリーに駆け寄り、「元気だった? エリシアはどこ? 今からどこにいくの?」と矢継ぎ早に尋ねるネリア。けれど、マリーは気まずそうに俯くばかり。一体どうしたのだろうと首を傾げていると、背後から足音が聞こえた。
慌てて振り向くと、そこにはシルビオの姿。ひゅっと息を呑む間に、その後ろから現れた兵士がマリーを捕えた。動けずにいるネリアに、「満月の夜に散歩にでも行こうってかあ?」と皮肉げに尋ねるシルビオ。その瞬間、全てを悟った。おそらく手紙を渡された時点で、マリーを捕えて中身も検めたのだろう。その上で、ネリアがボロを出すように仕向けるため、あえて読んでいない振りをしていたのだ。何も知らずに皇宮を練り歩いていた自らの呑気さに、俯いた顔を上げられない。
何も答えないネリアの手首をシルビオは無言で掴むと、そのまま皇宮へと引き返す。「ま、マリーに酷いことしないであげて」と震える声で告げるネリアに、「……お前の対応次第だな」とシルビオは返した。
そうして、俯いている間に連れてこられたのはシルビオの部屋。乱雑に寝台へと投げられ、抵抗する間もなく覆い被さられる。シルビオに押し倒されたのは二度目だけれど、そのときともなんだか違う。どうしてか、泣きそうにも見える表情に、心臓が軋んだ。顎から手を離したシルビオは、「どうしても答えないつもりか?」とネリアの服に手をかけた。ビリッと繊維が破れる音がする。
「っ!? なっ、何してっ……!」
慌てて声を上げる間もない。咄嗟に空いた片手で胸を隠したのを、鼻で笑われる。顔が近づいたかと思うと、唇を強引に塞がれてしまった。目を見開いていると、長いまつ毛の一本一本まで見える。舌をねじ込まれて息が苦しいせいで、生まれて初めてのキスに感慨深さを覚える余裕もない。歯列を舌でなぞられ、上顎をくすぐられる。舌を吸われて力が抜けたのは見逃してもらえず、胸を隠す手を強引にどかされた。胸を揉みしだく力が強いせいだろうか、心臓が握りつぶされたように痛い。
「んっ、ふぅっ……」
「下手くそ。鼻で息しろって」
呆れたように言われるけれど、そんな余裕はない。口内で追いかけてくる舌から必死に逃げるけれど、あっさり捕まってしまった。呼吸ができなくて、頭がぼーっとする。ようやく唇が離れたかと思うと、中途半端に脱がされた服に手をかけられる。このまま、最後までするのだろうか。正体がバレてしまったことに焦っているのか、偽物だと決め付けられているのが悔しいのか、何の感慨もなく初めてを奪われようとしているのが悲しいのか。ぐるぐると頭で渦巻く感情を、うまく処理できない。
「ご、ごめんなさい、ごめ、んなさい、ごめんなさいっ……」
ボロボロと大粒の涙が頬を伝う。急に泣き出したネリアに驚いたのか、もう片方の手首も解放された。両手で顔を覆い、ただただ謝ることしかできない。耳鳴りがしそうなほど静まり返った部屋に、ネリアの鳴き声だけが響く。どうにか言い訳しないと、と思うのにまともな言葉は何も出てこない。やがて、「……なんで、黙って出て行こうとした?」とシルビオの声が聞こえる。恐る恐る両手を外すと、ぼやけた視界にシルビオが映る。
「どこにも行くなよ」
頼むから、と懇願するようにネリアの肩に額を埋めるシルビオ。一瞬見えた顔は苦しげに顰められていて、それがどうしてかネリアにはわからなかった。
『ネリア様
次の満月の夜、誰にも言わずに皇宮の裏門までお越しくださいませ。お迎えにあがります。
マリー』
裏返してみても、内容はこれだけ。ネリアの安否を気遣う言葉も、マリーやエリシアの安否を告げるような言葉もない。素っ気ないとも取れそうな手紙だけれど、知らせがあったこと自体が良い報せだろう。ほっと安堵の息を吐いた。けれど、それはそれとして。
――迎えに来るって、どういうことなんだろう。
覚えている限り、マリーが帝国に行ったことがあると聞いた記憶はない。にも関わらず、皇宮の裏門を指定してきたのはどういうことなのか。迎えにきてくれたとして、一体どこへ連れて行かれるのだろう。それに、「誰にも言わずに」というのも気になる。こっそり皇宮を抜け出すことを指示されているけれど、そんなことは可能なのだろうか。エリシアがどこにいるのかも気になる。知りたいことが山ほどあるのに、あまりにも情報が少ない。
――エリシアとは、話せるかしら。
もしエリシアに会えるのなら、話したいことがたくさんある。今まで何をしていたのか、やらなければならないことはできたのか、王国のこれからをどう考えているのか。来る日も来る日も妃教育に励み、王国はどう足掻いても帝国には勝てないことを悟った。国王夫妻は亡くなり、中枢を担えるであろう貴族は行方不明。エリシアが女王として即位するより、帝国に統治を任せた方が国民はきっと幸せだろう。偽物のネリアではなく、本物のエリシアがシルビオと結婚する。もともとエリシアの身代わりで結んだのであって、ネリアが婚約したわけではないのだ。あるべき姿に戻るだけのこと、それだけのことなのに。
――もう、会えなくなるんだ。
身代わり期間の終わりを急に実感する。次の満月の夜は一週間後。ついこの間、お別れに備えなければと思っていたけれど、こんなに早いとは思わなかった。一抹の寂しさを覚えたけれどそれでも、マリーからの曖昧な手紙を信じることに躊躇いはない。誰からも存在を知られていないネリアのことを、唯一知ってくれていたのはマリーとエリシアだけなのだ。二人の言うことなら、一も二もなく信じるのは致し方ない。
――殿下は、本当に読んでないのかしら。
書き出しにネリアの名前が書かれている手紙を見返す。綺麗に封がされていたけれど、一度開けた手紙を魔法で閉じることはできるだろう。口が悪い割に根が善人である彼は、平時であれば他人への手紙を勝手に開けるようなことはきっとしない。けれど、誰かもわからない人物が婚約者に宛てた手紙を、検めることもしないまま渡すような人だろうか。おまけに、マリーの名前が出たことに動揺しすぎて、「覚えがあるか」という質問に頷くという失態を犯している。あの場で疑われ、手紙を見せろと言われてもおかしくなかったのに、そうされなかったことが今になって引っかかる。
ネリアを信じてくれているのか、それとも。
*
それからの日々は、意外なほど穏やかに過ぎた。
シルビオとはその後も夜に顔を合わせたけれど、手紙の「て」の字も口にしない。まるでマリーに出会った事実すらなかったかのようだ。詮索されるよりよっぽどマシだけれど、何も言われないのも気にはなる。やっぱりシルビオは手紙を読んでいて、その上で泳がされているのではないかと疑ってしまうけれど、ネリアからそれを言い出すことはできなかった。
相変わらずシルビオの膝に乗せられたまま、手に持つ本越しにこっそりとシルビオの方を盗み見る。雑談の話題は意外と尽きないけれど、たまにこうして二人で黙々と読書に勤しむこともある。こんなふうに沈黙が苦にならない時間を一緒に過ごせるようになるとは、初対面のときは思わなかった。透き通るような碧眼が文字を追う様子を見ながら、相変わらず黙っていたら王子様みたいだ、と失礼なことを思ったとき。シルビオの視線が本からネリアに映る。考えがバレてしまったのだろうか、とドギマギしていると、「さっきから見てるけど、何?」と尋ねられた。
「な、なんでもありませんわ」
「……どうせまた、黙ってたら王子様みたいだとか思ってたんだろ」
「どうしてわかりましたの!?」
「当たりかよ」
「あっ……!」
思わず口をぱちんと抑えると、「わかりやすいな、相変わらず」と呆れたように笑われる。馬鹿にするでもなく、嘲るでもないその笑みに、どうしてか顔が熱くなった。親愛のような眼差しは、エリシアにも向けられるのだろうか。きっと向けられるのだろう。ことあるごとに、「ちょっと可愛いからって」とよくわからない言いがかりをつけられるのだ。よくわからないけれど、ネリアの顔が気に入っていることには違いない。同じ顔をしたエリシアのことも、すぐに気に入るだろう。それがなんだか寂しく思うのは、きっと気のせいだ。
「あのさ」
「!」
本を置いたシルビオが、ネリアを抱きしめる。咄嗟のことで、栞を挟む間もない。そのまま閉じてしまった本をソファに置くしかなかった。縋り付くようにして、ネリアの肩に額を擦り付けるようなシルビオ。今までにない力強さに、ドキドキしてしまった。
「俺に言いたいこと、ある?」
「え? あ、ありません、けど……」
「ふうん……本当はなんて名前なの?」
「えっ!?」
脈絡のない質問に驚くけれど、シルビオはネリアの肩から顔を離さない。しがみつく力が強いせいで、身じろぎもできない。まるでネリアがどこかへ行こうとしているのを察して、引き止めようとしているかのようだ。やっぱり、シルビオは手紙を読んだのだろうか。高鳴っていた心臓が、違う意味でドキドキと脈打ち始める。バレたら、どうなるのだろう。何も告げずに姿を消すよりも、本当のことを打ち明けてしまった方がいいのではないか。そう思ったけれど、結局ネリアの意思は変わらなかった。
「エリシア、ですわ」
「……」
王国のため、とエリシアに頼まれたのだ。たとえ嘘だとバレて地下牢に入れられても、死ぬことになっても。王女として、ここで投げ出すわけにはいかない。心臓の音が聞こえてしまいそうな距離で、ネリアはじっとシルビオの反応を待つ。ゆっくりと顔を上げたシルビオの顔には、表情は浮かんでいなくて、底冷えするような碧眼だけが爛々と輝いていた。自分が何か重大な選択を誤ったような感覚に囚われながら、それでも引き返せないネリアは唇を引き結ぶ。
「わかった」
シルビオはそれだけ呟いて頷くと、テーブルの上の本に手を伸ばす。何も言わずに読書を再開するので、拍子抜けしてしまった。
*
空に銀色の満月が輝く夜。真っ白い衣装に身を包んだネリアは、シルビオの部屋で押し倒されている。
「で? 名前を聞こうか?」
昨日と聞かれていることは全く同じなのに、シルビオの様子はまるで違う。眉間に皺を寄せ、こめかみに青筋を浮かべて、ネリアに覆い被さる。掴まれた両手首は、しっかりとシーツに縫い留められていて抜け出せそうにない。痛みに顔を顰めるけれど、シルビオが気にした様子もない。頑なに口を開こうとしないネリアの顎を右手で掴みあげる。片手が自由になったけれど、それだけでどうにかできるはずもなかった。
「この期に及んでだんまりか? 偽物だってバレてんのに」
「っ……」
投げつけられた言葉に、心臓が痛む。確かにネリアはエリシアではないけれど、それでも王女なのに。じわりと滲む視界に、怯んだような表情を浮かべるシルビオが見えたけれど、それも一瞬。「黙ってねえでなんとか言えって」と冷たく言い放たれる。
――どうして、こうなったんだろう。
今更なことが頭を過ぎる。マリーの手紙通り、満月の夜にネリアは皇宮の裏門へと向かった。侍女を下がらせ、誰にも告げずに部屋を抜け出したネリア。さすがに帝国で与えられた服を着ていくわけにはいかないだろう、とエリシアに着せられた真っ白い衣装に身を包み、夜の皇宮をコソコソと忍び歩く。見回りの兵士や使用人と遭遇しないよう細心の注意を払ったけれど、拍子抜けするほど誰とも会わない。その時点で、何かがおかしいと気がつくべきだった。
お披露目パーティーの後に散策した以来の庭園を、景色を楽しむまもなく駆け抜ける。庭園にもやはり人はいなくて、こんなに人のいない皇宮は初めてだわ、なんて呑気なことを考えていた。誰にも会うことなく、裏門まで辿り着きそっと扉を開ける。帝国に連れてこられた日以来の、外の世界。
鼓動する心臓のあたりに手を当てて辺りを見回すと、マリーはすぐに見つかった。どこかやつれているようにも見えるマリーに駆け寄り、「元気だった? エリシアはどこ? 今からどこにいくの?」と矢継ぎ早に尋ねるネリア。けれど、マリーは気まずそうに俯くばかり。一体どうしたのだろうと首を傾げていると、背後から足音が聞こえた。
慌てて振り向くと、そこにはシルビオの姿。ひゅっと息を呑む間に、その後ろから現れた兵士がマリーを捕えた。動けずにいるネリアに、「満月の夜に散歩にでも行こうってかあ?」と皮肉げに尋ねるシルビオ。その瞬間、全てを悟った。おそらく手紙を渡された時点で、マリーを捕えて中身も検めたのだろう。その上で、ネリアがボロを出すように仕向けるため、あえて読んでいない振りをしていたのだ。何も知らずに皇宮を練り歩いていた自らの呑気さに、俯いた顔を上げられない。
何も答えないネリアの手首をシルビオは無言で掴むと、そのまま皇宮へと引き返す。「ま、マリーに酷いことしないであげて」と震える声で告げるネリアに、「……お前の対応次第だな」とシルビオは返した。
そうして、俯いている間に連れてこられたのはシルビオの部屋。乱雑に寝台へと投げられ、抵抗する間もなく覆い被さられる。シルビオに押し倒されたのは二度目だけれど、そのときともなんだか違う。どうしてか、泣きそうにも見える表情に、心臓が軋んだ。顎から手を離したシルビオは、「どうしても答えないつもりか?」とネリアの服に手をかけた。ビリッと繊維が破れる音がする。
「っ!? なっ、何してっ……!」
慌てて声を上げる間もない。咄嗟に空いた片手で胸を隠したのを、鼻で笑われる。顔が近づいたかと思うと、唇を強引に塞がれてしまった。目を見開いていると、長いまつ毛の一本一本まで見える。舌をねじ込まれて息が苦しいせいで、生まれて初めてのキスに感慨深さを覚える余裕もない。歯列を舌でなぞられ、上顎をくすぐられる。舌を吸われて力が抜けたのは見逃してもらえず、胸を隠す手を強引にどかされた。胸を揉みしだく力が強いせいだろうか、心臓が握りつぶされたように痛い。
「んっ、ふぅっ……」
「下手くそ。鼻で息しろって」
呆れたように言われるけれど、そんな余裕はない。口内で追いかけてくる舌から必死に逃げるけれど、あっさり捕まってしまった。呼吸ができなくて、頭がぼーっとする。ようやく唇が離れたかと思うと、中途半端に脱がされた服に手をかけられる。このまま、最後までするのだろうか。正体がバレてしまったことに焦っているのか、偽物だと決め付けられているのが悔しいのか、何の感慨もなく初めてを奪われようとしているのが悲しいのか。ぐるぐると頭で渦巻く感情を、うまく処理できない。
「ご、ごめんなさい、ごめ、んなさい、ごめんなさいっ……」
ボロボロと大粒の涙が頬を伝う。急に泣き出したネリアに驚いたのか、もう片方の手首も解放された。両手で顔を覆い、ただただ謝ることしかできない。耳鳴りがしそうなほど静まり返った部屋に、ネリアの鳴き声だけが響く。どうにか言い訳しないと、と思うのにまともな言葉は何も出てこない。やがて、「……なんで、黙って出て行こうとした?」とシルビオの声が聞こえる。恐る恐る両手を外すと、ぼやけた視界にシルビオが映る。
「どこにも行くなよ」
頼むから、と懇願するようにネリアの肩に額を埋めるシルビオ。一瞬見えた顔は苦しげに顰められていて、それがどうしてかネリアにはわからなかった。