記憶を失くした御曹司と偽りの妻
雨の夜、運命の出会い
雨は、世界の輪郭を曖昧にする。
ネオンも、街路樹も、歩道に落ちたチラシの文字も。全部が水膜の向こうで滲んで、同じ温度の灰色へ溶けていく。
私は傘の端から落ちる雫を見つめたまま、駅前のビル群をぼんやりと見上げた。
採用面接の帰り。
クリアファイルの中で、履歴書の角が少しだけ潰れている。濡れないように抱えたはずなのに、胸の奥まで冷え切っていくみたいで、思わず息が漏れた。
「……はぁ」
ため息って、どうしてこう、情けなく聞こえるんだろう。
私の吐いた息は雨音に吸い込まれて、あっさり消えた。消えるなら、悔しさも一緒に消えてくれればいいのに。
出版業界が不況なのは、もう言い訳にできないくらい痛いほど知っている。
だって私は、渦の中心で切り捨てられた側だから。
元・大手出版社の記者。
紙の雑誌もWebの記事も、現場で取材して書いて、編集に揉まれて、夜中に校了して、それでも「好き」だから続けてきた仕事。
私の名前が載った記事が出るたび、ほんの少し誇らしくて、少しだけ救われた気がしていた。
なのに、ある日突然。
「人員整理の対象です」
上司は、私の目を見なかった。
人の人生を切るときの目を、私は仕事柄たくさん見てきた。取材先のリストラ、倒産、離婚会見、破産。
でも、まさか自分が同じ目で見られる側になるなんて。
「合理化」「組織改編」「選択と集中」
刃物みたいな言葉で語られる未来に、私は入っていなかった。
そして追い打ちみたいに、もう一つ。
実父の事業の連帯保証。
借金。
契約書に押した印鑑が、こんなにも重いなんて知らなかった。
父は言った。
「大丈夫だ。迷惑はかけない」
大丈夫じゃないから、夜中に督促の電話が鳴る。
大丈夫じゃないから、通帳の残高が、毎日目に見えて減っていく。
大丈夫じゃないから、私は今こうして、雨の中で、面接の帰りに立ち尽くしている。
「……私、なにしてるんだろ」
声に出してしまって、慌てて口を押さえた。
傘の下は私だけの空間なのに、誰かに聞かれたら泣きたくなる。そんな気がした。
今日の面接は、手応えがなかった。
質問が浅い、とか、相性が悪かった、とか。そういう言い訳はいくらでもできる。
でも本当は、面接官の目を見た瞬間に分かった。
『この人は、もう決めている』
この業界で生き残れない人間を見る目。
私の経歴がどうとか、文章がどうとか以前に、「採らない理由」を探す目。
帰り際の「またご連絡します」という言葉の、温度のなさ。
「……帰ろ」
私は傘を少しだけ深く差し直し、歩き出した。
靴の中まで湿っていて、歩くたび足裏がひんやりする。
こんな日に限って、雨は容赦がない。
駅へ向かう途中、幹線道路沿いの歩道橋に差しかかった。
車のライトが雨のカーテンを切り裂きながら流れていく。ワイパーの規則的な動き。タイヤが水を弾く音。クラクション。
全部が、遠い。世界が水槽の中みたいで、私はガラス越しに眺めているだけの気分だった。
そのとき。
「——え?」
左手の車線を走っていた一台が、ふっとふらついた。
蛇行というほどではない。ほんの一瞬、運転の芯が抜けたような、頼りない揺れ。
次の瞬間。
ブレーキランプが赤く弾けて、タイヤが水を噛む音が鋭く耳を切った。
車体が横滑りして、まるで誰かに押されたみたいに——道路脇へ吸い寄せられていく。
「嘘……!」
ドンッ!
鈍い衝撃音。
車が、電柱に正面から激突した。金属が潰れる音が遅れて届き、フロントガラスが粉雪みたいに砕け散る。
白い煙が上がって、焦げた匂いが雨に混じって鼻を刺した。
「事故……!」
私は、足が勝手に前へ出ていた。
考えるより先に身体が動く。記者の癖だ。現場に出たら、まず動く。まず確かめる。まず助けを呼ぶ。
上りかけていた歩道橋の階段を駆け下りながら、私は叫んだ。
「すみません!誰か、119番——!お願いします!」
雨の音に裂かれそうな声。
それでも、言葉を投げる。誰かがやってくれるのを待っている時間が、いちばん怖い。
近くにいた男性が一瞬こちらを見て、スマホを取り出した。
それだけで少しだけ胸が軽くなる。
でも私は止まらない。
道路脇へ走る。車は斜めに突っ込み、前部がひしゃげている。ボンネットの隙間から煙が上がり、ライトが不規則に瞬いていた。
「大丈夫ですか!聞こえますか!」
私は窓ガラス越しに運転席を覗く。
エアバッグが白い塊になっていて、その奥に人影。
男——スーツ姿。
頭が前に倒れて、肩が不自然に沈んでいる。
「……反応、ない」
喉がカラカラになる。
怖い。火が出たらどうしよう。爆発したら。私も巻き込まれたら。
そんな考えが一瞬で浮かんで、次の瞬間、もっと強い声が心の中で叫ぶ。
でも、だからって見捨てるの?
私は自分に言い聞かせるみたいに、深く息を吸った。
「大丈夫、私。落ち着いて。落ち着いて……!」
運転席のドアノブを引く。
開かない。衝撃でロックが歪んでいる。
「く……っ」
私は周囲を見回し、道路脇の植え込みから硬い石を拾った。
ガラスを割るのは怖い。指を切ったらどうする。
でも火が回ったら、もっと怖い。
「ごめんなさい……!ちょっと、割ります!」
誰に謝ってるのか分からないまま、私は助手席側の窓を石で叩いた。
一回。二回。
三回目で蜘蛛の巣みたいにヒビが走って、ザラッと崩れ落ちる。
雨が一気に車内へ流れ込んだ。
煙と混ざって、息が苦しい。
「……運転席、シートベルト……!」
私は手を伸ばし、男の腰元を探る。指が震えてうまく動かない。
金属の冷たさに触れて、ようやくバックルに指先がかかった。
「お願い……外れて……!」
カチン。
音がして、ベルトが外れた。
「外れた……!」
その瞬間、なぜか涙が出そうになった。
小さな音なのに、私には救いの音に聞こえた。
男の肩と背中に腕を回す。
重い。思った以上に重い。
でも引きずり出すしかない。私は歯を食いしばった。
「……っ。お願い、動いて……!」
雨が背中を叩き、足元が滑る。
男の靴がフロアに引っかかって、一瞬止まった。
「……っ!」
私は体勢を変え、腰に力を入れてもう一度引く。
ずるり、と抜けた。
男の身体が私の腕の中へ落ちてきて、私はその重さに負けそうになりながらも、必死で受け止めた。
スーツの肩は雨で重く、肌は驚くほど冷たい。
「こっち……!危ないから……!」
私は男を抱えるようにして車外へ引き出し、道路脇のガードレールの内側へ倒れ込んだ。
背中を打った痛みが走ったけれど、そんなのどうでもよかった。
「息……して」
私は耳を男の口元へ近づける。
微かに、温い吐息。胸が小さく上下している。
生きてる。
それだけで膝が抜けそうになった。
私は自分のジャケットを脱いで、男の肩に掛けた。雨の冷たさから守るために。
本当は自分も震えるくらい寒いのに、今はそれどころじゃない。
「すみません、聞こえますか?救急車、来ますから。大丈夫……大丈夫です」
言いながら、私は自分に言い聞かせているみたいだった。
大丈夫。大丈夫。
そう言わないと、なんだか怖かった。
そのとき。
男の指が、動いた。
「……え」
ぐい、と。
弱いはずの力なのに、確かな意志を持って、私の手首を掴んだ。
冷たい指。
けれど、その握りは必死だった。
「……離れるな……」
掠れた声。
雨音に消えそうなほど小さいのに、耳の奥に刺さるように残る。
私は息を止めた。
男の瞼は閉じたまま。顔色は青白く、額に血が滲んでいる。
それなのに、私の手を掴む指だけが、やけに現実的で、熱を持っている気がした。
「離れない。離れません」
私は即答していた。
どうしてそんなふうに言い切れたのか、自分でも分からない。
ただ、目の前の命に向かって、「離れる」と口にするのが怖かった。
「大丈夫です。救急車……呼んでます。もうすぐ。すぐ来ますから」
雨で頬が濡れているのか、涙が混じっているのか分からない。
私は男の手を両手で包み込んで、体温を分けるみたいに握り返した。
「ねえ、名前、言えますか?聞こえますか?痛いですよね……ごめんなさい」
返事はない。
それでも、男の指先は私の手を離さなかった。
強く握りしめるのではなく——震えるほど弱いのに、意志だけは確かで。
まるで「ここにいてくれ」と静かに頼んでいるみたいだった。
私は息を呑む。
怖さより先に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「……大丈夫」
そう言うと、男の指がほんの少しだけ力を増した。
その手は、守られる側の甘えじゃない。
どこか、必死に耐えて、私を安心させようとするみたいな——不器用な優しさが滲んでいた。
「……お願いだ……」
男の唇が、もう一度動く。
声はさらに薄くなる。
「……ここに……」
心臓がきゅっと縮む。
知らない人のはずなのに、言葉が胸の奥に落ちて、妙に痛い。
その痛みは、怖さとも違う。悲しさとも違う。
どうしてか、「置いていけない」という感情だけが、どんどん強くなる。
「ここにいます。いますよ」
私は必死に笑おうとした。
救急車が来るまで、せめて、この人が安心できるように。
そう思ったのに、声が震えて、うまく笑えなかった。
背後から誰かが叫ぶ。
「救急車、来るって!通報した!」
「ありがとうございます!」
私も叫び返しながら、男の手を握り直す。
離れない。絶対に離さない。
雨で指先が滑っても、力を入れて握り続けた。
遠くでサイレンが聞こえた。
救急車の音。近づいてくる。確実に、こちらへ。
「来た……!」
私はやっと息を吐いた。
けれど、その瞬間も、男の手は私を掴んだままだった。
「大丈夫、もう大丈夫です。ほら、聞こえますか?救急隊の人が来ますから」
私は自分の声が、泣いているみたいに震えているのが分かった。
こんなときに泣くな、と言い聞かせても、止まらない。
雨の中で、赤い回転灯がにじんで光った。
誰かが走ってくる足音。
救急隊員の声が、雨を切り裂いて聞こえる。
「傷病者どこですか!」
「ここです!運転席から出しました!」
私は必死に説明しながらも、男の手の感触から意識が離れなかった。
冷たいのに、強い。
今にも消えそうなのに、私を繋ぎ止めるみたいに掴んでくる。
離れられない。
離したくない。
その二つが、同じ重さで胸に落ちてくる。
豪雨の夜は、まだ終わらない。
ネオンも、街路樹も、歩道に落ちたチラシの文字も。全部が水膜の向こうで滲んで、同じ温度の灰色へ溶けていく。
私は傘の端から落ちる雫を見つめたまま、駅前のビル群をぼんやりと見上げた。
採用面接の帰り。
クリアファイルの中で、履歴書の角が少しだけ潰れている。濡れないように抱えたはずなのに、胸の奥まで冷え切っていくみたいで、思わず息が漏れた。
「……はぁ」
ため息って、どうしてこう、情けなく聞こえるんだろう。
私の吐いた息は雨音に吸い込まれて、あっさり消えた。消えるなら、悔しさも一緒に消えてくれればいいのに。
出版業界が不況なのは、もう言い訳にできないくらい痛いほど知っている。
だって私は、渦の中心で切り捨てられた側だから。
元・大手出版社の記者。
紙の雑誌もWebの記事も、現場で取材して書いて、編集に揉まれて、夜中に校了して、それでも「好き」だから続けてきた仕事。
私の名前が載った記事が出るたび、ほんの少し誇らしくて、少しだけ救われた気がしていた。
なのに、ある日突然。
「人員整理の対象です」
上司は、私の目を見なかった。
人の人生を切るときの目を、私は仕事柄たくさん見てきた。取材先のリストラ、倒産、離婚会見、破産。
でも、まさか自分が同じ目で見られる側になるなんて。
「合理化」「組織改編」「選択と集中」
刃物みたいな言葉で語られる未来に、私は入っていなかった。
そして追い打ちみたいに、もう一つ。
実父の事業の連帯保証。
借金。
契約書に押した印鑑が、こんなにも重いなんて知らなかった。
父は言った。
「大丈夫だ。迷惑はかけない」
大丈夫じゃないから、夜中に督促の電話が鳴る。
大丈夫じゃないから、通帳の残高が、毎日目に見えて減っていく。
大丈夫じゃないから、私は今こうして、雨の中で、面接の帰りに立ち尽くしている。
「……私、なにしてるんだろ」
声に出してしまって、慌てて口を押さえた。
傘の下は私だけの空間なのに、誰かに聞かれたら泣きたくなる。そんな気がした。
今日の面接は、手応えがなかった。
質問が浅い、とか、相性が悪かった、とか。そういう言い訳はいくらでもできる。
でも本当は、面接官の目を見た瞬間に分かった。
『この人は、もう決めている』
この業界で生き残れない人間を見る目。
私の経歴がどうとか、文章がどうとか以前に、「採らない理由」を探す目。
帰り際の「またご連絡します」という言葉の、温度のなさ。
「……帰ろ」
私は傘を少しだけ深く差し直し、歩き出した。
靴の中まで湿っていて、歩くたび足裏がひんやりする。
こんな日に限って、雨は容赦がない。
駅へ向かう途中、幹線道路沿いの歩道橋に差しかかった。
車のライトが雨のカーテンを切り裂きながら流れていく。ワイパーの規則的な動き。タイヤが水を弾く音。クラクション。
全部が、遠い。世界が水槽の中みたいで、私はガラス越しに眺めているだけの気分だった。
そのとき。
「——え?」
左手の車線を走っていた一台が、ふっとふらついた。
蛇行というほどではない。ほんの一瞬、運転の芯が抜けたような、頼りない揺れ。
次の瞬間。
ブレーキランプが赤く弾けて、タイヤが水を噛む音が鋭く耳を切った。
車体が横滑りして、まるで誰かに押されたみたいに——道路脇へ吸い寄せられていく。
「嘘……!」
ドンッ!
鈍い衝撃音。
車が、電柱に正面から激突した。金属が潰れる音が遅れて届き、フロントガラスが粉雪みたいに砕け散る。
白い煙が上がって、焦げた匂いが雨に混じって鼻を刺した。
「事故……!」
私は、足が勝手に前へ出ていた。
考えるより先に身体が動く。記者の癖だ。現場に出たら、まず動く。まず確かめる。まず助けを呼ぶ。
上りかけていた歩道橋の階段を駆け下りながら、私は叫んだ。
「すみません!誰か、119番——!お願いします!」
雨の音に裂かれそうな声。
それでも、言葉を投げる。誰かがやってくれるのを待っている時間が、いちばん怖い。
近くにいた男性が一瞬こちらを見て、スマホを取り出した。
それだけで少しだけ胸が軽くなる。
でも私は止まらない。
道路脇へ走る。車は斜めに突っ込み、前部がひしゃげている。ボンネットの隙間から煙が上がり、ライトが不規則に瞬いていた。
「大丈夫ですか!聞こえますか!」
私は窓ガラス越しに運転席を覗く。
エアバッグが白い塊になっていて、その奥に人影。
男——スーツ姿。
頭が前に倒れて、肩が不自然に沈んでいる。
「……反応、ない」
喉がカラカラになる。
怖い。火が出たらどうしよう。爆発したら。私も巻き込まれたら。
そんな考えが一瞬で浮かんで、次の瞬間、もっと強い声が心の中で叫ぶ。
でも、だからって見捨てるの?
私は自分に言い聞かせるみたいに、深く息を吸った。
「大丈夫、私。落ち着いて。落ち着いて……!」
運転席のドアノブを引く。
開かない。衝撃でロックが歪んでいる。
「く……っ」
私は周囲を見回し、道路脇の植え込みから硬い石を拾った。
ガラスを割るのは怖い。指を切ったらどうする。
でも火が回ったら、もっと怖い。
「ごめんなさい……!ちょっと、割ります!」
誰に謝ってるのか分からないまま、私は助手席側の窓を石で叩いた。
一回。二回。
三回目で蜘蛛の巣みたいにヒビが走って、ザラッと崩れ落ちる。
雨が一気に車内へ流れ込んだ。
煙と混ざって、息が苦しい。
「……運転席、シートベルト……!」
私は手を伸ばし、男の腰元を探る。指が震えてうまく動かない。
金属の冷たさに触れて、ようやくバックルに指先がかかった。
「お願い……外れて……!」
カチン。
音がして、ベルトが外れた。
「外れた……!」
その瞬間、なぜか涙が出そうになった。
小さな音なのに、私には救いの音に聞こえた。
男の肩と背中に腕を回す。
重い。思った以上に重い。
でも引きずり出すしかない。私は歯を食いしばった。
「……っ。お願い、動いて……!」
雨が背中を叩き、足元が滑る。
男の靴がフロアに引っかかって、一瞬止まった。
「……っ!」
私は体勢を変え、腰に力を入れてもう一度引く。
ずるり、と抜けた。
男の身体が私の腕の中へ落ちてきて、私はその重さに負けそうになりながらも、必死で受け止めた。
スーツの肩は雨で重く、肌は驚くほど冷たい。
「こっち……!危ないから……!」
私は男を抱えるようにして車外へ引き出し、道路脇のガードレールの内側へ倒れ込んだ。
背中を打った痛みが走ったけれど、そんなのどうでもよかった。
「息……して」
私は耳を男の口元へ近づける。
微かに、温い吐息。胸が小さく上下している。
生きてる。
それだけで膝が抜けそうになった。
私は自分のジャケットを脱いで、男の肩に掛けた。雨の冷たさから守るために。
本当は自分も震えるくらい寒いのに、今はそれどころじゃない。
「すみません、聞こえますか?救急車、来ますから。大丈夫……大丈夫です」
言いながら、私は自分に言い聞かせているみたいだった。
大丈夫。大丈夫。
そう言わないと、なんだか怖かった。
そのとき。
男の指が、動いた。
「……え」
ぐい、と。
弱いはずの力なのに、確かな意志を持って、私の手首を掴んだ。
冷たい指。
けれど、その握りは必死だった。
「……離れるな……」
掠れた声。
雨音に消えそうなほど小さいのに、耳の奥に刺さるように残る。
私は息を止めた。
男の瞼は閉じたまま。顔色は青白く、額に血が滲んでいる。
それなのに、私の手を掴む指だけが、やけに現実的で、熱を持っている気がした。
「離れない。離れません」
私は即答していた。
どうしてそんなふうに言い切れたのか、自分でも分からない。
ただ、目の前の命に向かって、「離れる」と口にするのが怖かった。
「大丈夫です。救急車……呼んでます。もうすぐ。すぐ来ますから」
雨で頬が濡れているのか、涙が混じっているのか分からない。
私は男の手を両手で包み込んで、体温を分けるみたいに握り返した。
「ねえ、名前、言えますか?聞こえますか?痛いですよね……ごめんなさい」
返事はない。
それでも、男の指先は私の手を離さなかった。
強く握りしめるのではなく——震えるほど弱いのに、意志だけは確かで。
まるで「ここにいてくれ」と静かに頼んでいるみたいだった。
私は息を呑む。
怖さより先に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「……大丈夫」
そう言うと、男の指がほんの少しだけ力を増した。
その手は、守られる側の甘えじゃない。
どこか、必死に耐えて、私を安心させようとするみたいな——不器用な優しさが滲んでいた。
「……お願いだ……」
男の唇が、もう一度動く。
声はさらに薄くなる。
「……ここに……」
心臓がきゅっと縮む。
知らない人のはずなのに、言葉が胸の奥に落ちて、妙に痛い。
その痛みは、怖さとも違う。悲しさとも違う。
どうしてか、「置いていけない」という感情だけが、どんどん強くなる。
「ここにいます。いますよ」
私は必死に笑おうとした。
救急車が来るまで、せめて、この人が安心できるように。
そう思ったのに、声が震えて、うまく笑えなかった。
背後から誰かが叫ぶ。
「救急車、来るって!通報した!」
「ありがとうございます!」
私も叫び返しながら、男の手を握り直す。
離れない。絶対に離さない。
雨で指先が滑っても、力を入れて握り続けた。
遠くでサイレンが聞こえた。
救急車の音。近づいてくる。確実に、こちらへ。
「来た……!」
私はやっと息を吐いた。
けれど、その瞬間も、男の手は私を掴んだままだった。
「大丈夫、もう大丈夫です。ほら、聞こえますか?救急隊の人が来ますから」
私は自分の声が、泣いているみたいに震えているのが分かった。
こんなときに泣くな、と言い聞かせても、止まらない。
雨の中で、赤い回転灯がにじんで光った。
誰かが走ってくる足音。
救急隊員の声が、雨を切り裂いて聞こえる。
「傷病者どこですか!」
「ここです!運転席から出しました!」
私は必死に説明しながらも、男の手の感触から意識が離れなかった。
冷たいのに、強い。
今にも消えそうなのに、私を繋ぎ止めるみたいに掴んでくる。
離れられない。
離したくない。
その二つが、同じ重さで胸に落ちてくる。
豪雨の夜は、まだ終わらない。