身代わり王女は隣国の皇弟に囚われる
19
時は少し前に遡る。
ネリアはシルビオの部屋ではなく、王国の聖堂にいた。つい数ヶ月前に足を踏み入れた場所は、人がいないのでひっそりと静まり返っている。呆然と立ち尽くすネリアの前に立つのは、ネリアと同じ翡翠の瞳と、ネリアにはない白金の髪を持つ少女。稀代の魔法使いと持て囃されるキシュ王国の王女であり、ネリアの双子の姉――エリシアだ。
「おかえり、ネリア」
「っあ……」
はく、と空いた口から息が漏れる。数ヶ月ぶりに顔を合わせる姉は最後に会ったときから変わらない。白金の髪は眩いほどに輝き、立ち居振る舞いから気品が溢れている。ネリアがこの数ヶ月、必死になって身につけようとした教養や威厳を、生まれた瞬間から持ち合わせているかのようだ。
――皇宮の方は、大丈夫かしら。
先ほどまでいた場所である、シルビオの部屋に思いを馳せる。昨日シルビオに押し倒され、泣き疲れたネリアはそのまま眠ってしまった。目が覚めて慌てて部屋から出ようとしたけれど、鍵がかかっていて出られない。どうやら今度は、地下牢ではなくシルビオの部屋に閉じ込められるらしい。いずれ地下牢に移されるのかもしれないけれど、正体を偽っていた割に、軟禁場所の待遇は随分といい。マリーもどこかで捕まっているのだろうか、と再会したばかりで離れ離れになった侍女のことを考えていたときだった。エリシアが現れたのは。
「手荒な真似をしてごめんなさい」
そう言って、エリシアはネリアを抱き寄せる。シルビオの部屋の前で警備に当たっていた兵士を、片っ端から昏倒させた後とはとても思えない。
つい先ほど、シルビオの部屋にて。俄かに部屋の前が騒がしくなる気配に、なんだなんだと身を固くしていたのも束の間。押しても引いてもびくともしなかった扉が開き、エリシアが現れたのだ。驚いて声も出ないネリアに歩み寄ると、エリシアは腕を掴む。「この部屋、結界が張られているから魔法を使えないの」「あなたの気配を探知するのにも苦労したわ」などと言いながら、ネリアを引きずるようにして連れていくエリシア。部屋の外では、兵士たちが気を失っているのが見える。
ぐ、と足に力を込めて踏ん張るネリア。「ま、待って。どこへ行くの?」と尋ねる。エリシアの目的は見えないけれど、ただでさえ一度黙って出て行こうとして逆鱗に触れているのだ。二度も同じ轍を踏めば、エリシアが婚約者に変わる――というか、元に戻ることは絶望的だろう。「殿下のところへ行きましょう?」と今後のことを考えて提案してみたけれど、エリシアは聞く耳を持たない。
ぐいぐいと引っ張られるうちに、ドレスの下からブラックサファイアのネックレスが飛び出た。「なあに? これ。趣味の悪いネックレス」と何の感慨もなく引き千切られ、床に打ち捨てられてしまう。慌てて拾おうとしたけれど、その一瞬の隙をついて部屋の外へ引き摺り出された。指をぱちんと鳴らす耳慣れた音が響き、瞬きのうちに景色が変わる。
「私の身代わりをして、時間を稼いでくれて本当にありがとう」
ネリアを抱きしめたまま、エリシアはお礼を告げる。帝国での一連のやり取りなど、まるで綺麗さっぱり忘れ去っているかのようだ。自分が気絶させた兵士たちのことなど、どうとも思っていないのだと思うとぞっとする。彼らが無事であることを祈るばかりだ。
「おかげで、全ての準備が整ったわ」
「準備……?」
状況にうまくついていけず、首を傾げるネリア。準備、とはもしかして、「やらなければならないこと」に関することなのだろうか。一体何をやらなければならないのか、ついぞ聞けないまま、言われた通りにエリシアとして過ごしていたけれど。ようやく教えてもらえるのだろうか。無意識に、ごくりと生唾を飲み下すと、「聞いて、ネリア」とどこかはずんだ声でエリシアは微笑んだ。
「あなたも魔法を使えるようになるのよ」
「え……えっ!? わ、私が魔法を!?」
予想外の言葉に、そわりと浮き足立つ。王国が誇る稀代の魔法使いと持て囃されるエリシアと違い、ネリアには魔力の一欠片もない。神の加護を受けられなかった黒髪が何よりの証拠だ。双子の片方に魔力がないことを知ると両親は、「ネリア」という名前だけ与えて塔に閉じ込めた、それ以来、育ててくれたのは乳母であり侍女でもあるマリーで、会いにきてくれるのはエリシアだけ。両親の顔すら見たことはなく、国民の誰もネリアが存在することすら知らない。
――それでも構わない、ネリアが塔に閉じ込められることで王国の皆が平和に暮らせるのであれば。
そう思っていたのは本心だけれど、魔法に対する憧れはもちろんある。指をパチンと鳴らし、自由自在に魔法を操るエリシアをずっと間近で見てきたのだ。全知全能にも思えるその力に、憧れないはずがない。ネリア以上に嬉しそうなエリシアは、微笑みを絶やさずに口を開く。
「今までずっと実験に励んできた成果がようやく出たわ。帝国に嗅ぎつけられたときはどうなることかヒヤヒヤしたけれど」
あなたが時間を稼いでくれたおかげよ、と続けるエリシア。
「……え?」
何を言われたのか、理解できなかった。というより、理解することを頭が拒否した。エリシアの声は聞き取りやすく、言葉も明瞭。何を言われたのか自体はわかるけれど、意味を理解することができない、と言ったところだろうか。実験、帝国、身代わり。頭の中で回る単語がうまく結びつかない。
「ど、どういう意味?」
そう尋ねるだけで精一杯のネリアに、エリシアは優しく微笑む。自分と同じ顔が、ネリアが決して浮かべることのない表情を浮かべている。十八年間一緒にいたはずの、双子の姉なのに。得体の知れない何かが、目の前に立っているかのようだ。困惑するネリアに、「帝国はあなたのことを、思いの外丁重に扱ってくれたみたいね?」と尋ねる。ネリアがシルビオの部屋に軟禁されていたことを言っているのだろうか、それとも、シルビオと婚約したことを指しているのだろうか。どちらにせよ、思っていたより手ひどく扱われなかったことは事実。こくりと頷くネリアに、「それなら、どうして帝国が王国を攻めてきたのかも聞いているでしょう?」と重ねて尋ねる。
「あ……王国と帝国の国境沿いで、帝国の人たちが行方不明になっているから、その調査のためって……」
「私が攫ったの」
「え?」
「正確には、私が命令して王国の貴族たちに攫わせた、かしら」
言い直したところで、内容は変わらない。頭から徐々に血の気が失せていくネリアとは対照的に、エリシアの血色はいい。「王国の貴族から魔力を抽出して、帝国の魔力を持たない民間人に注入する魔法を開発していたの」「最初は抽出することもできなかったり、うまく注入できても拒絶反応が出たりで大変だったのよ?」などと、何も言わないネリアに語り続ける。
――エリシアが、犯人だったってこと?
帝国が攻めてきたとき、「わからないわ」と言っていたのに。あれは嘘だったのだろうか。本当に、帝国の村人や王国の貴族が行方不明になった事件の犯人がエリシアだとしたら。どうしてこんなにも、語り口調が軽快なのだろうか。まるで舞踏会での出来事を、ネリアに語って聞かせていたときのようだ。人の命をあまりに軽んじる言い草に、目の前の姉がいよいよ得体の知れない化け物のように思えてくる。彼女は、本当にエリシアなのだろうか。稀代の魔法使いと謳われ、持て囃されたキシュ王国の王女なのだろうか。じり、と後ずさるネリアに、エリシアは構うことなく続ける。
「ずっと、可哀想だったの」
「だれの、ことが……」
「もちろん、あなたのことよ。ネリア」
憐憫の情を込めた目を、エリシアはネリアに向ける。慈悲深いとも取れそうな視線を、素直に受け止めることはできなかった。「お父様とお母様に捨てられて、塔に閉じ込められて、国民の誰にも知られていないなんて、あまりに可哀想だわ」と事実を一つ一つ挙げ連ねるエリシア。ネリアも十分に理解していることだけれど、どうしてか古傷をナイフで抉られているような不快感を覚えた。
「同じ両親から同じ時間に生まれてきた双子なのに、ネリアだけ魔力が無いなんて不公平だわ」
「……」
「だから、あなたも魔法を使えるようにしてあげたかったの」
そう言ってネリアの手を取るエリシア。身代わりを頼まれたときと同じ、ほっそりとした艶々の手。ケイトとサラが毎晩手入れをしてくれるので、あのときに比べてネリアの手も少しはましになったけれど。それでも、十数年毎日欠かさず手入れをされてきたエリシアと、同じ手になることはないだろう。
「ようやく、魔法が完成したわ。これで、あなたも私と同じ魔法使いになれるのよ」
「……王国や、帝国の人たちは、どうなったの?」
「うん?」
握られた手をやんわりと振り解きながら、カラカラに渇いた口で尋ねる。魔法を開発するのに、王国や帝国の人を巻き込んで、それからどうなったのだろう。最悪の可能性に心臓がバクバクしていると、「お城の地下にいるわ」とエリシアはあっさり答えた。王宮に地下なんてあったのか、と驚く。塔でずっと暮らしていたネリアは、王宮内に入ったことは一度もない。
もしかして、エリシアは今までずっとそこに潜伏していたのだろうか。そんなことが、ふと頭によぎる。だとしたら、王国へ調査に赴いていたシルビオたちは、王宮の地下室を見つけられなかったのだろうか。それとも見つけていながら、ネリアに教えてくれなかったのだろうか。真偽のほどはわからないけれど、今はそんなことを気にしている場合ではない。悪びれた様子もないエリシアを睨みつける。
「どうしてそんなに他人事なの? エリシアが巻き込んだのに」
「王国の貴族たちは、私の頼みならと喜んで引き受けてくれたわよ?」
「だ、だとしても! 帝国の人たちは同意していないでしょう!?」
「どうしてそんなに怒るの? 帝国の人なんてあなたには関係ないじゃない」
「そう、だけど……」
歯切れの悪いネリアに、「それに、魔法を使えない人に価値なんてないでしょう?」と、諭すように続ける。
「……え?」
息が止まった気がした。頭を殴られたような衝撃を覚える。双子の姉は今、何と言ったのだろうか。言い放たれた言葉が信じられず、呆然としてしまう。「魔力を持たない人たちが、魔法を使えるようになるのよ? 実験に身を差し出して当然だわ」と続けるエリシア。自分の価値観を信じきっている様子に、背筋に怖気が走る。
「て、帝国の人たちが、そう言ったの?」
「いいえ? でも、魔法を使えるようになったら喜ぶに決まっているわ」
あなたと同じように、とエリシアは締め括る。翡翠の瞳は確かにネリアを映しているはずなのに、ネリアのことをちっとも見てはいない。「どうして、こんな酷いことを……!」と悲痛な叫びを上げるネリアだったけれど。少しの沈黙の後、聞こえたのは、「ふっ、あははっ……」と鈴を転がすような笑い声だった。
「な、何がおかしいの?」
「いえ、あのね。お父様とお母様と同じことを言うのね、と思って」
「え?」
妹に糾弾されている姉のリアクションとしては、あまりにそぐわない。くすくすと口元に手を当て、上品に笑うエリシア。こういうときでも、品を失わないあたり、王女として育てられただけはある。ネリアとは大違いだ。
「魔法の開発は、お父様とお母様には反対されたのよ。そんな酷いことはしてはいけないって」
そう語り始めるエリシア。ネリアが引いていることなど、お構いなしだ。
「だからお父様とお母様には内緒でお城の地下に隠し部屋を作って、貴族たちとこっそり進めていたの。でも、帝国が攻めてきた日に結局バレちゃって……」
まるで悪戯が失敗した子供のように、眉尻を下げる。そこに、罪悪感というものは微塵も存在しない。「二人の怒りようときたら。今まで散々稀代の魔法使いだなんだって私のことを褒めそやしてきたのに、手のひらを返すんだもの」と愚痴でも吐き出すかのような軽快さで言葉を続ける。
「だから、死んでもらったの」
「……え……?」
「ああ、もちろん直接手は下していないわ。心中を起こしたかのように操っただけ」
自殺したって言ったのはちょっとだけ嘘、と肩を竦めるエリシア。今日一日で、一体どれだけの情報量を詰め込まれているのだろう。くらり、と眩暈がして思わずしゃがみこむ。「大丈夫?」と心配そうに、エリシアが背中をさすろうとした、けれど。
「さ、触らないで!」
パチンと手を弾くと、エリシアは目を丸くした。まるで、ネリアに拒絶されるとは思わなかった、と言わんばかりの驚きように、ネリアの方が驚いた。これだけのことをしておいて、どうしてそんなこともわからないのだろう。塔に閉じ込められているネリアに足繁く会いにきて、王国での話を聞かせてくれたエリシア。二人で王国の王女なのだから、ネリアが閉じ込められることで王国の平和が保たれているのだと言ってくれたエリシア。その言葉があったから、ネリアは今までずっと生きてこられたのに。外への憧れを、どうにか押し殺してきたのに。
「わ、私のこと、本当はずっと、価値がないって思ってたの?」
「……」
「私とエリシアの、二人で王女だから……私は塔にいることで、エリシアは魔法を使うことで王国を守ってるんだって! そう言ってくれたのに!」
床にへたりこみ、エリシアを睨みつける。叫んだせいで喉がヒリヒリする。今まで信じてきた価値観を崩され、ネリアの頭の中はぐちゃぐちゃだった。瞳に涙さえ滲みそうなネリアに、「……馬鹿な妹」と憐れむように抱きしめる。耳元に唇を寄せると、こう言った。
「塔に閉じ込められることが王国を守ることに繋がるなんて、そんなこと本気で信じていたの?」
「え……」
「あんなの、魔法を使えないあなたを閉じ込めておくための嘘に決まっているじゃない」
本当に馬鹿な妹、と繰り返すエリシア。ガラガラと足場が崩れ、底の見えない真っ暗闇に突き落とされたかのような感覚を覚えた。十八年間、ネリアが信じてきたことは一体何だったのだろう。何のために我慢してきたのだろう。ぐらりと頭が揺れ、視界が歪む。
「可哀想なネリア。泣かないでちょうだい、すぐに魔法を使えるようにしてあげるから」
そう言って体を離すと、ネリアの手を取るエリシア。白魚のような指が、ネリアのそれに絡みつく。空いた手で指をパチンと鳴らすと、繋いだ手から熱いものが流れてくるような感覚を覚えた。
「な、何!?」
「怖がらないで」
離そうとした手を、強く掴まれた。指先から伝わる熱は、じわじわと全身を蝕む。逃れたくて身を捩るのに、エリシアは頑なに手を離そうとはしない。その間にも痛いほどの熱が身体中を駆け巡り、得体の知れない何かが体の中で暴れ回っているようだ。吐き気すら催し、空いた手で口を押さえ蹲ったときだった。不意に動きを止めたエリシアが、聖堂の扉に目を向ける。
「……外が騒がしいわね」
そういうと、エリシアはネリアの腕を掴み、指をパチンと鳴らす。いつものように瞬きの間に景色が変わるのだろうか、と自由の効かない体で身構えたけれど。
「……?」
何も起きない。ネリアの視界に映るのは、変わらず聖堂の床のまま。顔だけを上げてエリシアを見ると、「ああ、やっぱり」と想定内かのように呟いている。自らの手からネリアに視線を移動したエリシアはにっこりと微笑み、握り潰さんばかりに手を握りしめた。
「ああああっ!?」
「ごめんなさい、もっとゆっくり時間をかけてやりたかったのだけれど」
そうも言っていられなくて、とあまり申し訳なさそうには見えない顔で謝るエリシア。視界が徐々に狭まり、蹲ることすら辛い。ドタンッと何かが倒れるような音が鼓膜に響き、体に痛みが走る。少しして、自分が倒れたのだと気がついた。
「おやすみ、ネリア。目が覚めるのを楽しみにしていてね」
蹲るネリアの髪に唇を落とすエリシア。颯爽と立ち去る彼女の背中に手を伸ばしたけれど、届かない。徐々に瞼を開けていられなくなり、とうとう意識を手放した。
ネリアはシルビオの部屋ではなく、王国の聖堂にいた。つい数ヶ月前に足を踏み入れた場所は、人がいないのでひっそりと静まり返っている。呆然と立ち尽くすネリアの前に立つのは、ネリアと同じ翡翠の瞳と、ネリアにはない白金の髪を持つ少女。稀代の魔法使いと持て囃されるキシュ王国の王女であり、ネリアの双子の姉――エリシアだ。
「おかえり、ネリア」
「っあ……」
はく、と空いた口から息が漏れる。数ヶ月ぶりに顔を合わせる姉は最後に会ったときから変わらない。白金の髪は眩いほどに輝き、立ち居振る舞いから気品が溢れている。ネリアがこの数ヶ月、必死になって身につけようとした教養や威厳を、生まれた瞬間から持ち合わせているかのようだ。
――皇宮の方は、大丈夫かしら。
先ほどまでいた場所である、シルビオの部屋に思いを馳せる。昨日シルビオに押し倒され、泣き疲れたネリアはそのまま眠ってしまった。目が覚めて慌てて部屋から出ようとしたけれど、鍵がかかっていて出られない。どうやら今度は、地下牢ではなくシルビオの部屋に閉じ込められるらしい。いずれ地下牢に移されるのかもしれないけれど、正体を偽っていた割に、軟禁場所の待遇は随分といい。マリーもどこかで捕まっているのだろうか、と再会したばかりで離れ離れになった侍女のことを考えていたときだった。エリシアが現れたのは。
「手荒な真似をしてごめんなさい」
そう言って、エリシアはネリアを抱き寄せる。シルビオの部屋の前で警備に当たっていた兵士を、片っ端から昏倒させた後とはとても思えない。
つい先ほど、シルビオの部屋にて。俄かに部屋の前が騒がしくなる気配に、なんだなんだと身を固くしていたのも束の間。押しても引いてもびくともしなかった扉が開き、エリシアが現れたのだ。驚いて声も出ないネリアに歩み寄ると、エリシアは腕を掴む。「この部屋、結界が張られているから魔法を使えないの」「あなたの気配を探知するのにも苦労したわ」などと言いながら、ネリアを引きずるようにして連れていくエリシア。部屋の外では、兵士たちが気を失っているのが見える。
ぐ、と足に力を込めて踏ん張るネリア。「ま、待って。どこへ行くの?」と尋ねる。エリシアの目的は見えないけれど、ただでさえ一度黙って出て行こうとして逆鱗に触れているのだ。二度も同じ轍を踏めば、エリシアが婚約者に変わる――というか、元に戻ることは絶望的だろう。「殿下のところへ行きましょう?」と今後のことを考えて提案してみたけれど、エリシアは聞く耳を持たない。
ぐいぐいと引っ張られるうちに、ドレスの下からブラックサファイアのネックレスが飛び出た。「なあに? これ。趣味の悪いネックレス」と何の感慨もなく引き千切られ、床に打ち捨てられてしまう。慌てて拾おうとしたけれど、その一瞬の隙をついて部屋の外へ引き摺り出された。指をぱちんと鳴らす耳慣れた音が響き、瞬きのうちに景色が変わる。
「私の身代わりをして、時間を稼いでくれて本当にありがとう」
ネリアを抱きしめたまま、エリシアはお礼を告げる。帝国での一連のやり取りなど、まるで綺麗さっぱり忘れ去っているかのようだ。自分が気絶させた兵士たちのことなど、どうとも思っていないのだと思うとぞっとする。彼らが無事であることを祈るばかりだ。
「おかげで、全ての準備が整ったわ」
「準備……?」
状況にうまくついていけず、首を傾げるネリア。準備、とはもしかして、「やらなければならないこと」に関することなのだろうか。一体何をやらなければならないのか、ついぞ聞けないまま、言われた通りにエリシアとして過ごしていたけれど。ようやく教えてもらえるのだろうか。無意識に、ごくりと生唾を飲み下すと、「聞いて、ネリア」とどこかはずんだ声でエリシアは微笑んだ。
「あなたも魔法を使えるようになるのよ」
「え……えっ!? わ、私が魔法を!?」
予想外の言葉に、そわりと浮き足立つ。王国が誇る稀代の魔法使いと持て囃されるエリシアと違い、ネリアには魔力の一欠片もない。神の加護を受けられなかった黒髪が何よりの証拠だ。双子の片方に魔力がないことを知ると両親は、「ネリア」という名前だけ与えて塔に閉じ込めた、それ以来、育ててくれたのは乳母であり侍女でもあるマリーで、会いにきてくれるのはエリシアだけ。両親の顔すら見たことはなく、国民の誰もネリアが存在することすら知らない。
――それでも構わない、ネリアが塔に閉じ込められることで王国の皆が平和に暮らせるのであれば。
そう思っていたのは本心だけれど、魔法に対する憧れはもちろんある。指をパチンと鳴らし、自由自在に魔法を操るエリシアをずっと間近で見てきたのだ。全知全能にも思えるその力に、憧れないはずがない。ネリア以上に嬉しそうなエリシアは、微笑みを絶やさずに口を開く。
「今までずっと実験に励んできた成果がようやく出たわ。帝国に嗅ぎつけられたときはどうなることかヒヤヒヤしたけれど」
あなたが時間を稼いでくれたおかげよ、と続けるエリシア。
「……え?」
何を言われたのか、理解できなかった。というより、理解することを頭が拒否した。エリシアの声は聞き取りやすく、言葉も明瞭。何を言われたのか自体はわかるけれど、意味を理解することができない、と言ったところだろうか。実験、帝国、身代わり。頭の中で回る単語がうまく結びつかない。
「ど、どういう意味?」
そう尋ねるだけで精一杯のネリアに、エリシアは優しく微笑む。自分と同じ顔が、ネリアが決して浮かべることのない表情を浮かべている。十八年間一緒にいたはずの、双子の姉なのに。得体の知れない何かが、目の前に立っているかのようだ。困惑するネリアに、「帝国はあなたのことを、思いの外丁重に扱ってくれたみたいね?」と尋ねる。ネリアがシルビオの部屋に軟禁されていたことを言っているのだろうか、それとも、シルビオと婚約したことを指しているのだろうか。どちらにせよ、思っていたより手ひどく扱われなかったことは事実。こくりと頷くネリアに、「それなら、どうして帝国が王国を攻めてきたのかも聞いているでしょう?」と重ねて尋ねる。
「あ……王国と帝国の国境沿いで、帝国の人たちが行方不明になっているから、その調査のためって……」
「私が攫ったの」
「え?」
「正確には、私が命令して王国の貴族たちに攫わせた、かしら」
言い直したところで、内容は変わらない。頭から徐々に血の気が失せていくネリアとは対照的に、エリシアの血色はいい。「王国の貴族から魔力を抽出して、帝国の魔力を持たない民間人に注入する魔法を開発していたの」「最初は抽出することもできなかったり、うまく注入できても拒絶反応が出たりで大変だったのよ?」などと、何も言わないネリアに語り続ける。
――エリシアが、犯人だったってこと?
帝国が攻めてきたとき、「わからないわ」と言っていたのに。あれは嘘だったのだろうか。本当に、帝国の村人や王国の貴族が行方不明になった事件の犯人がエリシアだとしたら。どうしてこんなにも、語り口調が軽快なのだろうか。まるで舞踏会での出来事を、ネリアに語って聞かせていたときのようだ。人の命をあまりに軽んじる言い草に、目の前の姉がいよいよ得体の知れない化け物のように思えてくる。彼女は、本当にエリシアなのだろうか。稀代の魔法使いと謳われ、持て囃されたキシュ王国の王女なのだろうか。じり、と後ずさるネリアに、エリシアは構うことなく続ける。
「ずっと、可哀想だったの」
「だれの、ことが……」
「もちろん、あなたのことよ。ネリア」
憐憫の情を込めた目を、エリシアはネリアに向ける。慈悲深いとも取れそうな視線を、素直に受け止めることはできなかった。「お父様とお母様に捨てられて、塔に閉じ込められて、国民の誰にも知られていないなんて、あまりに可哀想だわ」と事実を一つ一つ挙げ連ねるエリシア。ネリアも十分に理解していることだけれど、どうしてか古傷をナイフで抉られているような不快感を覚えた。
「同じ両親から同じ時間に生まれてきた双子なのに、ネリアだけ魔力が無いなんて不公平だわ」
「……」
「だから、あなたも魔法を使えるようにしてあげたかったの」
そう言ってネリアの手を取るエリシア。身代わりを頼まれたときと同じ、ほっそりとした艶々の手。ケイトとサラが毎晩手入れをしてくれるので、あのときに比べてネリアの手も少しはましになったけれど。それでも、十数年毎日欠かさず手入れをされてきたエリシアと、同じ手になることはないだろう。
「ようやく、魔法が完成したわ。これで、あなたも私と同じ魔法使いになれるのよ」
「……王国や、帝国の人たちは、どうなったの?」
「うん?」
握られた手をやんわりと振り解きながら、カラカラに渇いた口で尋ねる。魔法を開発するのに、王国や帝国の人を巻き込んで、それからどうなったのだろう。最悪の可能性に心臓がバクバクしていると、「お城の地下にいるわ」とエリシアはあっさり答えた。王宮に地下なんてあったのか、と驚く。塔でずっと暮らしていたネリアは、王宮内に入ったことは一度もない。
もしかして、エリシアは今までずっとそこに潜伏していたのだろうか。そんなことが、ふと頭によぎる。だとしたら、王国へ調査に赴いていたシルビオたちは、王宮の地下室を見つけられなかったのだろうか。それとも見つけていながら、ネリアに教えてくれなかったのだろうか。真偽のほどはわからないけれど、今はそんなことを気にしている場合ではない。悪びれた様子もないエリシアを睨みつける。
「どうしてそんなに他人事なの? エリシアが巻き込んだのに」
「王国の貴族たちは、私の頼みならと喜んで引き受けてくれたわよ?」
「だ、だとしても! 帝国の人たちは同意していないでしょう!?」
「どうしてそんなに怒るの? 帝国の人なんてあなたには関係ないじゃない」
「そう、だけど……」
歯切れの悪いネリアに、「それに、魔法を使えない人に価値なんてないでしょう?」と、諭すように続ける。
「……え?」
息が止まった気がした。頭を殴られたような衝撃を覚える。双子の姉は今、何と言ったのだろうか。言い放たれた言葉が信じられず、呆然としてしまう。「魔力を持たない人たちが、魔法を使えるようになるのよ? 実験に身を差し出して当然だわ」と続けるエリシア。自分の価値観を信じきっている様子に、背筋に怖気が走る。
「て、帝国の人たちが、そう言ったの?」
「いいえ? でも、魔法を使えるようになったら喜ぶに決まっているわ」
あなたと同じように、とエリシアは締め括る。翡翠の瞳は確かにネリアを映しているはずなのに、ネリアのことをちっとも見てはいない。「どうして、こんな酷いことを……!」と悲痛な叫びを上げるネリアだったけれど。少しの沈黙の後、聞こえたのは、「ふっ、あははっ……」と鈴を転がすような笑い声だった。
「な、何がおかしいの?」
「いえ、あのね。お父様とお母様と同じことを言うのね、と思って」
「え?」
妹に糾弾されている姉のリアクションとしては、あまりにそぐわない。くすくすと口元に手を当て、上品に笑うエリシア。こういうときでも、品を失わないあたり、王女として育てられただけはある。ネリアとは大違いだ。
「魔法の開発は、お父様とお母様には反対されたのよ。そんな酷いことはしてはいけないって」
そう語り始めるエリシア。ネリアが引いていることなど、お構いなしだ。
「だからお父様とお母様には内緒でお城の地下に隠し部屋を作って、貴族たちとこっそり進めていたの。でも、帝国が攻めてきた日に結局バレちゃって……」
まるで悪戯が失敗した子供のように、眉尻を下げる。そこに、罪悪感というものは微塵も存在しない。「二人の怒りようときたら。今まで散々稀代の魔法使いだなんだって私のことを褒めそやしてきたのに、手のひらを返すんだもの」と愚痴でも吐き出すかのような軽快さで言葉を続ける。
「だから、死んでもらったの」
「……え……?」
「ああ、もちろん直接手は下していないわ。心中を起こしたかのように操っただけ」
自殺したって言ったのはちょっとだけ嘘、と肩を竦めるエリシア。今日一日で、一体どれだけの情報量を詰め込まれているのだろう。くらり、と眩暈がして思わずしゃがみこむ。「大丈夫?」と心配そうに、エリシアが背中をさすろうとした、けれど。
「さ、触らないで!」
パチンと手を弾くと、エリシアは目を丸くした。まるで、ネリアに拒絶されるとは思わなかった、と言わんばかりの驚きように、ネリアの方が驚いた。これだけのことをしておいて、どうしてそんなこともわからないのだろう。塔に閉じ込められているネリアに足繁く会いにきて、王国での話を聞かせてくれたエリシア。二人で王国の王女なのだから、ネリアが閉じ込められることで王国の平和が保たれているのだと言ってくれたエリシア。その言葉があったから、ネリアは今までずっと生きてこられたのに。外への憧れを、どうにか押し殺してきたのに。
「わ、私のこと、本当はずっと、価値がないって思ってたの?」
「……」
「私とエリシアの、二人で王女だから……私は塔にいることで、エリシアは魔法を使うことで王国を守ってるんだって! そう言ってくれたのに!」
床にへたりこみ、エリシアを睨みつける。叫んだせいで喉がヒリヒリする。今まで信じてきた価値観を崩され、ネリアの頭の中はぐちゃぐちゃだった。瞳に涙さえ滲みそうなネリアに、「……馬鹿な妹」と憐れむように抱きしめる。耳元に唇を寄せると、こう言った。
「塔に閉じ込められることが王国を守ることに繋がるなんて、そんなこと本気で信じていたの?」
「え……」
「あんなの、魔法を使えないあなたを閉じ込めておくための嘘に決まっているじゃない」
本当に馬鹿な妹、と繰り返すエリシア。ガラガラと足場が崩れ、底の見えない真っ暗闇に突き落とされたかのような感覚を覚えた。十八年間、ネリアが信じてきたことは一体何だったのだろう。何のために我慢してきたのだろう。ぐらりと頭が揺れ、視界が歪む。
「可哀想なネリア。泣かないでちょうだい、すぐに魔法を使えるようにしてあげるから」
そう言って体を離すと、ネリアの手を取るエリシア。白魚のような指が、ネリアのそれに絡みつく。空いた手で指をパチンと鳴らすと、繋いだ手から熱いものが流れてくるような感覚を覚えた。
「な、何!?」
「怖がらないで」
離そうとした手を、強く掴まれた。指先から伝わる熱は、じわじわと全身を蝕む。逃れたくて身を捩るのに、エリシアは頑なに手を離そうとはしない。その間にも痛いほどの熱が身体中を駆け巡り、得体の知れない何かが体の中で暴れ回っているようだ。吐き気すら催し、空いた手で口を押さえ蹲ったときだった。不意に動きを止めたエリシアが、聖堂の扉に目を向ける。
「……外が騒がしいわね」
そういうと、エリシアはネリアの腕を掴み、指をパチンと鳴らす。いつものように瞬きの間に景色が変わるのだろうか、と自由の効かない体で身構えたけれど。
「……?」
何も起きない。ネリアの視界に映るのは、変わらず聖堂の床のまま。顔だけを上げてエリシアを見ると、「ああ、やっぱり」と想定内かのように呟いている。自らの手からネリアに視線を移動したエリシアはにっこりと微笑み、握り潰さんばかりに手を握りしめた。
「ああああっ!?」
「ごめんなさい、もっとゆっくり時間をかけてやりたかったのだけれど」
そうも言っていられなくて、とあまり申し訳なさそうには見えない顔で謝るエリシア。視界が徐々に狭まり、蹲ることすら辛い。ドタンッと何かが倒れるような音が鼓膜に響き、体に痛みが走る。少しして、自分が倒れたのだと気がついた。
「おやすみ、ネリア。目が覚めるのを楽しみにしていてね」
蹲るネリアの髪に唇を落とすエリシア。颯爽と立ち去る彼女の背中に手を伸ばしたけれど、届かない。徐々に瞼を開けていられなくなり、とうとう意識を手放した。