記憶を失くした御曹司と偽りの妻

3か月だけの妻契約

病院の面談室は、空調の音だけがやけに大きく聞こえた。
蛍光灯の白い光に照らされて、テーブルの上の契約書だけが、妙に現実味を帯びている。
私は、ペンを持つ手のひらにじわりと汗をかいているのを、隠しきれなかった。

「では……改めてご説明いたします」

向かいに座るのは、久遠家の顧問弁護士。黒縁の眼鏡の奥の目は、温度が低いほどに冷静だった。
隣には怜央の秘書の御堂慎也。姿勢ひとつ崩さず、私の緊張を見透かすように、しかし責める気配は一切なく、ただ進行している。

「桐生様には、久遠怜央様の精神的安定のため、奥様として生活していただきます。期間は3か月。主治医の判断で短縮となる可能性があります。期間の延長はございません」

3か月。

短いはずなのに、口に出されると、胸の奥がきゅっと縮んだ。

「ご負担をおかけしないよう、生活環境は久遠家が用意いたします。居住、衣食、必要経費はすべて久遠家負担。桐生様への契約金は——」

弁護士が書類の一枚を、すっと差し出す。

「一1000万円」

数字が視界に入った瞬間、私の喉がひゅ、と鳴った。

1000万。

借金の残額。滞納した家賃。止まりそうな公共料金。スマホに溜まっていた未読の督促。
それら全部を、まとめてひっくり返せる額。

……助かる。やっと、息ができる。

けれど同時に、息が詰まる。

このお金は、妻のふりの対価だ。

御堂が、淡い声で補足する。

「桐生さんが本当に夫婦であるという体裁を、怜央様の前では崩さないこと。記憶が戻るまで、必要以上の刺激を避けること。生活については屋敷のスタッフが支えます。桐生さんは——」

言葉を一度切り、御堂は目を伏せた。

「怜央様をひとりにならないでください。あなたは今、怜央様の拠り所です」

拠り所。

その言葉が、梨音の胸に刺さった。

——昨夜。

手術を終えたばかりの彼が目を開けて、真っ直ぐに私を見て言った。

『君は……俺の妻だろ?』

それは、疑いではなかった。確認でもない。
まるで当たり前の事実を、静かに受け入れている瞳だった。

どうして、私が……

取材で一度会っただけ。
その時の彼は、手術の合間の短い時間にも関わらず、礼儀正しくて、冷静で、そしてどこか遠かった。
雲の上の人だった。
なのに今の彼は、私だけを見ていた。

弁護士が、最後のページを示す。

「秘密保持条項は厳守です。契約内容、久遠家の事情、怜央様の症状、すべて外部に漏らさないこと。また、契約期間中は久遠家の指示に従っていただきます」

「……はい」

声が震えそうで、私は喉の奥を締めた。

「では、こちらに署名とご捺印を」

朱肉の匂いが、鼻に刺さった。
机の上に置かれた印鑑が、やけに重そうに見える。

ここで押したら、戻れない。

戻りたい場所なんて、今の私にはないくせに。

借金と失業で、手足が縛られて。
不採用通知が増えるほど、社会の方から「あなたは不要です」と言われているみたいで。
狭い部屋で、ひとりで膝を抱えていた。

——昨夜、衝突事故に出くわした。

あの瞬間だけは、迷わなかった。
助けなきゃ、と思った。
身体が勝手に動いた。

そして今、契約書の前で、身体が凍っている。

「桐生さん」

御堂が、ほんの少しだけ声を柔らかくした。

「迷って当然です。……ただ、怜央様は今、あなたの存在で落ち着いています。医師も安定していると言いました」

私は目を伏せた。

私は……お金のために。偽物なのに。

——それでも。

あの病室で、怜央が私を見つめた目が忘れられない。
熱くて、強くて、震えていた。

私は、息を吸って、吐いた。
そして、印鑑を持ち上げる。

「……分かりました。私、やります」

押した瞬間、紙に契約という痕が残る。
私の人生にも、同じ痕が刻まれた気がした。

弁護士が淡々と頷き、書類を回収する。

「契約金は本日中にお振り込みいたします。まずは桐生様のご事情——借入の整理を」

その言葉に、私は反射的に顔を上げた。

「……え?」

御堂が静かに言う。

「弁護士が入ります。悪質な取り立てがあるなら止めます。あなたが屋敷へ移っている間、外部の雑音は遮断したい」

遮断。

その言い方が、妙に優しかった。

久遠家って……怖い家だと思ってたのに。

不意に、胸の奥がじん、と熱くなる。
こんな風に守られるのは、いつ以来だろう。

面談室を出た廊下で、私はスマホを見た。
未読の通知が積み上がっている。
それらを一つずつ開く勇気はないけれど、見ないふりももう限界だった。
指が震えたまま、メモ帳を開いて、返済計画を書き出す。

全部返して……0にする。

そして——その先の自分が、思い浮かばない。

「桐生さん」

振り返ると、御堂が廊下の窓辺に立っていた。
手には、小さなベルベットの箱。

「……これは?」

私が尋ねるより早く、御堂は箱を開けた。
中で、白い光がきらりと跳ねる。

指輪だった。細い輪。装飾は控えめなのに、存在感だけが異様に強い。

「こちらを、左の薬指につけてください」

淡々としているのに、逆らえない声だった。

「怜央様にも、同じデザインのものをすでにお渡ししております。手術中にお預かりしていた――そうお伝えして」

私は喉が詰まった。

「夫婦ということになっておりますから。結婚指輪がないのは不自然でしょう」

私は、箱の中の指輪を見つめた。
小さな輪なのに、1000万円より重く見えるのはどうしてだろう。

指先を伸ばすと、金属がひんやりと冷たい。
その冷たさが、嘘の輪郭をなぞってくるみたいで、心臓がきゅっと縮んだ。

左手を持ち上げる。
薬指。
ここに入るはずのものなんて、今まで考えたこともなかったのに。

私は偽物なのに。
でも……怜央さんは、私を妻だって、信じてる。

「……サイズ、ぴったりですね」

御堂が小さく微笑む。

「それから、屋敷へは本日中に移ってください。怜央様は、あと2週間で退院予定です。退院の日、あなたが家で迎えるのが一番自然です」

自然。
その言葉が、刃みたいに刺さる。

自然なんて、嘘だ。
全部が作り物だ。
なのに、逆らえない自分がいる。

「……分かりました」

私が頷くと、御堂は淡く微笑んだ。

「では、手配します。……奥様」

その呼び名に、私は思わず咳き込みそうになった。

やめて、御堂さん。まだ心の準備が……

でも、数時間後。
屋敷の門をくぐった瞬間から、その呼び名は日常になった。
車の窓から見えた久遠家の屋敷は、予想していた豪邸の範囲を軽々と超えていた。
門の先に広がる長いアプローチ。整えられた庭。
建物は、白い壁と重厚な柱。控えめなのに圧倒的で、「私はここに居ていいの?」と感じてしまう。

場違い。場違いすぎる。

玄関で迎えたのは、背筋の伸びた執事と、数名のスタッフだった。
頭が自然に下がる。勝手に。

「奥様、お荷物はお預かりいたします」

奥様。

私はもう笑うしかなくなった。

奥様って……私、段ボール二箱しかないんですけど。

それが余計にみじめで、笑いが喉で引っかかった。
案内された部屋は、ホテルみたいに広かった。
ふかふかのベッド。磨かれた床。大きな窓。
クローゼットを開くと、すでに服が並んでいた。

「……え?」

背後に控えていた女性スタッフが、柔らかく説明する。

「急ぎのため、サイズを推測し、基本的なものを揃えております。お気に召さないものがあれば、すぐにお取り替えいたしますので」

推測でここまで揃う世界があるんだ、と、私は変なところで感心した。

同時に、胃がきゅっと痛む。

私は……ここにお金のために来たのに。

翌日から、梨音は病院へ通った。
屋敷と病院を結ぶ車は静かで、座席は柔らかく、窓の外の景色だけが現実に見えた。
怜央の病室のドアを開けるたび、梨音の心臓はきまって跳ねる。

「梨音」

彼は、呼ぶ。
迷いなく。
まるで何年もそうしてきたみたいに。

「おはよう。来てくれたんだな」

「……おはようございます」

返事のたびに、言葉が揺れる。
おはようでいいのか、おはようございますでいいのか。
妻なら、どっちなんだ。

怜央の回復は順調で、すでに一般病棟に移っていた。
まだ点滴の管をつけていても、顔色が良くなっていくのが分かった。
リハビリの時間も増え、歩く距離が伸びるほど、目の光が強くなる。

「ねえ、梨音」

ある日、リハビリ室の帰り道。
怜央は、梨音の指先をそっと握った。
握るというより、確かめるような、丁寧な触れ方だった。

「……怖い?」

「え?」

「俺が、全部忘れてるの。……君が、怖い思いをしてないか、それが気になる」

梨音は息を止めた。

怖いのは……あなたじゃない。
怖いのは、自分の嘘がばれること。
怖いのは、あなたの優しさを、本物だと思ってしまいそうな自分のこと。

「大丈夫です」

嘘を吐く舌が、少し痛い。
怜央は、私の答えを疑わなかった。
そのまま、指先に口づけるみたいに、唇を軽く触れさせた。

「……よかった」

たったそれだけなのに、梨音の体温が上がった。

や、だ。こんなの……

でも、振りほどけない。
振りほどく理由を、彼に説明できない。

退院日までは、思ったより早く過ぎた。

そして、退院当日。
屋敷の玄関は、いつもより静かだった。
スタッフたちは動きながらも、どこか空気を整えている。
私は、玄関ホールで立ち尽くしていた。
手の中のハンカチが、くしゃくしゃになる。

迎えるって……どう迎えるの?
お帰りなさいと、言うの?
言えるの?
言っていいの?

外で車の音が止まり、ドアが開く気配がした。
次の瞬間、怜央が現れた。
白いシャツにカーディガン。まだ少し動きずらそうな体。
杖はついているけれど背筋は真っ直ぐで、目は強い。
事故前の彼をよく知らないはずなのに、元々こういう人なんだと分かってしまうほどの存在感があった。

「……梨音」

名前を呼ばれた瞬間、私は息を吸えなくなった。
怜央は、玄関の段差を越えて、迷いなく私の前まで来る。
そして、両手で私の頬を包むように触れた。

「お出迎え、ありがとう」

「……あ、いえ……」

言葉が崩れる。
怜央は、私の顔を覗き込む。
その瞳は、信じて疑わない光だった。

「ここが、俺たちの家だろ?」

俺たち。

梨音の胸が、ずきん、と鳴った。

「……そう、ですね」

言ってしまった。
嘘なのに。
嘘だと分かっているのに。
怜央は満足そうに笑って、梨音の肩に自分の額を軽く預けた。

「帰って来られた。……君がいるから」

その一言で、私の膝が揺れた。
支えられているのは、怜央じゃない。
今、支えが必要なのは自分だ。

「無理、してないか?」

怜央は、声を落として言った。
周りに人がいるのを分かっていて、私だけに届く音量で。

「……俺、まだ色々分からない。でも、君が泣きそうな顔をしてるのは分かる」

梨音ははっとして、口元を手で覆った。

泣きそうな顔?私が?

自分では、必死に笑っているつもりだった。
奥様らしく、落ち着いているつもりだった。
なのに、この人は、そんなところまで見てしまう。

「大丈夫です。本当に」

言い切るために、私は笑った。
すると怜央が、少しだけ眉を寄せた。

「……大丈夫って言う時の君、頑張りすぎてる」

その言葉が優しすぎて、私の防御が溶ける。
怜央は、私の手を取って、自分の胸に当てた。
鼓動が、はっきりと伝わってくる。

「ここにいる。ちゃんと生きてる」

梨音は、息を呑んだ。

そんなふうに言わないで。

助けたのは、偶然だ。
そして今の私は、契約でここにいるだけだ。

——なのに。

怜央は続けた。

「これからどんなことがあっても、俺は君を守る。……妻だろ?」

その言い方が、甘い。
甘いのに、軽くない。
言葉だけで抱きしめられたみたいに、心がきゅっとなる。

「……はい」

怜央は、私の手を自分の唇に近づける。

「俺は、また君に触れられて嬉しい」

梨音の背中がぞくりと震えた。
恥ずかしさと、嬉しさと、罪悪感が一気に押し寄せる。

ダメだ。溺れちゃダメだ。

これは契約。
これは期間限定。
終わる。必ず終わる。

でも——怜央の手の温度が、離れない。

その夜、怜央は屋敷の自室の前で立ち止まった。
扉の前で、子どもみたいに少しだけ不安げに私を見る。

「梨音」

「はい」

「……今夜、そばにいてくれる?」

その言葉は、命令じゃなかった。
頼みだった。
私は、喉の奥が熱くなるのを感じた。

私は、偽物なのに。
偽物なのに、そんな顔で頼まれたら——断れない。

私は、笑って頷こうとして、涙が先に滲んだ。
怜央がすぐに近づき、私の涙を指先で拭う。

「泣かせた?俺」

「違います……私が、勝手に……」

「じゃあ、勝手に泣いた分、俺が勝手に抱きしめてもいい?」

冗談みたいに言うのに、抱きしめる腕は本気だった。
私の身体が、怜央の胸にすっぽり収まる。

ああ……まずい。
この人の優しさは、反則だ。

豪奢な屋敷。
場違いな自分。
契約の1000万円。

全部、現実なのに。
怜央の腕の中だけが、嘘みたいにあたたかい。

私は、怜央のシャツをきゅっと掴んだ。
落ちないように。溺れないように。

……でも、本当は。

溺れてしまいたい。

その本音が、胸の奥で小さく息をした。
怜央が耳元で囁く。

「ありがとう、梨音。……俺の妻」

私は、目を閉じた。
契約の妻として。
そして、彼の甘さに、もう溺れかけている自分を隠したまま。
< 5 / 13 >

この作品をシェア

pagetop