百十一は思う。ある意味、難攻不落だと。
思い出なんてあってないようなもの。
「和果、元気だった?」
よれたTシャツに、家着のパーカーを羽織る正二が、ビルの裏で私を引き止めた。
「……正二。なんでここに。」
「ちょっと、話があって。」
正二が職場に来るなんて初めてだ。
久々に見る彼は、少し痩せた、というよりもやつれたように思う。
「仕事は? どうしたの?」
「……仕事は、色々あって行けてなくて。」
「もしかして、慰謝料のこと? 請求されると思って来たの?」
「いや、それはさ……。1ヶ月経っても何もないってことは、冗談だったんだろ?」
「え」
「慰謝料なんて、口からでまかせだったんだろ?」
正二の穏やかな声。困ったように笑う姿。当たり前のように私を尋ねてくる正二の神経を疑う。
なぜそんなにも普通でいられるの?
「あの。私、急ぐから。」
「あ、待って、話を聞いてくれよ和果!」
鞄を肩にかけ直し、正二を横切ろうとする。でもすぐに腕をつかまれた。
「頼むから!」
「お願い。もう私に関わらないで。」
「きっとあの時、怒った勢いで慰謝料の話なんてしたんだろ?! 俺気づいたんだよ! 和果は俺のことが好きだから嫉妬したんだろうなって!!」
「なに言ってるの?! 離して!」
腕を引き剥がそうとすれば、もう片方の腕もつかまれて正二の方を向かされる。
私の気持ちを勝手に詮索してしゃしゃり出てきて。正二の方が悪いはずなのに、私が悪いみたいな言い方、信じられない! もう二度と顔も見たくない!!
涙が出そうになった。
5年がどれだけ長いと思ってるの?! 5年分の正二との思い出は、私の記憶に刻まれるほどのものなのよ?
どう頑張ったって消失させることはできない。次に踏み出す時も、新たな出会いに胸を踊らせる時も、いつかまた結婚を考える時だって!
例えこの先幸せな時間が訪れても、必ず正二との時間を思い出す。
それがいい思い出になることは一生ない、あるはずがないの!
結婚間近に浮気されて、一瞬で真っ暗に塗り替えられた私の人生、なんだと思ってるの?! 返してとはいわないから、せめて私の前から消えてほしい。
「どこか行って、」
「頼む! 頼むから!! 俺の話を!」
「や、やめて。……痛いっ」
「和果! お願いだから俺を見てくれよ!」
その時、ふと目があった。
お洒落なスーツ姿の彼と。
「あれれ〜?? なになにー。こんなビル街で修羅場ですかあ〜?」
よりによって、百十一さんに見られた。
「ははあん。さては越名、慰謝料マジで請求したな? それで元カレがあわててやってきたと。」
涙が一気に引っ込んでいく。
「し、してません!」
「またまたあ。よっ、ネタをマジでやる令和の女王、越名和果!」
百十一さんが口に手を添えて茶化してくる。
私の辛い気持ちなんて1ミリたりとも汲んではくれない。いえこの人に汲まれたところで嬉しくもない!
正二も唖然とするなか、百十一さんは私たちを横切って行ってしまう。
なるほど、そうですか。助けてすらもらえないんですか。言っておきますけど期待なんてしてませんからね?!