身代わり王女は隣国の皇弟に囚われる
18
「あー……」
ゴン、と執務机に額を押し付けるシルビオ。先ほどから書類は一枚も減っていない。書類だけではない、やらなければならないことは山ほどあるのだ。手を休めることなくこなしていかなければ今日中に終わらないし、終わらなければ家臣たちにどう見られるかわかったものではない。平民出身のシルビオを見る目は今も厳しく、だからこそ何も言われないよう務めてきたのに。どれ一つとして手につかず、ため息を繰り返すばかりだ。
「殿下……って、うわ死んでいらっしゃる」
ノックの音に返事をしないうちに、ドアが開く。「死んでねえわ」と返しながら顔を上げると、予想通り侍従のリオンがそこにいた。「うわ隈がすごい」と目を丸くしているけれど、昨日の夜は眠れなかったのだ。それもそうだろう。すでに山積みの書類に、さらに書類を重ねるリオン。ゲンナリとした顔でそれを見ていると、呆れたように息を吐いた。
「そんなに落ち込むのなら、最初からすべてお話しになればよかったのに」
「うるせえな」
マリーを捕えたことも、手紙を読んだことも。どちらも告げなかったのは、シルビオの指示。捕えたマリーは早々に口を割り、エリシア――ネリアのことを洗いざらい吐いた。
十八年前、キシュ王国に双子が生まれたこと。魔力を持つ方は稀代の魔法使いと持て囃されるようになり、持たない方は生まれたことすら知られないまま塔に閉じ込められたこと。魔力を持たず迫害されていたマリーは実の子と引き離され、乳母としてネリアを育てたこと。ネリアは帝国に連れてこられるまで、塔から出たこともなく、エリシアとマリーとしか関わったことがないこと。
マリーが語る内容は、うっすら想像していたもので、特別驚くようなものでもない。顔立ちと瞳の色は同じだけれど、髪の色と魔力が明らかに噂に聞くエリシアのものとは違うのだ。他人を魔法で似せたような痕跡もなく、おそらくは姉妹か影武者だろうとは思っていたけれど。まさか、魔力がないからという理由で、生まれたばかりの王女を閉じ込めるとは想像もしていなかった。改めて、隣国の異常性を思い知らされたようだ。
ネリアの過去を語って聞かせたマリーだけれど、王国での一連の事件や本物のエリシアの居場所はわからないらしい。あの日、ネリアの代わりに外の様子を見に行ったマリーは、攻めてきた帝国兵に慄き、物陰に隠れてやり過ごしていたそうだ。王宮の様子を見に行こうにも、帝国兵がうろついている。結局状況がわからないままに塔に戻ると、ネリアは忽然と姿を消していた。
探しに行こうとはしていたそうだが、帝国兵がそこら中を彷徨いている上、マリーに魔力はない。王国民に見つかれば、どういう扱いを受けるかは身を持って知っている。塔の中で息を潜めて過ごしていると、唐突にエリシアが現れたそうだ。彼女はマリーに手紙を書くよう指示を出すと、帝国兵に渡すように言い渡す。どういうことかと食い下がったマリーだけれど、稀代の魔法使いに楯突けるはずもない。そうして、怯えながらも目についた帝国兵に手紙を渡し、それがリオンだったと言うわけだ。
エリシア王女に仕えた記録のないマリーに対して、覚えはあると頷いた時点でネリアが偽物であると自白したも同然。その時点で、問いただせばよかったのだ。地下牢に入れたマリーの前に連れて行き、彼女を解放して欲しいなら知っていることを全て話せと、詰め寄ればよかった。だというのに、そうしなかったのは。
――あいつの口から、名前を聞きたかったなんて。
自分で思っている以上に、シルビオはネリアに入れ込んでいた。彼女が本物の「エリシア王女」でないことなど、最初からわかっていたこと。エリシアのふりをしなければならない理由があるのなら、話してほしかった。シルビオにできることがあるなら、頼ってほしかった。結局、ネリアには頼ってもらうどころか、名前すら明かしてはもらえなかったけれど。裏門からコソコソと外へ出てこうとするネリアの背中を見たときの、筆舌に尽くしがたい感情ときたら。
俯くネリアを押し倒すと、目の前が真っ赤に染まるような感覚を覚えた。日の光を浴びたことがなさそうな白い肌に跡をつけ、忘れることもできないぐらい自身を刻みつけ、二度とどこかへ行こうだなんて思えなくしてやりたい。そんな暴力的な衝動に身を任せそうになったシルビオを、我に返したのはネリアだった。押し倒されて小さい子供のように泣きじゃくり、一生懸命に赦しを乞うネリア。どこにも行かないでほしい、だなんて懇願するつもりはなかったのに。ネリアの前だと、どうも様子がおかしくなってしまう。
泣きじゃくるネリアにシーツを被せ、自分の部屋を後にしたシルビオ。そのまま執務室にこもり今に至るわけだけれど、昨日から結局一睡もできていない。ほとんど徹夜状態なのだから、書類仕事が進まないのも無理はなかった。はあ、とため息を吐くシルビオを気にすることなく、リオンは書類を仕分けている。優秀な侍従は今日も今日とて優秀だ。
「殿下、ネリア様への聞き取りはいかがなさるおつもりですか?」
「……今日中には」
「できるんですか?」
「やってやるよ」
シルビオの私情と皇弟としての責務を切り離さなければならないのは、齢十歳にして叩き込まれたことだ。ネリアに対する失恋にも似た気持ちは振り切らなければならない。このまま書類仕事にあたっても集中できないだろうし、様子でも見に行くか、と思ったときだった。ドンドンドン、と慌ただしく扉が叩かれる。「なんでしょう」とリオンが首を傾げつつも音の方へと向かう間に、勢いよく開かれた扉から一人の兵士が転がり込んだ。
「お、恐れながら申し上げます……!」
慌てた様子で入ってきたのはシルビオの部屋の警備を任せていた兵士だった。
*
玉座の間に座るのは、皇帝ライナスとその婚約者であるセレステ。不安そうに眉間に皺を寄せるセレステとは対照的に、ライナスはいつも通りの無表情だ。先触れを出しておいたので、事情は伝わっているはずだけれど。どう思っているのか、表情からは読み取りにくい。
「お時間を取っていただき、ありがとうございます」
「問題ない。それより、本題に入れ」
「はい。城内に侵入者を許し、捕えていたキシュ王国のネリア王女を攫われました」
執務室に飛び込んできた兵士が、血相を変えて伝えたのはネリアが誘拐されたということだった。「攫われた? 誰に?」と立ち上がるシルビオに、「わ、わかりません。気づけば気を失っていて……」と困惑げに話す兵士。城内の警備はいつも通りで、部屋の前には数人の兵士を待機させていた。おまけにシルビオの部屋には、皇宮魔術師が結界まで張っていたのだ。誰にも気づかれずに入り込むなんて真似は、それこそ正確な転移魔法でも使わない限り不可能だろう。
そこまで思い至ったところで、リオンと顔を合わせる。どうやら彼も同じことを思ったようだ。地下牢のマリーの元へ、話を聞きにいくべきか。そんなことを考えていると、「部屋に落ちていました」と兵士に何かを差し出される。受け取ったそれを見てみると、ブラックサファイアのネックレス。婚約のお披露目パーティーで、シルビオがネリアに贈ったものだった。引き千切られているそれを見て、ネリアが自分から部屋を出た可能性を捨てた。よっぽど気に入っていたのか、湯浴みと就寝時以外は肌身離さずつけていたことを知っている。彼女の意に反して、誘拐が行われたことは明白だった。
シルビオの報告を聞いても、陛下は表情を変えない。隣に座るセレステが全ての感情を持っていってしまったのだろうか、と錯覚するほどだ。マリーから聞き出した情報は、すでにライナスとセレステにも共有している。その上で婚約をどうするのか、ライナスの口からはまだ聞いていない。口の中が渇くのを感じながら、ライナスの言葉を待つシルビオ。やがて、ライナスが重々しく沈黙を破った。
「彼女を、探しに行くのか」
「! はい」
まさに、シルビオが交渉しようとしていたことだ。ネリアを連れ戻しにいくことに、大義名分はない。シルビオが婚約を結んだのは、「エリシア王女」であって、ネリアではない。遅かれ早かれ、ネリアがエリシア王女でないことは帝国内に広まる話だろう。国民の誰にも存在を知られていないネリアを王女とは認めず、婚約に反対する臣下も現れるかもしれない。それでも、だ。
「彼女はエリシア王女ではありません。ですが、私はあの者を……ネリア王女を妃に迎えたいと考えています」
本当のことは何一つ話してくれず、本名すら明かしてくれなかったけれど。それでも、これまでに過ごした日々の全てが嘘だったとは到底思えない。唐突に連れてこられた帝国で努力する姿も、シルビオを侯爵から庇ってくれたのも、ネックレスを贈ったときの嬉しそうな顔も。シルビオの碧眼に映るネリアは、取り繕っていたときもあったけれど、そうではないときだって確かにあった。彼女が「エリシア王女」だから惹かれたのではない、「ネリア」だからこそ惹かれたのだ。
――それに。
昨日泣かせてしまったことと、無理やり犯そうとしたことをまだ謝っていない。二度も泣かせておいて、会いたいだなんて虫のいい話かもしれないけれど、シルビオはどうしても彼女に会いたかった。本当の名前を、他でもない彼女の口から聞きたかった。
「どうか、彼女を探しにいく許可を」
そう告げて頭を垂れる。心臓がバクバクとうるさい。ここでシルビオがごねたところで、陛下が首を横に振ればそれで終わる話。そうなったとき、皇弟として諦めるのか、シルビオとしてネリアを探しにいくのか。その答えはまだ出ていなかった。セレステも、心なしか緊張したようにライナスを見つめている。一秒一秒が、やけに長く感じた。
「国民に知られていなかったとはいえ」
ライナスが口を開く。心臓が一際強く、脈打った。ゆっくりと唇を動かすのを、頭を上げて凝視する。
「彼女が王家の血を引いていることに変わりはない」
「!」
「私がお前に求めるものは、エリシア王女との婚姻ではない。キシュ王国王女との婚姻だ」
「陛下……」
「お前の婚約者を探しにいくことを、許可する」
相変わらず表情の変わらない兄。けれど、シルビオとは違うヘーゼルの瞳に優しく見つめられる。胸の奥から熱い何かが込み上げ、それだけで十分だと思えた。義兄の優しさにこれほどまでに感謝したことはないだろう。セレステも安心したのかゆっくりと息を吐き、「ネリア様を頼みましたわ」とシルビオに微笑んだ。
「ええ、義姉上。ありがとうございます、陛下」
「……兄として、弟の幸せを願うのは当然だろう」
そう言ったライナスは、確かに「皇帝」ではなく「兄」の顔をしていて、この人の弟で良かったと心の底から思った。「一時間後には王国へ向けて出立します」と告げると、「武運を祈る」とだけ返ってくる。立ち上がって一礼すると、踵を返して玉座の間を辞した。
ゴン、と執務机に額を押し付けるシルビオ。先ほどから書類は一枚も減っていない。書類だけではない、やらなければならないことは山ほどあるのだ。手を休めることなくこなしていかなければ今日中に終わらないし、終わらなければ家臣たちにどう見られるかわかったものではない。平民出身のシルビオを見る目は今も厳しく、だからこそ何も言われないよう務めてきたのに。どれ一つとして手につかず、ため息を繰り返すばかりだ。
「殿下……って、うわ死んでいらっしゃる」
ノックの音に返事をしないうちに、ドアが開く。「死んでねえわ」と返しながら顔を上げると、予想通り侍従のリオンがそこにいた。「うわ隈がすごい」と目を丸くしているけれど、昨日の夜は眠れなかったのだ。それもそうだろう。すでに山積みの書類に、さらに書類を重ねるリオン。ゲンナリとした顔でそれを見ていると、呆れたように息を吐いた。
「そんなに落ち込むのなら、最初からすべてお話しになればよかったのに」
「うるせえな」
マリーを捕えたことも、手紙を読んだことも。どちらも告げなかったのは、シルビオの指示。捕えたマリーは早々に口を割り、エリシア――ネリアのことを洗いざらい吐いた。
十八年前、キシュ王国に双子が生まれたこと。魔力を持つ方は稀代の魔法使いと持て囃されるようになり、持たない方は生まれたことすら知られないまま塔に閉じ込められたこと。魔力を持たず迫害されていたマリーは実の子と引き離され、乳母としてネリアを育てたこと。ネリアは帝国に連れてこられるまで、塔から出たこともなく、エリシアとマリーとしか関わったことがないこと。
マリーが語る内容は、うっすら想像していたもので、特別驚くようなものでもない。顔立ちと瞳の色は同じだけれど、髪の色と魔力が明らかに噂に聞くエリシアのものとは違うのだ。他人を魔法で似せたような痕跡もなく、おそらくは姉妹か影武者だろうとは思っていたけれど。まさか、魔力がないからという理由で、生まれたばかりの王女を閉じ込めるとは想像もしていなかった。改めて、隣国の異常性を思い知らされたようだ。
ネリアの過去を語って聞かせたマリーだけれど、王国での一連の事件や本物のエリシアの居場所はわからないらしい。あの日、ネリアの代わりに外の様子を見に行ったマリーは、攻めてきた帝国兵に慄き、物陰に隠れてやり過ごしていたそうだ。王宮の様子を見に行こうにも、帝国兵がうろついている。結局状況がわからないままに塔に戻ると、ネリアは忽然と姿を消していた。
探しに行こうとはしていたそうだが、帝国兵がそこら中を彷徨いている上、マリーに魔力はない。王国民に見つかれば、どういう扱いを受けるかは身を持って知っている。塔の中で息を潜めて過ごしていると、唐突にエリシアが現れたそうだ。彼女はマリーに手紙を書くよう指示を出すと、帝国兵に渡すように言い渡す。どういうことかと食い下がったマリーだけれど、稀代の魔法使いに楯突けるはずもない。そうして、怯えながらも目についた帝国兵に手紙を渡し、それがリオンだったと言うわけだ。
エリシア王女に仕えた記録のないマリーに対して、覚えはあると頷いた時点でネリアが偽物であると自白したも同然。その時点で、問いただせばよかったのだ。地下牢に入れたマリーの前に連れて行き、彼女を解放して欲しいなら知っていることを全て話せと、詰め寄ればよかった。だというのに、そうしなかったのは。
――あいつの口から、名前を聞きたかったなんて。
自分で思っている以上に、シルビオはネリアに入れ込んでいた。彼女が本物の「エリシア王女」でないことなど、最初からわかっていたこと。エリシアのふりをしなければならない理由があるのなら、話してほしかった。シルビオにできることがあるなら、頼ってほしかった。結局、ネリアには頼ってもらうどころか、名前すら明かしてはもらえなかったけれど。裏門からコソコソと外へ出てこうとするネリアの背中を見たときの、筆舌に尽くしがたい感情ときたら。
俯くネリアを押し倒すと、目の前が真っ赤に染まるような感覚を覚えた。日の光を浴びたことがなさそうな白い肌に跡をつけ、忘れることもできないぐらい自身を刻みつけ、二度とどこかへ行こうだなんて思えなくしてやりたい。そんな暴力的な衝動に身を任せそうになったシルビオを、我に返したのはネリアだった。押し倒されて小さい子供のように泣きじゃくり、一生懸命に赦しを乞うネリア。どこにも行かないでほしい、だなんて懇願するつもりはなかったのに。ネリアの前だと、どうも様子がおかしくなってしまう。
泣きじゃくるネリアにシーツを被せ、自分の部屋を後にしたシルビオ。そのまま執務室にこもり今に至るわけだけれど、昨日から結局一睡もできていない。ほとんど徹夜状態なのだから、書類仕事が進まないのも無理はなかった。はあ、とため息を吐くシルビオを気にすることなく、リオンは書類を仕分けている。優秀な侍従は今日も今日とて優秀だ。
「殿下、ネリア様への聞き取りはいかがなさるおつもりですか?」
「……今日中には」
「できるんですか?」
「やってやるよ」
シルビオの私情と皇弟としての責務を切り離さなければならないのは、齢十歳にして叩き込まれたことだ。ネリアに対する失恋にも似た気持ちは振り切らなければならない。このまま書類仕事にあたっても集中できないだろうし、様子でも見に行くか、と思ったときだった。ドンドンドン、と慌ただしく扉が叩かれる。「なんでしょう」とリオンが首を傾げつつも音の方へと向かう間に、勢いよく開かれた扉から一人の兵士が転がり込んだ。
「お、恐れながら申し上げます……!」
慌てた様子で入ってきたのはシルビオの部屋の警備を任せていた兵士だった。
*
玉座の間に座るのは、皇帝ライナスとその婚約者であるセレステ。不安そうに眉間に皺を寄せるセレステとは対照的に、ライナスはいつも通りの無表情だ。先触れを出しておいたので、事情は伝わっているはずだけれど。どう思っているのか、表情からは読み取りにくい。
「お時間を取っていただき、ありがとうございます」
「問題ない。それより、本題に入れ」
「はい。城内に侵入者を許し、捕えていたキシュ王国のネリア王女を攫われました」
執務室に飛び込んできた兵士が、血相を変えて伝えたのはネリアが誘拐されたということだった。「攫われた? 誰に?」と立ち上がるシルビオに、「わ、わかりません。気づけば気を失っていて……」と困惑げに話す兵士。城内の警備はいつも通りで、部屋の前には数人の兵士を待機させていた。おまけにシルビオの部屋には、皇宮魔術師が結界まで張っていたのだ。誰にも気づかれずに入り込むなんて真似は、それこそ正確な転移魔法でも使わない限り不可能だろう。
そこまで思い至ったところで、リオンと顔を合わせる。どうやら彼も同じことを思ったようだ。地下牢のマリーの元へ、話を聞きにいくべきか。そんなことを考えていると、「部屋に落ちていました」と兵士に何かを差し出される。受け取ったそれを見てみると、ブラックサファイアのネックレス。婚約のお披露目パーティーで、シルビオがネリアに贈ったものだった。引き千切られているそれを見て、ネリアが自分から部屋を出た可能性を捨てた。よっぽど気に入っていたのか、湯浴みと就寝時以外は肌身離さずつけていたことを知っている。彼女の意に反して、誘拐が行われたことは明白だった。
シルビオの報告を聞いても、陛下は表情を変えない。隣に座るセレステが全ての感情を持っていってしまったのだろうか、と錯覚するほどだ。マリーから聞き出した情報は、すでにライナスとセレステにも共有している。その上で婚約をどうするのか、ライナスの口からはまだ聞いていない。口の中が渇くのを感じながら、ライナスの言葉を待つシルビオ。やがて、ライナスが重々しく沈黙を破った。
「彼女を、探しに行くのか」
「! はい」
まさに、シルビオが交渉しようとしていたことだ。ネリアを連れ戻しにいくことに、大義名分はない。シルビオが婚約を結んだのは、「エリシア王女」であって、ネリアではない。遅かれ早かれ、ネリアがエリシア王女でないことは帝国内に広まる話だろう。国民の誰にも存在を知られていないネリアを王女とは認めず、婚約に反対する臣下も現れるかもしれない。それでも、だ。
「彼女はエリシア王女ではありません。ですが、私はあの者を……ネリア王女を妃に迎えたいと考えています」
本当のことは何一つ話してくれず、本名すら明かしてくれなかったけれど。それでも、これまでに過ごした日々の全てが嘘だったとは到底思えない。唐突に連れてこられた帝国で努力する姿も、シルビオを侯爵から庇ってくれたのも、ネックレスを贈ったときの嬉しそうな顔も。シルビオの碧眼に映るネリアは、取り繕っていたときもあったけれど、そうではないときだって確かにあった。彼女が「エリシア王女」だから惹かれたのではない、「ネリア」だからこそ惹かれたのだ。
――それに。
昨日泣かせてしまったことと、無理やり犯そうとしたことをまだ謝っていない。二度も泣かせておいて、会いたいだなんて虫のいい話かもしれないけれど、シルビオはどうしても彼女に会いたかった。本当の名前を、他でもない彼女の口から聞きたかった。
「どうか、彼女を探しにいく許可を」
そう告げて頭を垂れる。心臓がバクバクとうるさい。ここでシルビオがごねたところで、陛下が首を横に振ればそれで終わる話。そうなったとき、皇弟として諦めるのか、シルビオとしてネリアを探しにいくのか。その答えはまだ出ていなかった。セレステも、心なしか緊張したようにライナスを見つめている。一秒一秒が、やけに長く感じた。
「国民に知られていなかったとはいえ」
ライナスが口を開く。心臓が一際強く、脈打った。ゆっくりと唇を動かすのを、頭を上げて凝視する。
「彼女が王家の血を引いていることに変わりはない」
「!」
「私がお前に求めるものは、エリシア王女との婚姻ではない。キシュ王国王女との婚姻だ」
「陛下……」
「お前の婚約者を探しにいくことを、許可する」
相変わらず表情の変わらない兄。けれど、シルビオとは違うヘーゼルの瞳に優しく見つめられる。胸の奥から熱い何かが込み上げ、それだけで十分だと思えた。義兄の優しさにこれほどまでに感謝したことはないだろう。セレステも安心したのかゆっくりと息を吐き、「ネリア様を頼みましたわ」とシルビオに微笑んだ。
「ええ、義姉上。ありがとうございます、陛下」
「……兄として、弟の幸せを願うのは当然だろう」
そう言ったライナスは、確かに「皇帝」ではなく「兄」の顔をしていて、この人の弟で良かったと心の底から思った。「一時間後には王国へ向けて出立します」と告げると、「武運を祈る」とだけ返ってくる。立ち上がって一礼すると、踵を返して玉座の間を辞した。