百十一は思う。ある意味、難攻不落だと。
私が首を傾げれば、星志さんが、スっと遠くを指差した。
「みて和果ちゃん。向こうから、男がやってくる……」
「え?」
「あれ、まさかと思うけど、彼氏?」
「あ、そうです!」
振り返ると、石の階段を急いで降りてくる先輩が見えた。
私が先輩に向かって手を振れば、先輩も大きく振り返してくれた。
「じゃ。またね和果ちゃん。あんま、人を信用しない方がいいよ。」
「ど、どういう意味ですか?」
私の問いには答えてくれず。それだけ言って、星志さんは帰ってしまった。なんというか、妙に波長が合う子だったな。
代わるようにして、息を切らした先輩が私の元にやって来る。すぐに強く抱きしめられた。
「ごめん越名!! 僕が馬鹿だった!」
「いえ、私の方こそ。ごめんなさい。」
「越名はなにも悪くないよ! 悪いのは、コンプレックスばっか抱えてる僕の方! ごめんね。怖かったよね?」
さらに強く抱きしめられて、頬が熱くなる。そこまで心配してもらえたのだと思うと、とっても嬉しくなる。やっぱり私、迷子の子供みたいだ。
「大丈夫だった? さっき誰かと話してたみたいだけど。」
「ええと、大丈夫です。地元の人に道を聞いてただけなので。」
宿は有名な老舗旅館だった。創業500余年という伝統旅館で、土日に予約が取れるのはかなり珍しいとのこと。全て先輩の奢りとのことで、恐縮してしまう。
しかも個室食で、豪華な夕食が待ち構えていた。老舗旅館らしい、季節の食材や高級魚を使った料理で、残すのは先輩にも申し訳ないため、食前酒まで飲み干した。
厳かな露天風呂に浸かって、日々の疲れを洗い流す。
人事査定だとか、法令違反だとか、自分がそこまで肩肘張っていたのが馬鹿らしくなってしまう。厳選されたお湯はそれくらい全身を癒やしてくれた。
お父さんが生きていた頃は、1年に1度、家族で温泉旅行に行っていた。思えば温泉旅行の時が、一番お父さんが楽しそうにみえた。だから私も毎年楽しみにしていたのだ。
部屋に戻れば、布団が2つ、綺麗に並べられている。
今になって、彼氏と温泉旅行という現実味が湧いてきた。
そっか。そうだよね。一泊の旅行なんだから、きっと夜はこういうこともあるんだよね……。
顔を熱くすべきか、今すぐ青ざめるべきなのか。全く夜を想定していなかった自分が恥ずかしい。
付き合ってまだ日は浅いとはいえ、アラサーにもなってそんなことを気にしているようじゃ、きっと女として駄目なのよね。
そもそも百十一さんとなんて、付き合ってもないのにしちゃってるし。何を今さら怖気づいているの!
布団の上で正座をしていれば、先輩もお風呂から帰ってきた。
「越名、なに正座してるの? もう、やることなすこと笑えるんだけど。」
「えっ、あ、あのあの、すみません! なんだか急に緊張しちゃって!!」
調達したばかりの下着が少し派手だったかもしれない。脱毛処理は大丈夫なはず。食前酒を飲んだのと、温泉の浸かりすぎで全身が真っ赤になっているかもしれない。
「大丈夫。緊張してるのは越名だけじゃないから。」
先輩の手が私の頬を撫でる。
唇と唇が重なれば、急に百十一さんの顔がよぎる。
真木先輩の唇は、湯冷めをしたのか冷えていた。でも百十一さんの唇は、温かった。
「震えてるね。ここ、ドクドクいってる。」
浴衣の襟から手を入れられて、胸を触られる。身体がどこか拒絶するように、真木先輩の手首をつかんでしまった。
「あ、……あの」
「越名、この旅館、予約取るの大変だったんだよ。さっき越名が迷子になった時だって、探すの大変だったんだから。」
「……」
「いいよね?」
「……は、い」
百十一さんには勢いですがれたのに。食前酒の力もあるはずなのに、なんで真木先輩には構えてしまうの?
冷静な頭のまま、先輩に押し倒される。
先輩の唇が妖艶さを描き、いたずらに舌を這わせる。なにかが違うと思った。
つまるところ、先輩の表象と本性が合致しない。それが違和感の要因なのだ。
「ずっとずっとこの日を待ちわびてきたんだ。優しく出来なかったら、ごめんね越名―――」