記憶を失くした御曹司と偽りの妻

目覚めた彼の言葉

雨はまだ止んでいなかった。
救急車の扉が開いた瞬間、外の冷たい湿気が一気に流れ込んでくる。サイレンは遠ざかり、代わりに、病院の中の規則正しい足音と、機械音のようなアナウンスが耳に入った。
担架がガタッと揺れて、隣で横たわる男性——怜央の胸元の酸素マスクが、わずかに曇る。

「心拍、維持!血圧——」

「外傷、腹部疑い!CT回して!」

医師と看護師の声が飛び交う。白衣の袖が私の視界を何度も横切って、私はただ、追いつけない気持ちのまま立ち尽くした。
さっきまで、雨の中で必死に事故車から引きずり出した人。
その人が、今は白い光の下で患者になっていく。
私は、何をするべきなんだろう。

「ご家族の方ですか?」

振り向くと、病院の看護師のひとりが、私の肩に手を添えていた。指先がやさしいのに、胸の奥だけがずっと痛い。

「い、いえ……私は……」

家族じゃない。そう言うべきなのに、喉が妙に乾いて、言葉が詰まった。
その瞬間、通りかかった看護師が、救急隊員に向かって声を上げる。

「久遠怜央さん、オペ室へ入ります!」

——久遠、怜央。

大手医療グループ久遠ホールディングスの御曹司で、天才外科医。
その人が、今、私の目の前で運ばれていく。

「桐生さん」

救急隊員が、私の顔を覗き込む。

「あの方を車から引きずり出してくださった状況をもう少し確認したいので、お話を伺ってもいいですか?警察も来ます」

白い廊下の端にある簡易ベンチへ連れていかれ、私はそこに座らされた。
手のひらを見ると、指先が少し震えている。

助けたのに、怖い。
もし、間に合っていなかったら?
もし、私が引っ張ったせいで何か悪化していたら?

「——失礼します」

低い声に顔を上げると、制服姿の警察官が立っていた。その後ろには、メモを持ったもうひとり。

「交通事故の件で、状況を確認させてください。お名前とご連絡先を」

私は、何度も頷きながら答えた。
道路の場所。雨の強さ。追突の瞬間。怜央さんが運転席で意識を失っていたこと。扉が開かなくて、窓を割ったこと。
話せば話すほど、現実が尖っていく。

「……あなた一人で、引きずり出したんですか?」

警察官の目が、一瞬だけ驚いた色を帯びた。

「はい……近くには救急車を呼んでくれた男性しかいなかったので……」

「そうですか」

話を終えた頃には、時計の針がいくつも進んでいた。
廊下の空気は冷たく、無機質で、私の心臓だけがうるさい。

そのとき、遠くから、靴音が幾重にも重なって近づいてきた。

コツ、コツ、コツ——

迷いのない足音。
そして、目の前に現れたのは、明らかにこの場所に似合わない人たちだった。
黒いコート。上品な香水。整った髪。張り詰めた気配。
数人の男性が先導し、その中心に、背筋の伸びた年配の男女が歩いてくる。

「……怜央は?」

掠れた声。でも、命令のように強い。
看護師が慌てて駆け寄り、説明を始めた。

私は息を止める。

……久遠会長夫妻

ニュースで見たことのある人がいる。
写真でしか知らないはずの顔が、目の前で本物になっている。

そのとき、久遠会長夫妻のすぐ後ろを歩いていたひとりの男性が、私を見つけた。
スーツ姿で、眼鏡。冷静そうな目。
けれど、その視線の奥には、焦りと怒りと、…何か別の感情が混じっていた。

「あなたが……」

その男性が、私の前まで来て深く頭を下げた。

「怜央様を、助けてくださった方ですね。本当に、ありがとうございます」

私は立ち上がろうとして、ふらついた。

「い、いえ、私は……」

「——あなたがいなければ、息子は」

女性——会長夫人である怜央のお母様が、私を見つめる。

「……ありがとうございます。本当に……」

その目が潤んでいて、私はどうしていいかわからなくなった。



白い廊下の向こうで、赤いランプが点いたまま、時間だけが過ぎていく。
久遠家の人たちは、誰も泣かなかった。
泣く代わりに、目を伏せ、唇を結び、祈るように沈黙した。
その沈黙が、逆に怖かった。

私は、ただ、ベンチの端に座ったまま、帰るタイミングを完全に失っていた。
自分の手を見つめながら、何度も心の中で繰り返した。

助かって。お願いだから、助かって。

——どれくらい経ったのだろう。

オペ室の扉が開いて、医師が出てきた。
マスクを外しながら、医師は深く息を吐く。

「ご家族の方ですね。手術は……成功しました」

その言葉が落ちた瞬間、空気がほどける音がした気がした。

「……よかった……!」

誰かが小さく声を漏らし、夫人が両手で口元を押さえた。
久遠ホールディングスの会長である怜央のお父様は肩を落とさずに、ただ一度だけ目を閉じる。

そして、医師は続けた。

「ただ、外傷の影響もあり、しばらくは集中治療室で経過を見ます。今は眠っていますが、覚醒する可能性があります。面会は短時間で」

「会えますか?」

夫人が縋るように言う。

「はい。こちらへ」

家族が動く。私も、反射的に立ち上がった。

……私、帰らないと。

そう思ったのに、足が勝手についていく。
誰も「帰ってください」と言わない。
そして、私も「帰ります」と言えない。

集中治療室の前で、看護師が注意事項を説明する。
消毒。マスク。面会時間。刺激しないこと。

ガラス越しに見えた怜央は、あまりにも静かだった。
ベッドの上で、機械に繋がれて、規則正しい音に囲まれている。
胸が、ぎゅっと締まる。

「……怜央」

夫人がそっと名前を呼んだ。
その瞬間、怜央の瞼が、微かに動いた。

「……!」

誰かが息を呑む。
次の瞬間、彼の目が開いた。
焦点が合わないまま、ゆっくりと視線が動き——そして、私のところで止まった。
真正面から、まっすぐに。
まるで、私だけがこの部屋の中で確かなものだと言うみたいに。

「……君は……」

怜央の声は掠れていた。けれど、その言葉は驚くほどはっきりしていた。

「俺の……妻だろ?」

——世界が、止まった。

「……え?」

夫人が凍りつく。会長の眉が動く。看護師が慌てて医師を呼ぶ。
私だけが、言葉の意味を理解できないまま、息を詰めた。

つ、妻……?私が……?

怜央は、苦しそうに眉を寄せるのに、私を見る目だけは妙に優しかった。
怖がっていない。疑っていない。
ただ、必死に繋ぎ止めるものを探していて——それが私になっている。

私は、思わず一歩前に出た。

「ち、違います……!私、桐生梨音で……」

「……梨音」

その名前だけが、なぜか彼の口からこぼれた。

なんで……?

「怜央さん、わかりますか?」

医師が入ってきて、ペンライトで瞳を確認する。
怜央さんは医師の声に反応するのに、視線はまた私へ戻る。

「……妻を……そばに……」

誰に向けた言葉なのか分からない。
でも、胸の奥が、熱くなってしまった。

……どういうこと?私が、彼の妻?

医師が短く頷き、家族へ説明する。

「……事故の衝撃による外傷性健忘の可能性があります。確かめたところ、事故にあったことを含めて、記憶をかなり喪失しているようです。今は刺激を避け、本人が安心できる環境を整える必要があるでしょう」

「記憶喪失……?」

夫人の声が揺れる。

「記憶が完全に戻るかどうかは個人差があります。焦らずに。ですが、今の状態で否定や強い訂正をすると、混乱や興奮を招くことがあります」

医師の言葉の意味が、遅れて胸に落ちてくる。

私が、妻じゃないって否定したら……怜央さんが不安定になる?

そんなの、無理だ。
でも、私が嘘をつくのも——。

私は、何者でもないのに。

面会を終えたあと、久遠家の人たちは私を病院内の小さな応接室へ案内した。
高級なソファ、無駄のない照明、艶やかな机。
病院の一角なのに、そこだけ別の世界みたいだった。

「……桐生さん」

夫人が、丁寧に私の名前を呼ぶ。

「さきほどのこと……驚かせてしまいましたね」

私は首を振るしかできない。

「い、いえ……その事故の直後ですし、仕方がありません……」

笑う余裕なんてなかった。
会長が、低い声で言う。

「怜央は、君を妻だと思い込んでいる」

「……私は、彼の妻ではありません」

やっと言えた。
でも、言った瞬間、胸が痛む。
さっきの、縋るような彼の目が浮かぶ。

「もちろん理解している」

会長は冷静だった。冷静すぎて、逆に怖い。

「だが、今の怜央には安心材料が必要だ。本当は結婚などしていないと教えて混乱させれば、記憶の回復が遅れる可能性もある」

「だから……」

夫人が、祈るように手を組む。

「お願いできませんか。しばらくの間だけ……怜央の妻として、そばにいてあげてほしいのです」

私は立ち上がりかけて、また座り直した。

「無理です……!私がそんな——」

「見ず知らずの他人に、そんなお願いが非常識だと分かっています」

夫人は頭を下げた。
久遠家の人が頭を下げる。その光景だけで、私の心臓が変な音を立てる。

「でも……怜央は、あなたにだけ反応しました!」

たぶん、偶然だ。
たまたま私が視界に入っただけだ。

「私は、借金があって……その上、仕事も失ったので、就活をしないと……」

口にした瞬間、恥ずかしさがこみ上げる。
こんな場所で、自分の人生の惨めさを晒したくないのに。

すると、ドアがノックされ、静かに開いた。
入ってきたのは、先ほど廊下で私にお礼を述べてくれたスーツの男性だった。
眼鏡の奥の目は、感情を抑えているのに、鋭い。

「御堂 慎也です。怜央様の秘書を務めています」

——御堂。
取材の場で聞いたことがある名前。怜央の右腕だと噂されていた。
御堂は私を一度だけ見て、淡々と続けた。

「桐生梨音さん。元出版社記者。現在失業状態。生活費と借金返済で逼迫。借入は複数、返済期日は最短で来月」

私は、息が止まった。

「……調べたんですか」

「はい。怜央様の状態を考えれば、お願いする相手が安全かどうか確認する必要があります」

言い方は冷たいのに、理屈は正しい。
だから余計に反論できない。

御堂は静かに言った。

「提案があります。『3か月だけの妻』契約です」

「……契約」

その言葉が、やけに現実的で、私の心を刺した。

「守秘義務。期間。役割。報酬。住居の提供。生活の保障。あなたの借金返済もします。条件は——3か月、怜央様の妻として振る舞うこと」

借金返済……

喉が鳴った。
欲しい。助かりたい。
でも、そんな理由で人を騙すなんて——最低だ。

「私……そんな人を騙すようなこと、できません」

言い切ったつもりだったのに、声が揺れた。
御堂は、さらに低く静かな声で言う。

「できないなら、やめましょう。無理強いはしません。ただ、もう一度、事故のショックで混乱されている怜央様のこと、お考えいただけないでしょうか?」

その言葉に、逆に逃げ道を塞がれた気がした。
私の頭の中には、現実の数字が並ぶ。
返済日。催促の電話。家賃。空っぽな冷蔵庫。仕事の不採用通知。
そして、あのベッドの上で、私を見て「妻だろ」と言った怜央さんの目。

私が、いなくなったら……

彼はまた不安になるのかもしれない。
——それは、私が作った不安じゃないのに。

「……桐生さん」

夫人が、そっと私の手を握った。
温かくて、柔らかくて、逃げられない。

「お願い。あの子を……助けて」

助けた、はずだった。
車から引きずり出した。
それで終わりだと思っていた。
なのに、まだ続きがあるなんて。

私は、自分の手を見下ろした。
今の私は、きっと人生でいちばん惨めで、いちばん無力だ。

でも——。

「……3か月だけ、ですか」

口に出した瞬間、御堂の目がほんの少しだけ細くなった。

「はい。3か月だけです」

「3か月よりも前に、怜央さんの記憶が戻ったら……」

「その時点で、あなたは役目を終えた人になります。ただし、契約内容の履行責任はこちらが持ちます」

私は、笑いそうになった。
——役目。私の人生が、役目で片付く。

でも、今はそれでいい。

情けない。最低だ。
でも、背中を押したのはお金だけじゃなかった。
あの人が、私を見た目。
あれは、誰かを必要としている目だった。

「……わかりました」

声が震える。心臓が痛い。

「3か月だけ。……妻役を、やります。もし、3か月経って彼の記憶が戻らなくても、契約の継続はなしにしてください」

その瞬間、夫人が泣いた。
会長が、短く息を吐いた。
御堂は、淡々と「契約成立ですね」と言った。

私、何をしてるんだろう。

自分に突っ込みたくなるのに、笑えない。
人生って、どうしてこう、ギャグみたいに残酷なんだろう。
御堂が最後に言った。

「怜央様には、あなたが妻であると伝えます。明日から、準備を始めましょう」

応接室を出る前に、私はもう一度だけ、集中治療室の前まで戻った。
ガラス越しに見える怜央は、また眠っていた。
さっきの目は閉じられていて、長い睫毛だけが静かに影を落としている。

……あなたは、私を妻だと思ってる。

それは嘘。
でも、明日からは嘘じゃなく見せなきゃいけない。
私は、ガラスに触れない距離で、小さく呟いた。

「……3か月だけ。あなたを、守る」

誰にも聞かれないように。
自分の心にだけ、聞こえるように。
そして私は、白い廊下を歩き出した。
——本当のことを隠したまま、妻になるために。
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