記憶を失くした御曹司と偽りの妻

寄り添う日々

朝の光が、久遠家の屋敷の廊下をまっすぐに伸びていた。磨き上げられた床に、窓枠の影が格子みたいに落ちる。
その影をまたぐたび、左手の薬指がきらりと鳴った気がして、私は反射的に指先を押さえる。

結婚指輪。
本物じゃないのに。

……こういう時に限って、やけに存在感がある。
重たいわけじゃない。むしろ軽い。けれど、軽さのせいで余計につけていることが意識に刺さる。

「梨音、準備できた?」

背後から、低くて落ち着いた声がした。

「……っ」

振り返ると、久遠怜央が椅子から立ち上がろうとしているところだった。
杖はもう使っていない。
代わりに、机に置いた手に、無駄がない。

……天才外科医。
その肩書きが、動作の端々にまで染みついているみたいだった。
身体がまだ万全じゃないのに、立ち方まで美しいなんて、反則だ。

「だ、大丈夫です。……じゃなくて。うん、できたよ」

言い直した自分に、心の中で小さくため息をつく。
話し方が、毎回揺れる。
敬語になって、慌てて飲み込むたび、胸の奥がきゅっと縮む。

この世界に、私は本来いない。
私はここにいる資格がない。
……契約書と、振り込まれたお金以外には。

「その敬語を消そうとしてる顔、わかりやすい」

怜央が、くすっと笑った。

「え、顔に出てた?」

「出てる。すごく」

「……それ、恥ずかしい」

「恥ずかしがるのも、かわいい」

さらっと言って、本人は涼しい顔をする。
言われるこちらの心臓の苦労も知らないで。

笑うと、目元が少しだけ柔らかくなる。刃物みたいな整った顔が、急に人になる。

「だって……」

「妻が夫に敬語は、いらないだろ」

それをさらりと言うのが、いちばん残酷だと思う。
私が、嘘をついているから。

妻という言葉が、優しさの形をして私を追い詰めてくる。
この人は、悪意なんて一粒もないのに。

コンコン、と控えめなノックが響いた。

「失礼いたします。リハビリ担当の佐久間です。本日は歩行訓練、可動域の確認、痛みの評価を中心に進めます」

現れた理学療法士の男性の後ろから、御堂慎也が無音で入ってきた。秘書というより、影。いつも必要な距離にだけ立って、必要な情報だけを落としていく人。

「奥様」

「……はい」

呼ばれるだけで背筋が伸びる。自分でも不思議なくらい。

「転倒だけは、絶対に避けてください」

私がうなずくと、御堂さんは一瞬だけ視線を私の指輪に落とし、すぐ逸らした。

私のすべてを見透かされている。
そう感じられて、喉が乾く。

リハビリ室は、屋敷の一角とは思えないほど設備が整っていた。平行棒、段差、バランスボール、ストレッチマット。医療グループの御曹司らしい家だ。

「じゃあ、行きます。まずはバイタル確認して……はい、怜央様。右足から」

佐久間さんの指示に合わせて、怜央が平行棒の中へ入る。
私は外側に立って、万が一に備える。

万が一が起きないようにするのが、私の役目。
……妻じゃないのに、妻の役目だけは、ちゃんと果たしたいと思ってしまう。

怜央の足が一歩、床を踏む。

「……っ」

次の一歩が、ほんの少し揺れた。

「怜央……!」

反射的に腕を伸ばす。

その瞬間、彼の手が私の腰を掴んだ。支えるための最短距離。でも、掌の熱が、服越しにじわりと広がる。

私が支えるつもりだったのに、支えられているのは、私の方みたいだ。

「……大丈夫。今のは、痛みじゃない。単に、バランスを探しただけ」

「本当に?無理してない?」

「ああ。……それに」

息を整えながら、怜央は私を見上げた。

「ほら。君がいる」

胸の奥が、変な音を立てた。
いてはいけない場所に、いるのに。

ここにいていいって言われるたび、罪悪感が薄まってしまうのが怖い。
薄まった罪悪感の分だけ、私はこの人に惹かれてしまうから。

「……御堂という俺の秘書から、いろいろ聞いた」

怜央が、歩幅を少しだけ調整しながら言う。

「事故のこと。仕事のこと。久遠家のこと……そして、君のこと」

「御堂さん、私の何をどこまで言ってるのかしら……」

怜央が楽しそうに笑った。
私だって、笑ってしまいそうになる。
こういう瞬間が、いちばん危険だ。
嘘の生活が、本当の日常に見えてしまうから。

「助かってる」

「え……」

「俺、覚えてないことが多い。事故の衝撃も、細部も、穴があいたみたいに抜けてる。……でも」

怜央が、平行棒の中で立ち止まる。

「でも……?」

私が続きを促すと、怜央は少しだけ視線を落とす。
その表情が、いつもの自信に満ちた怜央じゃなくて、どこか子どもみたいに不安げで、胸がぎゅっとなった。

私の腰を掴んでいた手が、ゆっくり離れて、代わりに私の薬指に触れた。指輪の上を、そっとなぞる。

「君が妻だってことは、忘れなかった」

息が止まる。

「……それ、は……」

何も返せない私を、怜央は責めない。
ただ、静かに続ける。

「俺が何を忘れても、君だけは、ここにいるってわかる。……理屈じゃない」

理屈じゃない。
その言葉が、怖い。

理屈なら、崩せる。
理屈なら、契約で片が付く。
でも理屈じゃないなんて、どうやって壊せばいいの。

「君がいると、痛みを忘れられる」

笑みは、優しいのに、どこか確信めいていた。
その確信が、私の嘘をいっそう浮き彫りにする。

痛みを忘れるほどの妻。
私は、そんな存在じゃない。

契約で、ここにいるだけ。
借金を返すために、嘘を演じているだけ。

それを知ったら、この人は——

軽蔑する?

怒る?

それとも、あの目から、私に向ける熱だけがすっと消える?

……消えてほしくない、って思ってしまう自分が、いちばん最低だ。

「奥様、呼吸、浅いですよ」

佐久間さんの声で我に返った。
私、息を止めてた。

「すみません……!」

「あなたが緊張すると、怜央様も体が固くなる。肩の力、抜いて。見守るだけで十分です」

見守るだけ。
それがいちばん難しい。

見守るって、手を伸ばさないことでもあるから。
踏み込まないことでもあるから。
私は……踏み込みたいのに。

怜央は、何も言わずに歩行を再開する。
一歩、また一歩。
そのたびに、私の心も揺れる。

「……梨音」

「な、なに?」

「3歩目で目が泳いでる。心配しすぎ」

「だって、転んだら大変だし……」

「転ばない。君が見てる」

「根拠がふわふわしてる」

「でも、効く」

そう言って笑うのがずるい。
私は、つい真剣に見てしまう。

——本当は、私が支えちゃいけないのに。
でも、支えになりたい、と思ってしまう。

リハビリが終わる頃には、怜央の額に薄い汗が滲んでいた。
それでも彼は、やり切った顔をしている。

「今日は、上出来です。痛みは?」

佐久間さんが尋ねると、怜央は少し考えるみたいに眉を寄せてから、私のほうを見る。

「……さっきより、軽い」

「気のせいじゃなく?」

「気のせいでもいい。軽いって思えるなら、それで」

「まあ、それもひとつの疼痛コントロールですね。心理的要因は無視できませんから」

佐久間さんがプロとしての口調でまとめると、怜央が肩をすくめた。

「ほらな。医療者も言ってる」

「医療者って言い方、雑……」

「俺も医療者だろ」

「患者でしょ、今日は」

私が言うと、怜央がやられたみたいな顔をして、次に嬉しそうに笑った。

それを言った本人が、いちばん気のせいじゃない顔をするから、困る。

リハビリ室を出て、サロンのソファに座らせると、怜央は私の手首を引いた。

「梨音も、座れ」

「私はいいよ。お水——」

「座れ。命令」

「……命令、って言い方、ずるい」

「妻にだけは、ずるくなるらしい」

「らしいって、誰情報?」

「俺情報」

甘い。
こういう甘さが、罪の味に似ている。

さらりと落とす言葉が、甘い。
甘すぎて、喉の奥が苦くなる。

隣に座ると、怜央は私の指輪をもう一度見た。

「それ、似合ってる」

「……ありがとう」

ありがとう、と言っていいのか分からない。
これは奥様らしく見せるための小道具なのに。

「指輪、重くない?」

「重くはないよ。……ただ」

「ただ?」

「……気になる」

「俺も、気になる」

怜央がそう言って、私の薬指に触れかけて、思い出したように手を引っ込めた。

「触られるの、嫌だった?」

「ち、違う。嫌じゃない。そうじゃなくて……」

嫌じゃないと言ってしまったことに、今さら赤面する。
私、何を言ってるの。

怜央が、少しだけ顔を近づけてくる。
距離が、急に熱を帯びる。

「でも、顔が怖い」

「え?」

「考えすぎてる顔。……何を考えてる?」

心臓が跳ねた。
言えるわけがない。

私はあなたの妻じゃありません。
私はお金で雇われた偽物です。

そんな真実を、どうやって口にするの。

言った瞬間、全部終わる。
この屋敷の空気も、彼の笑い方も、私に向ける声も。
妻という言葉の中に詰まっている温度が、全部冷める。

「……ただ、あなたが痛いのが嫌で」

嘘じゃない。
全部じゃないけど、嘘じゃない。

怜央は一瞬だけ黙って、それから私の肩に額を預けた。
重みが、驚くほど自然だった。

「なら、俺はもっと回復する。君が嫌がること、したくない」

……なんで、そんなに優しいの。
嘘をついているのは、私なのに。

「ねえ、怜央」

「ん?」

「もし……」

もし、私があなたの妻じゃなかったら、どうする?

口をついて出そうになって、私は慌てて飲み込む。
危ない。
今のは、危なかった。

怜央が顔を上げ、じっと私を見た。

「今、何か言いかけた」

「言ってない。……気のせい」

「気のせいでもいい。言ってほしい」

この人は、どうしてこう、逃げ道を潰してくるの。
優しい顔で、まっすぐに。

「……いつか、言える時が来たら」

私がそう言うと、怜央は少しだけ目を細めた。

「約束?」

「約束……できるか、わからないけど」

「いい。今の返事で十分」

十分、って。
私は何も渡してないのに。

御堂が、静かに近づいてくる。
表情を変えずに、手元のタブレットを一度だけ操作した。

「本日午後の面会は、主治医からの経過確認と、リハビリメニューの微調整です。逃げられません」

「秘書が冷たい。……鬼だ」

「褒め言葉として受領します」

その会話に、私の口元がほんの少しだけ緩んだ。
笑っていい場面なのに、笑うたび、胸が痛い。

こうやって笑える日々が、借り物だと知っているから。

怜央が、私の手を握った。

「梨音。午後、俺が面会してる間、ここにいて」

「……うん」

「近くにいるだけでいい」

「近くにいたら、邪魔にならない?」

「ならない。むしろ、必要」

必要。
その言葉が、私をここに縛る。

その言葉に、私は縋りたくなる。

私は思わず小さく笑ってしまった。

怜央がそれに気づいて、私を見た。

「今、笑った」

「うん。笑った」

「よかった」

「何が?」

「君が笑うと、俺も痛みが消える」

またそれ。
また、そんなこと言う。

「……それ、ずるい」

「さっきも言った。妻にだけずるい」

「私、ずるいの嫌い」

「じゃあ、俺がずるくなるたび、止めて」

「止められるかな」

「止められなくてもいい。止めようとしてくれるだけでいい」

優しい言い方で、私の逃げ道を塞ぐ。
そして私は、その逃げ道を塞がれることを、少しだけ望んでしまう。

その言葉が、私の中の契約を、少しずつ溶かしていく。

お金のため。
借金返済のため。
そうやって自分に言い聞かせないと、ここにいる理由が崩れてしまうのに。

でも今は、別の理由が芽を出し始めていた。

この人が、痛みを忘れると言うなら。
この人が、私の存在を必要だと言うなら。

嘘の妻でも——
せめて、支えになりたい。

ソファの上で、怜央は短い休息のうちに目を閉じた。
瞼が落ちる直前、掠れた声で、私の名を呼ぶ。

「……梨音」

返事をしたら、嘘が確定してしまう気がして。
それでも私は、握られた手をほどかずに、そっと答えた。

「ここにいるよ」

本物の妻ではない。
だけど、今だけは。

この人の痛みのそばに、私がいてもいいような気がした。

……そして、そう思い始めている自分が、いちばん怖かった。
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