記憶を失くした御曹司と偽りの妻
甘すぎる日常
夜気が、久遠家の庭を薄く凍らせていた。手入れの行き届いた苔の上に、月明かりが白い粉を撒いたみたいに滲む。石灯籠の火は風に揺れて、影がゆっくり伸び縮みしていた。
縁側から一歩降りた梨音は、思わず肩をすくめた。吐く息が白い。指先が、指輪の輪郭を無意識に確かめる。
……冷たい。指輪の金属って、こんなに冷えるんだ。
冷えたのは指先だけじゃない。胸の奥にも、薄い氷が張っているみたいだった。
今日、主治医が言った。
――筋力も、可動域も、基準値に戻っています。リハビリは卒業ですね。
全回復。
その言葉が、まだ現実味を持って梨音の胸の中で鳴っていた。嬉しいはずなのに、胸がふわっと軽くなるはずなのに、なぜか怖い。
卒業……
私もあと1か月で卒業する。
妻役から。
この家から。
怜央の隣から……
「寒い?」
背後から、怜央の声がした。低くて落ち着いていて、夜の庭によく馴染む声。
「……っ」
びく、と肩が跳ねたのが悔しい。梨音は慌てて振り返って、笑顔を作る。
「……大丈夫だよ」
怜央はコートの襟を整えながら、まっすぐこちらへ歩いてくる。足取りはもう、危うさがない。退院したばかりの頃にあった、わずかな躊躇いが消えている。
怜央は私の前まで来ると、視線を上から下へ一度だけ滑らせた。まるで診察みたいな目。
「手、出して」
「え?い、いきなり……」
「診る」
短い言葉。理由が医者っぽいのに、距離が夫っぽい。
私がおずおずと手を出すと、怜央は迷いなく握った。掌が大きい。指が長い。体温が、じわりと移ってくる。
「冷たい」
「だって……夜だもん」
「だもん、じゃない。冷えるのは事実だろ」
「はいはい、先生」
私が冗談めかして言うと、怜央は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「その呼び方、懐かしい気がする……」
……だって。昔、私、取材であなたのこと先生って呼んでた。
言えない。今は言えない。
言ったら、この妻の世界が壊れる気がする。
「少し歩こう。庭を」
怜央は当たり前のように私の隣へ並ぶ。歩調を合わせるのが、呼吸を合わせるみたいに自然だった。
石畳を踏む音が、二人分、一定のリズムで重なる。冷たい空気のなかで、耳だけが妙に敏感になる。
……ほんとに、普通に歩いてる。
ほんの数週間前まで、怜央の歩幅に合わせるのは介助だった。数を数える声は、励ましでもあり、時には嘘をつき続けている自分を押し殺すための呪文でもあった。
『右。次、左。いける。今日も一歩だけ』
『一歩だけって、いつまで言うんだ』
『いつまででも言うよ。だって一歩が積み重なるから』
『……君は頑固だな』
『怜央が言う?』
あのやり取りが、今は遠い。
「……ここまで回復できたのは、君のおかげだ」
唐突に、怜央が言った。
私は、足を止めかけてしまう。危うく転びそうになったのを、根性で笑って誤魔化した。
「私、そんな……。怜央が頑張ったんだよ」
「いや」
怜央は否定する時だけ、少しだけ頑固だ。
「俺は、頑張る方法を知らなかった。……最初の頃、俺は自分の体が自分のものじゃないみたいで、苛立ってた。焦って、勝手に落ち込んで」
彼の横顔が、灯籠の光に切り取られる。輪郭がすっと整っていて、今も天才外科医の顔だと思った。でも、その奥にあるのは、誰かに支えられた男の静かな感情だった。
「君が、毎日、同じことを言った。『今日は昨日より一歩だけ』って」
梨音の喉が、きゅっと鳴る。
そんなこと、言ったっけ……
言った。たぶん、何度も。自分が折れないために。彼が折れないために。
「それ、……鬱陶しくなかった?」
言った瞬間、私はしまったと思った。そんな確認、必要ないのに。
自分が必要な存在だったと思いたいからだ。
怜央は少しだけ首を傾げ、それから、断言するみたいに言った。
「ならなかった。むしろ、救われた」
「救われた……?」
「俺は医者なのに、治る手順を自分に適用できなかった。君の声が、俺の手順書になった」
そんな、格好いい言い方……。
私は笑ってごまかそうとするのに、目の奥が熱くなる。
「怜央、ほんと、そういうとこ……」
「どういうとこだ」
「……人を泣かせるとこ」
怜央が、軽く笑った。
「泣かせたいわけじゃない」
「結果、泣いてます」
「結果、だな」
あまりに普通の会話に、私は余計に泣きそうになる。夫婦みたいな言葉の往復。夫婦みたいな間。
「俺は……君がいなかったら、途中で投げてた」
怜央が、今度は笑わなかった。真剣に、まっすぐに言う。
「だから、ありがとう。梨音」
名前を呼ばれるだけで、胸の奥が熱くなるのがわかる。反射みたいに、涙が目の縁に溜まってしまった。
だめ。今、泣いたら――
「……なんで泣く」
怜央は困ったように眉を寄せて、でも、手を伸ばしてくるのは迷わない。
その指先が、梨音の頬の涙をそっと拭った。温度が、冷えた皮膚の上に落ちる。
「嬉しいだけ。ほんとに」
私が笑って言うと、怜央はふっと目を細めた。
「嬉しいなら、いい」
その一言が、たまらなく優しい。
嬉しいならいいって……そんなの、妻にしか言わない言い方じゃない?
嬉しい。たしかに嬉しい。こんなふうに大切にされるのが、怖いくらい嬉しい。
でも、嬉しい分だけ、胸の奥で別の感情が顔を出す。
嘘つき。私は嘘つきだ。
次の瞬間、怜央は私の首元に視線を落とした。
怜央は自分のマフラーを外す。上質なウールの黒。指先の動きが丁寧で、医師の手だと思う。
「ちょ、怜央、それは――」
「動くな」
短い命令。なのに怖くない。むしろ、守られている感じがするのが悔しい。
怜央は私の背後へ回り、マフラーをそっと首に回した。布が肌に触れる瞬間、ひやりとして、すぐに温かさが広がる。結び目を作る指が、喉元の少し下で止まり、微調整するように引く。
その距離が近い。
息が、耳の近くに落ちて、私の心臓が勝手に跳ねる。
……近い。近すぎる。医者の距離じゃない。夫の距離だ。
「……風邪を引くと困る」
怜央はそう言って、正面に戻った。口元に、微笑みがある。甘いのに、当たり前みたいな顔。
「君は、倒れたらいけない」
怜央は肩をすくめるみたいに息を吐いて、梨音の首元を見た。
「どうして?」
梨音が聞き返すと、怜央は一拍、間を置いた。そこが、ずるい。言葉にする前の沈黙が、期待を生む。
「俺の妻だから」
梨音は笑おうとして、うまく笑えなかった。代わりに、涙がぽろっと落ちた。
やめて。そんなふうに、当たり前に妻として扱わないで……
首元に巻かれた温もりが、幸福の証みたいで。
そして同時に、嘘の重さみたいで。
怜央の眉がまた寄る。
「さっきから、泣いてばかりだな」
「……だって」
梨音は、視線を落とす。指輪が光る。
この指輪が、本物だったらよかったのに……
そんなことを思った瞬間、自分が怖くなる。
「こういうの、慣れてなくて……」
本当は、慣れてないのはこういう優しさじゃない。
慣れてないのは、愛される前提で扱われること。
怜央は、梨音の指輪を見て、穏やかに言った。
「俺の妻だろ」
その言葉が、胸に刺さる。優しく刺さって、抜けなくなる。
違う。私は――
契約書。顧問弁護士の笑顔。押したハンコ。振り込まれた金額。借金の返済予定。
期間限定の妻。
わかってるのに……
「俺は、君に無理をさせたくない。嫌なことがあるなら言ってほしい」
怜央の声は、医師が患者にする確認にも似ていて、同時に、夫が妻にするお願いにも聞こえた。
梨音は反射で首を振った。
「ない。……何も、ないよ」
嘘が、口の中で冷たく固まる。
嫌なことはない。……あるのは、言えないこと。
怜央は私の目を見つめたまま、少しだけ間を置いた。
「……そうか」
納得したふりをするのが上手い人だ、と思った。たぶん、患者にも、家族にも、ずっとそうしてきた人。
だけど、次の一言が、梨音を追い詰める。
「君が苦しい顔をすると、俺が困る」
また困るだ。
その困るが、愛情の形をしているのがわかってしまうから、涙が止まらない。
私は喉の奥で、言葉にならない声を潰した。
ごめんなさい、怜央。
私、あなたに嘘をついてる。
あなたの妻じゃないのに、今、こんなに――)
「梨音」
怜央が、名前を呼ぶ。叱る声じゃない。確かめるみたいな声。
私は、なんとか笑顔を作って顔を上げた。
「な、なに?」
「……君、何か隠してる?」
心臓が跳ねて、喉が詰まる。
ばれてる?嘘、顔に出てる?
「そんな、こと……」
「嘘をつけ、って言ってるわけじゃない」
怜央はゆっくり言った。言葉を選んでいるのが伝わる。だから余計に、胸が痛い。
「言えないなら、今はいい。でも、君が一人で抱えるのは嫌だ」
……優しい。優しすぎる。だから、苦しい。
梨音は唇を噛んだ。言葉が出そうになる。真実が、喉まで上がってくる。
私は、あなたの妻じゃない。
契約なんです。
お金のために――
でも、その瞬間、怜央の手が私の手を包んだ。あまりに温かくて、全部が溶けてしまった。
言えない。今言ったら、この手が離れる気がする。
怜央が、ふっと息を吐いた。
「……庭、冷えるな。戻ろう。君の手、冷たい」
そう言って、当たり前みたいに私の手を取った。
掌が重なる。温度が移る。
私は、手を離せなかった。
幸せで、苦しくて、どうしようもなくて。
暗い庭の石畳を、二人分の足音がまた並ぶ。その間に挟まれた私の胸の内だけが、ひとりで取り残されていく。
あなたの記憶が戻ったら、全部が終わる。
戻らなくても、契約期間が終わったら、終わる。
どっちに転んでも、私はあなたの隣にいられない。
なのに、今はあなたの手が温かくて、私の心は弱くて……
――このまま、終わりを見ないふりをしてしまいそうになる。
ねえ、終わるとき、あなたは私を許してくれるのかな?
私は助けたかった。守りたかった。
――でも、お金も必要だった。
その全部を知ったとき、あなたの瞳は、私をどう映す?
怜央は何も知らない顔で、私の手を握り続ける。
その優しさが、私の罪悪感を、いちばん静かに育てていった。
縁側から一歩降りた梨音は、思わず肩をすくめた。吐く息が白い。指先が、指輪の輪郭を無意識に確かめる。
……冷たい。指輪の金属って、こんなに冷えるんだ。
冷えたのは指先だけじゃない。胸の奥にも、薄い氷が張っているみたいだった。
今日、主治医が言った。
――筋力も、可動域も、基準値に戻っています。リハビリは卒業ですね。
全回復。
その言葉が、まだ現実味を持って梨音の胸の中で鳴っていた。嬉しいはずなのに、胸がふわっと軽くなるはずなのに、なぜか怖い。
卒業……
私もあと1か月で卒業する。
妻役から。
この家から。
怜央の隣から……
「寒い?」
背後から、怜央の声がした。低くて落ち着いていて、夜の庭によく馴染む声。
「……っ」
びく、と肩が跳ねたのが悔しい。梨音は慌てて振り返って、笑顔を作る。
「……大丈夫だよ」
怜央はコートの襟を整えながら、まっすぐこちらへ歩いてくる。足取りはもう、危うさがない。退院したばかりの頃にあった、わずかな躊躇いが消えている。
怜央は私の前まで来ると、視線を上から下へ一度だけ滑らせた。まるで診察みたいな目。
「手、出して」
「え?い、いきなり……」
「診る」
短い言葉。理由が医者っぽいのに、距離が夫っぽい。
私がおずおずと手を出すと、怜央は迷いなく握った。掌が大きい。指が長い。体温が、じわりと移ってくる。
「冷たい」
「だって……夜だもん」
「だもん、じゃない。冷えるのは事実だろ」
「はいはい、先生」
私が冗談めかして言うと、怜央は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「その呼び方、懐かしい気がする……」
……だって。昔、私、取材であなたのこと先生って呼んでた。
言えない。今は言えない。
言ったら、この妻の世界が壊れる気がする。
「少し歩こう。庭を」
怜央は当たり前のように私の隣へ並ぶ。歩調を合わせるのが、呼吸を合わせるみたいに自然だった。
石畳を踏む音が、二人分、一定のリズムで重なる。冷たい空気のなかで、耳だけが妙に敏感になる。
……ほんとに、普通に歩いてる。
ほんの数週間前まで、怜央の歩幅に合わせるのは介助だった。数を数える声は、励ましでもあり、時には嘘をつき続けている自分を押し殺すための呪文でもあった。
『右。次、左。いける。今日も一歩だけ』
『一歩だけって、いつまで言うんだ』
『いつまででも言うよ。だって一歩が積み重なるから』
『……君は頑固だな』
『怜央が言う?』
あのやり取りが、今は遠い。
「……ここまで回復できたのは、君のおかげだ」
唐突に、怜央が言った。
私は、足を止めかけてしまう。危うく転びそうになったのを、根性で笑って誤魔化した。
「私、そんな……。怜央が頑張ったんだよ」
「いや」
怜央は否定する時だけ、少しだけ頑固だ。
「俺は、頑張る方法を知らなかった。……最初の頃、俺は自分の体が自分のものじゃないみたいで、苛立ってた。焦って、勝手に落ち込んで」
彼の横顔が、灯籠の光に切り取られる。輪郭がすっと整っていて、今も天才外科医の顔だと思った。でも、その奥にあるのは、誰かに支えられた男の静かな感情だった。
「君が、毎日、同じことを言った。『今日は昨日より一歩だけ』って」
梨音の喉が、きゅっと鳴る。
そんなこと、言ったっけ……
言った。たぶん、何度も。自分が折れないために。彼が折れないために。
「それ、……鬱陶しくなかった?」
言った瞬間、私はしまったと思った。そんな確認、必要ないのに。
自分が必要な存在だったと思いたいからだ。
怜央は少しだけ首を傾げ、それから、断言するみたいに言った。
「ならなかった。むしろ、救われた」
「救われた……?」
「俺は医者なのに、治る手順を自分に適用できなかった。君の声が、俺の手順書になった」
そんな、格好いい言い方……。
私は笑ってごまかそうとするのに、目の奥が熱くなる。
「怜央、ほんと、そういうとこ……」
「どういうとこだ」
「……人を泣かせるとこ」
怜央が、軽く笑った。
「泣かせたいわけじゃない」
「結果、泣いてます」
「結果、だな」
あまりに普通の会話に、私は余計に泣きそうになる。夫婦みたいな言葉の往復。夫婦みたいな間。
「俺は……君がいなかったら、途中で投げてた」
怜央が、今度は笑わなかった。真剣に、まっすぐに言う。
「だから、ありがとう。梨音」
名前を呼ばれるだけで、胸の奥が熱くなるのがわかる。反射みたいに、涙が目の縁に溜まってしまった。
だめ。今、泣いたら――
「……なんで泣く」
怜央は困ったように眉を寄せて、でも、手を伸ばしてくるのは迷わない。
その指先が、梨音の頬の涙をそっと拭った。温度が、冷えた皮膚の上に落ちる。
「嬉しいだけ。ほんとに」
私が笑って言うと、怜央はふっと目を細めた。
「嬉しいなら、いい」
その一言が、たまらなく優しい。
嬉しいならいいって……そんなの、妻にしか言わない言い方じゃない?
嬉しい。たしかに嬉しい。こんなふうに大切にされるのが、怖いくらい嬉しい。
でも、嬉しい分だけ、胸の奥で別の感情が顔を出す。
嘘つき。私は嘘つきだ。
次の瞬間、怜央は私の首元に視線を落とした。
怜央は自分のマフラーを外す。上質なウールの黒。指先の動きが丁寧で、医師の手だと思う。
「ちょ、怜央、それは――」
「動くな」
短い命令。なのに怖くない。むしろ、守られている感じがするのが悔しい。
怜央は私の背後へ回り、マフラーをそっと首に回した。布が肌に触れる瞬間、ひやりとして、すぐに温かさが広がる。結び目を作る指が、喉元の少し下で止まり、微調整するように引く。
その距離が近い。
息が、耳の近くに落ちて、私の心臓が勝手に跳ねる。
……近い。近すぎる。医者の距離じゃない。夫の距離だ。
「……風邪を引くと困る」
怜央はそう言って、正面に戻った。口元に、微笑みがある。甘いのに、当たり前みたいな顔。
「君は、倒れたらいけない」
怜央は肩をすくめるみたいに息を吐いて、梨音の首元を見た。
「どうして?」
梨音が聞き返すと、怜央は一拍、間を置いた。そこが、ずるい。言葉にする前の沈黙が、期待を生む。
「俺の妻だから」
梨音は笑おうとして、うまく笑えなかった。代わりに、涙がぽろっと落ちた。
やめて。そんなふうに、当たり前に妻として扱わないで……
首元に巻かれた温もりが、幸福の証みたいで。
そして同時に、嘘の重さみたいで。
怜央の眉がまた寄る。
「さっきから、泣いてばかりだな」
「……だって」
梨音は、視線を落とす。指輪が光る。
この指輪が、本物だったらよかったのに……
そんなことを思った瞬間、自分が怖くなる。
「こういうの、慣れてなくて……」
本当は、慣れてないのはこういう優しさじゃない。
慣れてないのは、愛される前提で扱われること。
怜央は、梨音の指輪を見て、穏やかに言った。
「俺の妻だろ」
その言葉が、胸に刺さる。優しく刺さって、抜けなくなる。
違う。私は――
契約書。顧問弁護士の笑顔。押したハンコ。振り込まれた金額。借金の返済予定。
期間限定の妻。
わかってるのに……
「俺は、君に無理をさせたくない。嫌なことがあるなら言ってほしい」
怜央の声は、医師が患者にする確認にも似ていて、同時に、夫が妻にするお願いにも聞こえた。
梨音は反射で首を振った。
「ない。……何も、ないよ」
嘘が、口の中で冷たく固まる。
嫌なことはない。……あるのは、言えないこと。
怜央は私の目を見つめたまま、少しだけ間を置いた。
「……そうか」
納得したふりをするのが上手い人だ、と思った。たぶん、患者にも、家族にも、ずっとそうしてきた人。
だけど、次の一言が、梨音を追い詰める。
「君が苦しい顔をすると、俺が困る」
また困るだ。
その困るが、愛情の形をしているのがわかってしまうから、涙が止まらない。
私は喉の奥で、言葉にならない声を潰した。
ごめんなさい、怜央。
私、あなたに嘘をついてる。
あなたの妻じゃないのに、今、こんなに――)
「梨音」
怜央が、名前を呼ぶ。叱る声じゃない。確かめるみたいな声。
私は、なんとか笑顔を作って顔を上げた。
「な、なに?」
「……君、何か隠してる?」
心臓が跳ねて、喉が詰まる。
ばれてる?嘘、顔に出てる?
「そんな、こと……」
「嘘をつけ、って言ってるわけじゃない」
怜央はゆっくり言った。言葉を選んでいるのが伝わる。だから余計に、胸が痛い。
「言えないなら、今はいい。でも、君が一人で抱えるのは嫌だ」
……優しい。優しすぎる。だから、苦しい。
梨音は唇を噛んだ。言葉が出そうになる。真実が、喉まで上がってくる。
私は、あなたの妻じゃない。
契約なんです。
お金のために――
でも、その瞬間、怜央の手が私の手を包んだ。あまりに温かくて、全部が溶けてしまった。
言えない。今言ったら、この手が離れる気がする。
怜央が、ふっと息を吐いた。
「……庭、冷えるな。戻ろう。君の手、冷たい」
そう言って、当たり前みたいに私の手を取った。
掌が重なる。温度が移る。
私は、手を離せなかった。
幸せで、苦しくて、どうしようもなくて。
暗い庭の石畳を、二人分の足音がまた並ぶ。その間に挟まれた私の胸の内だけが、ひとりで取り残されていく。
あなたの記憶が戻ったら、全部が終わる。
戻らなくても、契約期間が終わったら、終わる。
どっちに転んでも、私はあなたの隣にいられない。
なのに、今はあなたの手が温かくて、私の心は弱くて……
――このまま、終わりを見ないふりをしてしまいそうになる。
ねえ、終わるとき、あなたは私を許してくれるのかな?
私は助けたかった。守りたかった。
――でも、お金も必要だった。
その全部を知ったとき、あなたの瞳は、私をどう映す?
怜央は何も知らない顔で、私の手を握り続ける。
その優しさが、私の罪悪感を、いちばん静かに育てていった。