記憶を失くした御曹司と偽りの妻
3か月だけの妻契約
病院の面談室は、空調の音だけがやけに大きく聞こえた。
蛍光灯の白い光に照らされて、テーブルの上の契約書だけが、妙に現実味を帯びている。
私は、ペンを持つ手のひらにじわりと汗をかいているのを、隠しきれなかった。
「では……改めてご説明いたします」
向かいに座るのは、久遠家の顧問弁護士。黒縁の眼鏡の奥の目は、温度が低いほどに冷静だった。
隣には怜央の秘書の御堂慎也。姿勢ひとつ崩さず、私の緊張を見透かすように、しかし責める気配は一切なく、ただ進行している。
「桐生様には、久遠怜央様の精神的安定のため、奥様として生活していただきます。期間は3か月。主治医の判断で短縮となる可能性があります。期間の延長はございません」
3か月。
短いはずなのに、口に出されると、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「ご負担をおかけしないよう、生活環境は久遠家が用意いたします。居住、衣食、必要経費はすべて久遠家負担。桐生様への契約金は——」
弁護士が書類の一枚を、すっと差し出す。
「一1000万円」
数字が視界に入った瞬間、私の喉がひゅ、と鳴った。
1000万。
借金の残額。滞納した家賃。止まりそうな公共料金。スマホに溜まっていた未読の督促。
それら全部を、まとめてひっくり返せる額。
……助かる。やっと、息ができる。
けれど同時に、息が詰まる。
このお金は、妻のふりの対価だ。
御堂が、淡い声で補足する。
「桐生さんが本当に夫婦であるという体裁を、怜央様の前では崩さないこと。記憶が戻るまで、必要以上の刺激を避けること。生活については屋敷のスタッフが支えます。桐生さんは——」
言葉を一度切り、御堂は目を伏せた。
「怜央様をひとりにならないでください。あなたは今、怜央様の拠り所です」
拠り所。
その言葉が、梨音の胸に刺さった。
——昨夜。
手術を終えたばかりの彼が目を開けて、真っ直ぐに私を見て言った。
『君は……俺の妻だろ?』
それは、疑いではなかった。確認でもない。
まるで当たり前の事実を、静かに受け入れている瞳だった。
どうして、私が……
取材で一度会っただけ。
その時の彼は、手術の合間の短い時間にも関わらず、礼儀正しくて、冷静で、そしてどこか遠かった。
雲の上の人だった。
なのに今の彼は、私だけを見ていた。
弁護士が、最後のページを示す。
「秘密保持条項は厳守です。契約内容、久遠家の事情、怜央様の症状、すべて外部に漏らさないこと。また、契約期間中は久遠家の指示に従っていただきます」
「……はい」
声が震えそうで、私は喉の奥を締めた。
「では、こちらに署名とご捺印を」
朱肉の匂いが、鼻に刺さった。
机の上に置かれた印鑑が、やけに重そうに見える。
ここで押したら、戻れない。
戻りたい場所なんて、今の私にはないくせに。
借金と失業で、手足が縛られて。
不採用通知が増えるほど、社会の方から「あなたは不要です」と言われているみたいで。
狭い部屋で、ひとりで膝を抱えていた。
——昨夜、衝突事故に出くわした。
あの瞬間だけは、迷わなかった。
助けなきゃ、と思った。
身体が勝手に動いた。
そして今、契約書の前で、身体が凍っている。
「桐生さん」
御堂が、ほんの少しだけ声を柔らかくした。
「迷って当然です。……ただ、怜央様は今、あなたの存在で落ち着いています。医師も安定していると言いました」
私は目を伏せた。
私は……お金のために。偽物なのに。
——それでも。
あの病室で、怜央が私を見つめた目が忘れられない。
熱くて、強くて、震えていた。
私は、息を吸って、吐いた。
そして、印鑑を持ち上げる。
「……分かりました。私、やります」
押した瞬間、紙に契約という痕が残る。
私の人生にも、同じ痕が刻まれた気がした。
弁護士が淡々と頷き、書類を回収する。
「契約金は本日中にお振り込みいたします。まずは桐生様のご事情——借入の整理を」
その言葉に、私は反射的に顔を上げた。
「……え?」
御堂が静かに言う。
「弁護士が入ります。悪質な取り立てがあるなら止めます。あなたが屋敷へ移っている間、外部の雑音は遮断したい」
遮断。
その言い方が、妙に優しかった。
久遠家って……怖い家だと思ってたのに。
不意に、胸の奥がじん、と熱くなる。
こんな風に守られるのは、いつ以来だろう。
面談室を出た廊下で、私はスマホを見た。
未読の通知が積み上がっている。
それらを一つずつ開く勇気はないけれど、見ないふりももう限界だった。
指が震えたまま、メモ帳を開いて、返済計画を書き出す。
全部返して……0にする。
そして——その先の自分が、思い浮かばない。
「桐生さん」
振り返ると、御堂が廊下の窓辺に立っていた。
手には、小さなベルベットの箱。
「……これは?」
私が尋ねるより早く、御堂は箱を開けた。
中で、白い光がきらりと跳ねる。
指輪だった。細い輪。装飾は控えめなのに、存在感だけが異様に強い。
「こちらを、左の薬指につけてください」
淡々としているのに、逆らえない声だった。
「怜央様にも、同じデザインのものをすでにお渡ししております。手術中にお預かりしていた――そうお伝えして」
私は喉が詰まった。
「夫婦ということになっておりますから。結婚指輪がないのは不自然でしょう」
私は、箱の中の指輪を見つめた。
小さな輪なのに、1000万円より重く見えるのはどうしてだろう。
指先を伸ばすと、金属がひんやりと冷たい。
その冷たさが、嘘の輪郭をなぞってくるみたいで、心臓がきゅっと縮んだ。
左手を持ち上げる。
薬指。
ここに入るはずのものなんて、今まで考えたこともなかったのに。
私は偽物なのに。
でも……怜央さんは、私を妻だって、信じてる。
「……サイズ、ぴったりですね」
御堂が小さく微笑む。
「それから、屋敷へは本日中に移ってください。怜央様は、あと2週間で退院予定です。退院の日、あなたが家で迎えるのが一番自然です」
自然。
その言葉が、刃みたいに刺さる。
自然なんて、嘘だ。
全部が作り物だ。
なのに、逆らえない自分がいる。
「……分かりました」
私が頷くと、御堂は淡く微笑んだ。
「では、手配します。……奥様」
その呼び名に、私は思わず咳き込みそうになった。
やめて、御堂さん。まだ心の準備が……
でも、数時間後。
屋敷の門をくぐった瞬間から、その呼び名は日常になった。
車の窓から見えた久遠家の屋敷は、予想していた豪邸の範囲を軽々と超えていた。
門の先に広がる長いアプローチ。整えられた庭。
建物は、白い壁と重厚な柱。控えめなのに圧倒的で、「私はここに居ていいの?」と感じてしまう。
場違い。場違いすぎる。
玄関で迎えたのは、背筋の伸びた執事と、数名のスタッフだった。
頭が自然に下がる。勝手に。
「奥様、お荷物はお預かりいたします」
奥様。
私はもう笑うしかなくなった。
奥様って……私、段ボール二箱しかないんですけど。
それが余計にみじめで、笑いが喉で引っかかった。
案内された部屋は、ホテルみたいに広かった。
ふかふかのベッド。磨かれた床。大きな窓。
クローゼットを開くと、すでに服が並んでいた。
「……え?」
背後に控えていた女性スタッフが、柔らかく説明する。
「急ぎのため、サイズを推測し、基本的なものを揃えております。お気に召さないものがあれば、すぐにお取り替えいたしますので」
推測でここまで揃う世界があるんだ、と、私は変なところで感心した。
同時に、胃がきゅっと痛む。
私は……ここにお金のために来たのに。
翌日から、梨音は病院へ通った。
屋敷と病院を結ぶ車は静かで、座席は柔らかく、窓の外の景色だけが現実に見えた。
怜央の病室のドアを開けるたび、梨音の心臓はきまって跳ねる。
「梨音」
彼は、呼ぶ。
迷いなく。
まるで何年もそうしてきたみたいに。
「おはよう。来てくれたんだな」
「……おはようございます」
返事のたびに、言葉が揺れる。
おはようでいいのか、おはようございますでいいのか。
妻なら、どっちなんだ。
怜央の回復は順調で、すでに一般病棟に移っていた。
まだ点滴の管をつけていても、顔色が良くなっていくのが分かった。
リハビリの時間も増え、歩く距離が伸びるほど、目の光が強くなる。
「ねえ、梨音」
ある日、リハビリ室の帰り道。
怜央は、梨音の指先をそっと握った。
握るというより、確かめるような、丁寧な触れ方だった。
「……怖い?」
「え?」
「俺が、全部忘れてるの。……君が、怖い思いをしてないか、それが気になる」
梨音は息を止めた。
怖いのは……あなたじゃない。
怖いのは、自分の嘘がばれること。
怖いのは、あなたの優しさを、本物だと思ってしまいそうな自分のこと。
「大丈夫です」
嘘を吐く舌が、少し痛い。
怜央は、私の答えを疑わなかった。
そのまま、指先に口づけるみたいに、唇を軽く触れさせた。
「……よかった」
たったそれだけなのに、梨音の体温が上がった。
や、だ。こんなの……
でも、振りほどけない。
振りほどく理由を、彼に説明できない。
退院日までは、思ったより早く過ぎた。
そして、退院当日。
屋敷の玄関は、いつもより静かだった。
スタッフたちは動きながらも、どこか空気を整えている。
私は、玄関ホールで立ち尽くしていた。
手の中のハンカチが、くしゃくしゃになる。
迎えるって……どう迎えるの?
お帰りなさいと、言うの?
言えるの?
言っていいの?
外で車の音が止まり、ドアが開く気配がした。
次の瞬間、怜央が現れた。
白いシャツにカーディガン。まだ少し動きずらそうな体。
杖はついているけれど背筋は真っ直ぐで、目は強い。
事故前の彼をよく知らないはずなのに、元々こういう人なんだと分かってしまうほどの存在感があった。
「……梨音」
名前を呼ばれた瞬間、私は息を吸えなくなった。
怜央は、玄関の段差を越えて、迷いなく私の前まで来る。
そして、両手で私の頬を包むように触れた。
「お出迎え、ありがとう」
「……あ、いえ……」
言葉が崩れる。
怜央は、私の顔を覗き込む。
その瞳は、信じて疑わない光だった。
「ここが、俺たちの家だろ?」
俺たち。
梨音の胸が、ずきん、と鳴った。
「……そう、ですね」
言ってしまった。
嘘なのに。
嘘だと分かっているのに。
怜央は満足そうに笑って、梨音の肩に自分の額を軽く預けた。
「帰って来られた。……君がいるから」
その一言で、私の膝が揺れた。
支えられているのは、怜央じゃない。
今、支えが必要なのは自分だ。
「無理、してないか?」
怜央は、声を落として言った。
周りに人がいるのを分かっていて、私だけに届く音量で。
「……俺、まだ色々分からない。でも、君が泣きそうな顔をしてるのは分かる」
梨音ははっとして、口元を手で覆った。
泣きそうな顔?私が?
自分では、必死に笑っているつもりだった。
奥様らしく、落ち着いているつもりだった。
なのに、この人は、そんなところまで見てしまう。
「大丈夫です。本当に」
言い切るために、私は笑った。
すると怜央が、少しだけ眉を寄せた。
「……大丈夫って言う時の君、頑張りすぎてる」
その言葉が優しすぎて、私の防御が溶ける。
怜央は、私の手を取って、自分の胸に当てた。
鼓動が、はっきりと伝わってくる。
「ここにいる。ちゃんと生きてる」
梨音は、息を呑んだ。
そんなふうに言わないで。
助けたのは、偶然だ。
そして今の私は、契約でここにいるだけだ。
——なのに。
怜央は続けた。
「これからどんなことがあっても、俺は君を守る。……妻だろ?」
その言い方が、甘い。
甘いのに、軽くない。
言葉だけで抱きしめられたみたいに、心がきゅっとなる。
「……はい」
怜央は、私の手を自分の唇に近づける。
「俺は、また君に触れられて嬉しい」
梨音の背中がぞくりと震えた。
恥ずかしさと、嬉しさと、罪悪感が一気に押し寄せる。
ダメだ。溺れちゃダメだ。
これは契約。
これは期間限定。
終わる。必ず終わる。
でも——怜央の手の温度が、離れない。
その夜、怜央は屋敷の自室の前で立ち止まった。
扉の前で、子どもみたいに少しだけ不安げに私を見る。
「梨音」
「はい」
「……今夜、そばにいてくれる?」
その言葉は、命令じゃなかった。
頼みだった。
私は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
私は、偽物なのに。
偽物なのに、そんな顔で頼まれたら——断れない。
私は、笑って頷こうとして、涙が先に滲んだ。
怜央がすぐに近づき、私の涙を指先で拭う。
「泣かせた?俺」
「違います……私が、勝手に……」
「じゃあ、勝手に泣いた分、俺が勝手に抱きしめてもいい?」
冗談みたいに言うのに、抱きしめる腕は本気だった。
私の身体が、怜央の胸にすっぽり収まる。
ああ……まずい。
この人の優しさは、反則だ。
豪奢な屋敷。
場違いな自分。
契約の1000万円。
全部、現実なのに。
怜央の腕の中だけが、嘘みたいにあたたかい。
私は、怜央のシャツをきゅっと掴んだ。
落ちないように。溺れないように。
……でも、本当は。
溺れてしまいたい。
その本音が、胸の奥で小さく息をした。
怜央が耳元で囁く。
「ありがとう、梨音。……俺の妻」
私は、目を閉じた。
契約の妻として。
そして、彼の甘さに、もう溺れかけている自分を隠したまま。
蛍光灯の白い光に照らされて、テーブルの上の契約書だけが、妙に現実味を帯びている。
私は、ペンを持つ手のひらにじわりと汗をかいているのを、隠しきれなかった。
「では……改めてご説明いたします」
向かいに座るのは、久遠家の顧問弁護士。黒縁の眼鏡の奥の目は、温度が低いほどに冷静だった。
隣には怜央の秘書の御堂慎也。姿勢ひとつ崩さず、私の緊張を見透かすように、しかし責める気配は一切なく、ただ進行している。
「桐生様には、久遠怜央様の精神的安定のため、奥様として生活していただきます。期間は3か月。主治医の判断で短縮となる可能性があります。期間の延長はございません」
3か月。
短いはずなのに、口に出されると、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「ご負担をおかけしないよう、生活環境は久遠家が用意いたします。居住、衣食、必要経費はすべて久遠家負担。桐生様への契約金は——」
弁護士が書類の一枚を、すっと差し出す。
「一1000万円」
数字が視界に入った瞬間、私の喉がひゅ、と鳴った。
1000万。
借金の残額。滞納した家賃。止まりそうな公共料金。スマホに溜まっていた未読の督促。
それら全部を、まとめてひっくり返せる額。
……助かる。やっと、息ができる。
けれど同時に、息が詰まる。
このお金は、妻のふりの対価だ。
御堂が、淡い声で補足する。
「桐生さんが本当に夫婦であるという体裁を、怜央様の前では崩さないこと。記憶が戻るまで、必要以上の刺激を避けること。生活については屋敷のスタッフが支えます。桐生さんは——」
言葉を一度切り、御堂は目を伏せた。
「怜央様をひとりにならないでください。あなたは今、怜央様の拠り所です」
拠り所。
その言葉が、梨音の胸に刺さった。
——昨夜。
手術を終えたばかりの彼が目を開けて、真っ直ぐに私を見て言った。
『君は……俺の妻だろ?』
それは、疑いではなかった。確認でもない。
まるで当たり前の事実を、静かに受け入れている瞳だった。
どうして、私が……
取材で一度会っただけ。
その時の彼は、手術の合間の短い時間にも関わらず、礼儀正しくて、冷静で、そしてどこか遠かった。
雲の上の人だった。
なのに今の彼は、私だけを見ていた。
弁護士が、最後のページを示す。
「秘密保持条項は厳守です。契約内容、久遠家の事情、怜央様の症状、すべて外部に漏らさないこと。また、契約期間中は久遠家の指示に従っていただきます」
「……はい」
声が震えそうで、私は喉の奥を締めた。
「では、こちらに署名とご捺印を」
朱肉の匂いが、鼻に刺さった。
机の上に置かれた印鑑が、やけに重そうに見える。
ここで押したら、戻れない。
戻りたい場所なんて、今の私にはないくせに。
借金と失業で、手足が縛られて。
不採用通知が増えるほど、社会の方から「あなたは不要です」と言われているみたいで。
狭い部屋で、ひとりで膝を抱えていた。
——昨夜、衝突事故に出くわした。
あの瞬間だけは、迷わなかった。
助けなきゃ、と思った。
身体が勝手に動いた。
そして今、契約書の前で、身体が凍っている。
「桐生さん」
御堂が、ほんの少しだけ声を柔らかくした。
「迷って当然です。……ただ、怜央様は今、あなたの存在で落ち着いています。医師も安定していると言いました」
私は目を伏せた。
私は……お金のために。偽物なのに。
——それでも。
あの病室で、怜央が私を見つめた目が忘れられない。
熱くて、強くて、震えていた。
私は、息を吸って、吐いた。
そして、印鑑を持ち上げる。
「……分かりました。私、やります」
押した瞬間、紙に契約という痕が残る。
私の人生にも、同じ痕が刻まれた気がした。
弁護士が淡々と頷き、書類を回収する。
「契約金は本日中にお振り込みいたします。まずは桐生様のご事情——借入の整理を」
その言葉に、私は反射的に顔を上げた。
「……え?」
御堂が静かに言う。
「弁護士が入ります。悪質な取り立てがあるなら止めます。あなたが屋敷へ移っている間、外部の雑音は遮断したい」
遮断。
その言い方が、妙に優しかった。
久遠家って……怖い家だと思ってたのに。
不意に、胸の奥がじん、と熱くなる。
こんな風に守られるのは、いつ以来だろう。
面談室を出た廊下で、私はスマホを見た。
未読の通知が積み上がっている。
それらを一つずつ開く勇気はないけれど、見ないふりももう限界だった。
指が震えたまま、メモ帳を開いて、返済計画を書き出す。
全部返して……0にする。
そして——その先の自分が、思い浮かばない。
「桐生さん」
振り返ると、御堂が廊下の窓辺に立っていた。
手には、小さなベルベットの箱。
「……これは?」
私が尋ねるより早く、御堂は箱を開けた。
中で、白い光がきらりと跳ねる。
指輪だった。細い輪。装飾は控えめなのに、存在感だけが異様に強い。
「こちらを、左の薬指につけてください」
淡々としているのに、逆らえない声だった。
「怜央様にも、同じデザインのものをすでにお渡ししております。手術中にお預かりしていた――そうお伝えして」
私は喉が詰まった。
「夫婦ということになっておりますから。結婚指輪がないのは不自然でしょう」
私は、箱の中の指輪を見つめた。
小さな輪なのに、1000万円より重く見えるのはどうしてだろう。
指先を伸ばすと、金属がひんやりと冷たい。
その冷たさが、嘘の輪郭をなぞってくるみたいで、心臓がきゅっと縮んだ。
左手を持ち上げる。
薬指。
ここに入るはずのものなんて、今まで考えたこともなかったのに。
私は偽物なのに。
でも……怜央さんは、私を妻だって、信じてる。
「……サイズ、ぴったりですね」
御堂が小さく微笑む。
「それから、屋敷へは本日中に移ってください。怜央様は、あと2週間で退院予定です。退院の日、あなたが家で迎えるのが一番自然です」
自然。
その言葉が、刃みたいに刺さる。
自然なんて、嘘だ。
全部が作り物だ。
なのに、逆らえない自分がいる。
「……分かりました」
私が頷くと、御堂は淡く微笑んだ。
「では、手配します。……奥様」
その呼び名に、私は思わず咳き込みそうになった。
やめて、御堂さん。まだ心の準備が……
でも、数時間後。
屋敷の門をくぐった瞬間から、その呼び名は日常になった。
車の窓から見えた久遠家の屋敷は、予想していた豪邸の範囲を軽々と超えていた。
門の先に広がる長いアプローチ。整えられた庭。
建物は、白い壁と重厚な柱。控えめなのに圧倒的で、「私はここに居ていいの?」と感じてしまう。
場違い。場違いすぎる。
玄関で迎えたのは、背筋の伸びた執事と、数名のスタッフだった。
頭が自然に下がる。勝手に。
「奥様、お荷物はお預かりいたします」
奥様。
私はもう笑うしかなくなった。
奥様って……私、段ボール二箱しかないんですけど。
それが余計にみじめで、笑いが喉で引っかかった。
案内された部屋は、ホテルみたいに広かった。
ふかふかのベッド。磨かれた床。大きな窓。
クローゼットを開くと、すでに服が並んでいた。
「……え?」
背後に控えていた女性スタッフが、柔らかく説明する。
「急ぎのため、サイズを推測し、基本的なものを揃えております。お気に召さないものがあれば、すぐにお取り替えいたしますので」
推測でここまで揃う世界があるんだ、と、私は変なところで感心した。
同時に、胃がきゅっと痛む。
私は……ここにお金のために来たのに。
翌日から、梨音は病院へ通った。
屋敷と病院を結ぶ車は静かで、座席は柔らかく、窓の外の景色だけが現実に見えた。
怜央の病室のドアを開けるたび、梨音の心臓はきまって跳ねる。
「梨音」
彼は、呼ぶ。
迷いなく。
まるで何年もそうしてきたみたいに。
「おはよう。来てくれたんだな」
「……おはようございます」
返事のたびに、言葉が揺れる。
おはようでいいのか、おはようございますでいいのか。
妻なら、どっちなんだ。
怜央の回復は順調で、すでに一般病棟に移っていた。
まだ点滴の管をつけていても、顔色が良くなっていくのが分かった。
リハビリの時間も増え、歩く距離が伸びるほど、目の光が強くなる。
「ねえ、梨音」
ある日、リハビリ室の帰り道。
怜央は、梨音の指先をそっと握った。
握るというより、確かめるような、丁寧な触れ方だった。
「……怖い?」
「え?」
「俺が、全部忘れてるの。……君が、怖い思いをしてないか、それが気になる」
梨音は息を止めた。
怖いのは……あなたじゃない。
怖いのは、自分の嘘がばれること。
怖いのは、あなたの優しさを、本物だと思ってしまいそうな自分のこと。
「大丈夫です」
嘘を吐く舌が、少し痛い。
怜央は、私の答えを疑わなかった。
そのまま、指先に口づけるみたいに、唇を軽く触れさせた。
「……よかった」
たったそれだけなのに、梨音の体温が上がった。
や、だ。こんなの……
でも、振りほどけない。
振りほどく理由を、彼に説明できない。
退院日までは、思ったより早く過ぎた。
そして、退院当日。
屋敷の玄関は、いつもより静かだった。
スタッフたちは動きながらも、どこか空気を整えている。
私は、玄関ホールで立ち尽くしていた。
手の中のハンカチが、くしゃくしゃになる。
迎えるって……どう迎えるの?
お帰りなさいと、言うの?
言えるの?
言っていいの?
外で車の音が止まり、ドアが開く気配がした。
次の瞬間、怜央が現れた。
白いシャツにカーディガン。まだ少し動きずらそうな体。
杖はついているけれど背筋は真っ直ぐで、目は強い。
事故前の彼をよく知らないはずなのに、元々こういう人なんだと分かってしまうほどの存在感があった。
「……梨音」
名前を呼ばれた瞬間、私は息を吸えなくなった。
怜央は、玄関の段差を越えて、迷いなく私の前まで来る。
そして、両手で私の頬を包むように触れた。
「お出迎え、ありがとう」
「……あ、いえ……」
言葉が崩れる。
怜央は、私の顔を覗き込む。
その瞳は、信じて疑わない光だった。
「ここが、俺たちの家だろ?」
俺たち。
梨音の胸が、ずきん、と鳴った。
「……そう、ですね」
言ってしまった。
嘘なのに。
嘘だと分かっているのに。
怜央は満足そうに笑って、梨音の肩に自分の額を軽く預けた。
「帰って来られた。……君がいるから」
その一言で、私の膝が揺れた。
支えられているのは、怜央じゃない。
今、支えが必要なのは自分だ。
「無理、してないか?」
怜央は、声を落として言った。
周りに人がいるのを分かっていて、私だけに届く音量で。
「……俺、まだ色々分からない。でも、君が泣きそうな顔をしてるのは分かる」
梨音ははっとして、口元を手で覆った。
泣きそうな顔?私が?
自分では、必死に笑っているつもりだった。
奥様らしく、落ち着いているつもりだった。
なのに、この人は、そんなところまで見てしまう。
「大丈夫です。本当に」
言い切るために、私は笑った。
すると怜央が、少しだけ眉を寄せた。
「……大丈夫って言う時の君、頑張りすぎてる」
その言葉が優しすぎて、私の防御が溶ける。
怜央は、私の手を取って、自分の胸に当てた。
鼓動が、はっきりと伝わってくる。
「ここにいる。ちゃんと生きてる」
梨音は、息を呑んだ。
そんなふうに言わないで。
助けたのは、偶然だ。
そして今の私は、契約でここにいるだけだ。
——なのに。
怜央は続けた。
「これからどんなことがあっても、俺は君を守る。……妻だろ?」
その言い方が、甘い。
甘いのに、軽くない。
言葉だけで抱きしめられたみたいに、心がきゅっとなる。
「……はい」
怜央は、私の手を自分の唇に近づける。
「俺は、また君に触れられて嬉しい」
梨音の背中がぞくりと震えた。
恥ずかしさと、嬉しさと、罪悪感が一気に押し寄せる。
ダメだ。溺れちゃダメだ。
これは契約。
これは期間限定。
終わる。必ず終わる。
でも——怜央の手の温度が、離れない。
その夜、怜央は屋敷の自室の前で立ち止まった。
扉の前で、子どもみたいに少しだけ不安げに私を見る。
「梨音」
「はい」
「……今夜、そばにいてくれる?」
その言葉は、命令じゃなかった。
頼みだった。
私は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
私は、偽物なのに。
偽物なのに、そんな顔で頼まれたら——断れない。
私は、笑って頷こうとして、涙が先に滲んだ。
怜央がすぐに近づき、私の涙を指先で拭う。
「泣かせた?俺」
「違います……私が、勝手に……」
「じゃあ、勝手に泣いた分、俺が勝手に抱きしめてもいい?」
冗談みたいに言うのに、抱きしめる腕は本気だった。
私の身体が、怜央の胸にすっぽり収まる。
ああ……まずい。
この人の優しさは、反則だ。
豪奢な屋敷。
場違いな自分。
契約の1000万円。
全部、現実なのに。
怜央の腕の中だけが、嘘みたいにあたたかい。
私は、怜央のシャツをきゅっと掴んだ。
落ちないように。溺れないように。
……でも、本当は。
溺れてしまいたい。
その本音が、胸の奥で小さく息をした。
怜央が耳元で囁く。
「ありがとう、梨音。……俺の妻」
私は、目を閉じた。
契約の妻として。
そして、彼の甘さに、もう溺れかけている自分を隠したまま。