記憶を失くした御曹司と偽りの妻

救急車の中の再会

雨音とサイレンが、遠くと近くで重なり合っていた。
世界の輪郭が、全部、少しずつ滲んでいく。
ぼんやり赤い光がのぞく小さな窓。濡れたガラスを伝う水の筋。鼻の奥をつんと刺す消毒液とゴムの匂い。
救急車の車体が大きく揺れるたび、金属が、きい、と小さく軋む。

隣で横たわっている男性に、視線を落とした。
さっきまで、炎上しかけた事故車の中に閉じ込められていた人。
今、あかりの下で見る横顔は、真っ白な酸素マスクに隠されていて、それでも、さっきよりさらに血の気が引いているように見える。

救急隊員は胸のあたりを少しめくって、止血しているテープの位置を確かめる。

「出血、ここはコントロールできてます。血圧は……まだギリギリ保ってますね。意識レベルJCS3桁、応答なし。頭部外傷疑い。呼吸は自発あり」

もうひとりの隊員がモニターに目を落としながら、機械的に状況を口にしていく。

「搬送先、久遠総合にいけますか?」

「確認中です」

耳をつんざくサイレンの音。その下で、無線のやり取りと、機械のピッ、ピッという電子音が交互に鳴る。

救急車の中は、妙に現実味のある音でいっぱいなのに、私はそこから少しだけ浮いているみたいに感じていた。

この人……誰なんだろう。
でも、なんだか会ったことがあるような……?

さっきまで、ただ「助けなきゃ」という一心で動いていたから、こうして落ち着いて、彼の顔をまじまじと見るのは、初めてだ。

濡れた前髪の隙間からのぞく額。長い睫毛。薄く結ばれた唇。

「では、患者さんのことで、少しお伺いしますね」

反対側から、隊員さんの落ち着いた声。
すごいな、この人たち。こんな状況なのに、声がぶれない。きちんと、淡々としていて。

「……はい」

私だけがひとり、場違いみたいに心臓ばかりが騒いでいる。

「おふたりのご関係は?ご家族の方ですか?奥さま、恋人さん、同乗者……」

「いえ」

思わず、反射で首を振っていた。

そんなふうに呼ばれる関係じゃない。むしろ、さっき初めて会ったばかり。

「違います。私は、たまたま通りかかっただけで……さっき、事故を見て、車からこの人を引きずり出したんです……」

口で説明しながら、胸の奥がじくりと痛む。
この人を引きずり出したときの、ずしりとした重さとが、まだ腕に残っている。

「なるほど。では、お名前やご年齢、ご住所などはご存じないんですね?」

「はい……すみません」

条件反射みたいに、謝ってしまう。

本当は、謝る必要なんてないのかもしれない。見知らぬ人の個人情報を知らないのは、普通のことだ。

それでも、口が勝手に「すみません」と動いてしまう。

「大丈夫ですよ。こちらで確認しますね」

救急隊員は穏やかにそう言うと、迷いのない手つきで、男性のスーツを確認し始めた。

「すみません、胸ポケットの方、触りますね」

隊員が一声かけてから、破れたジャケットの内側に手を差し入れる。

「内ポケットは……空ですね。財布も見当たりません。……あ、これ」

胸ポケットから、黒い革のカードケースがひとつ、取り出された。
雨で濡れているはずなのに、金属の縁取りがライトを受けて、鈍く光る。
その小さな四角に、なぜか視線が吸い寄せられて離れなくなった。

「名刺入れですね。失礼して……」

ぱちん、と小さな音がして、ケースが開く。
中には、きれいに揃えられた白い名刺が数枚。
その場の空気が、ほんの少しだけ、固くなる。

一枚、名刺が抜き出される。
ライトの下で、それを確認した救急隊員が、はっきりとした声で読み上げた。

「……『久遠ホールディングス 久遠総合医療センター 心臓血管外科 医師 久遠 怜央』……」

その名前が耳に届いた瞬間、心臓が、どくん、と大きく跳ねた。

「——え?」

思わず、変な声が漏れる。
頭の中で、音が全部止まった気がした。
サイレンの音も、車体の振動も、一瞬だけ遠のく。

久遠。

怜央。

久遠ホールディングス。久遠総合医療センター。心臓血管外科。

(……久遠、怜央?)

口の中で、そっと転がしてみる。
その名前は、私の記憶の底に、鮮やかすぎるくらい鮮やかに刻まれていた。
数ヶ月前、編集部から渡された取材先リスト——。
一番上に書かれていた名前。

『久遠グループの若き天才外科医』

そう紹介された、あの人の——。

「桐生さん?どうかされましたか?」

目の前で、隊員の人が不思議そうに首をかしげる。

「あ、い、いえ……ただ、その……」

声が少し上ずって、うまく息が吸えない。
喉の奥がきゅっと狭くなって、やっとのことで言葉を搾り出した。

「その方……以前、取材させていただいた先生で……」

「えっ、そうなんですか?」

驚いたように、隊員が目を丸くする。

それにうなずきながら、自分でも実感が追いついていないのがわかる。

「はい……久遠グループの、天才外科医って、紹介されていて……雑誌の特集で、病院までお伺いして……」

そこまで言ったところで、記憶の波が、一気に押し寄せてきた。

——白い廊下。

一歩踏み出すたびに、床がかすかにきゅ、と鳴る、あの独特な病院の感触。
ガラス越しに見える手術室。緑色の術衣。眩しい無影灯。
慌ただしく行き交うスタッフの足音と、遠くから聞こえてくるアラーム音。

『心臓外科は、一分一秒で状況が変わりますから』

そう説明してくれた彼は、術後の手術室から出てきて、静かに目の前に立ってくれた。
すっと伸びた背筋。無駄のない仕草。整った顔立ちに似合わないほど、鋭く、真っ直ぐな眼差し。
でも、患者さんの名前を口にしたときだけ、表情が驚くほど柔らかく変わる人。

『誰かを救うのが、僕の仕事です。……いや、使命、かな』

録音用のICレコーダー越しに聞いた声が、そのまま耳の奥でよみがえる。

あのとき、会議室の窓の外では、冬の光が鈍くビルのガラスに反射していた。

『もちろん、全部がハッピーエンドではありません。でも、それでも、手を尽くしたい。最後まで「ここにいていい」と思える場所を、患者さんに残してあげたいんです』

真剣で、真っ直ぐで、揺らぎのない光を宿した瞳。
あのとき、私はカメラ越しに、レンズ越しに、その視線を受け止めながら、思ったのだ。

——この人は、本当に、自分の仕事を愛しているんだな、と。

偽りのない言葉を選べる人。
取材慣れした、有名人特有のうそくさいきれいごとじゃなくて、ちゃんと血が通っている言葉を持っている人。

「……桐生さん?」

ふいに名前を呼ばれて、はっと顔を上げる。

「っ、すみません。ちょっと、思い出してて……」

気づけば、私は彼の横顔を覗き込むようにして見つめていた。
酸素マスクの下、規則的に上下する胸。
さっき見たときよりも、少しだけ穏やかになった気がする表情。
でも、あのとき強い光を湛えていた瞳は、今は固く閉じられたままだ。

『誰かを救うのが、僕の仕事です』

自信に満ちた声。
迷いなく前を向いていた横顔。
その「誰かを救う人」が、今はこうして、自分が救われる側に寝かされている。
その事実が、どうしようもなく、胸に引っかかった。

久遠……怜央

心の中で、そっと名前を呼んでみる。
それだけで、喉の奥がじんわり熱くなった。
あの日、取材を終えて病院を出るとき、私はこっそりと自分のノートの隅に書き込んでいた。

——いつか、またこの人に取材ができますように。

あの仕事は、私が出版社で携わった、最後の大きな記事だった。
雑誌は廃刊になり、私は雇用契約を切られ、気がつけば、手元に残ったのは借金と、家賃未払いのメールだけ。
それでも、取材ノートだけは捨てられなくて、いまだに部屋の棚のいちばん奥にしまってある。

「久遠怜央さん、ですね。搬送先、久遠総合に問い合わせました。……はい、受け入れ可能。処置室、確保してくれています」

無線越しのやり取りが、現実を引き戻していく。
ここは、雨の夜の道路じゃない。
今は、揺れる救急車の中。命を繋ぐ、ぎりぎりの時間の上にいる。

私は、ひとつ深呼吸をしてから、彼の手の近くに、自分の手をそっと置いた。
触れてしまいそうで、でも触れない距離。
あのインタビューの日、握手をしたときに感じた、少し骨ばった指の感触を、指先が勝手に思い出してしまう。

こんな形で、また会うなんて……誰が想像しただろう。

嬉しいなんて、もちろん思えない。
でも、「会えた」と思ってしまった自分が、ほんの少しだけ嫌になる。

「桐生さん」

救急隊員が、さっきよりも柔らかい声で呼びかけてきた。

「病院に着いたら、先生のご家族に連絡を取るまで、事情を聞かせていただくかもしれません。ご負担でなければ、少しだけ付き添っていただけますか?」

「……はい。私にできることがあれば、何でも」

口が自然にそう答えていた。
本当は、借金で頭がいっぱいで、明日の生活のことさえ不安で。

それでも。
今この瞬間、この人のすぐ隣にいるのは、私しかいない。

『誰かを救うのが、僕の仕事です』

あのときの言葉を、今は彼自身に返したかった。

——じゃあ、今は、私の番ですね、先生。

心の中で、小さくそうつぶやく。
そうしたら、不思議なくらい、さっきまで震えていた指先が、少しだけ落ち着いた。

救急車が、大きく右に曲がる。
窓の外の雨粒が、街灯の光を引きずりながら流れていく。
その揺れに合わせるように、私はもう一度、彼の名前を胸の奥でゆっくりと反芻した。

久遠怜央。

久遠グループの天才外科医。
命を救うことを「使命」と言い切った人——。

どうか、今度は、あなた自身の命が、救われますように。

図々しいお願いだとわかっていても、そう祈らずにはいられなかった。
そして私は、サイレンの音に包まれながら、彼の横顔から目を離すことができないままでいた。
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