定時退社の主任には秘密がある
8話(2/2)
温かい匂いがする。出汁の優しい匂い。
トントンと一定のリズムで刻む音はなんだか安心した。重い瞼をゆっくり開けると、柚亜はベッドの上で横になっていた。
(私……倒れて、それで……)
それで、東海林が。
東海林はどこだろう、帰ってしまっただろうか。でもそうしたらこの音は?
「起きました?」
答えを告げたのは東海林自身だった。緩く微笑む彼、手には盆に乗せた茶碗が載っている。
「すみません、勝手にキッチン借りました」
盆をサイドテーブルに置き、ベッド横に跪く。
「起きれますか。薬飲んで欲しいのでお粥作りました。食べれます?」
「え、そんなことまでさせちゃって申し訳ないです」
「僕がやりたくてやってるので気にしないでください」
柚亜はベッドに腰掛ける。東海林が土鍋から茶碗によそった粥をかき混ぜて冷まして、手渡してくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます……あ! ドレッサーの椅子! 座ってください!」
柚亜が促すと、東海林は椅子に座る。それを見届けて安心した柚亜は、蓮華に息を吹きかけ、粥を口に入れる。卵が混ざった粥は出汁の優しい味がした。
「おいしい……主任、料理お上手なんですね」
「そりゃ、一人暮らしも長いですから。でもよかった。ただの熱で」
「え?」
「また、出会った時みたいにメンタルがぐらついてて、それで休んだのかと不安になりました」
「誤解ですって。それだけボロボロだったんでしょうけど」
この会社に入る前、東海林に駅のホームで出会った。
「飛び込み自殺と間違えれて、大騒ぎになりましたよね」
「フラフラな人がいるなって電車が来る数分前くらいから注意深く見てたんです。だからこっちもパニックになっちゃって……」
「荷物も少なかったから駅員さんの誤解を解くのが大変でした。でも、それがあるから今会社で働けてる。聞いてなかったですけど、どうしてあの時会社紹介してくれたんですか?」
プチ旅行は大騒ぎで無くなり、駅員と東海林の誤解を解くのにだいぶ気力を使った柚亜は、東海林と並んで駅員室を出た。その時不意に聞かれた。「今働いてらっしゃらないんですか」と。それは駅員に所属を聞かれた時に答えた通りだ。働いていないと言うと、東海林は柚亜に名刺を渡したのだ。
『よければうちの会社に来ませんか?』
それを思い返すように話すと東海林はポリポリと首を掻く。
「……言わなきゃダメですか?」
「聞きたいです」
そう言い切ると、東海林はポツリとこぼした。
「消えてしまいそうな人がいるなって一目見た時から目が離せなくて」
東海林は真っ直ぐ柚亜を見て言う。
「貴方が放っておいたらどこかに行ってしまいそうな気がして、ほっとけなくて近くで見守っていたかった。……本当に入社してくれるかは賭けでしたけどね」
「そんな、たった一回会った人間にそこまで」
「ほんと、なんででしょうね。でも直感的にそうしなきゃと思った」
東海林は立ち上がり「台所片付けてきますね」とキッチンへ向かう。その後ろ姿を柚亜は粥を口に運びながらいつまでも眺めていた。
心配されていたことが、なんだかこそばゆかった。もぞもぞとした感情に叫び出しそうになる。誰かに心配されたと言うことが、人生であまり実感することがなかった。離婚した時も医師と事務員の立場の違いから誰も助けてくれず、とても心細かった。ずっとひとりぼっちだった気がした。
(ひとりじゃないってこんなに心強いんだ)
お手製の粥が胸に沁みる。なんだか少し涙が出そうになった。最後の米の一粒まで空にして、洗い物を済ませようとキッチンに食器を持っていく。キッチンに座ってスマートフォンをいじっていた東海林と目が合った。
「なんでそんなところにいるんですか」
「ゲームがしたくて」
「こっちでやればいいのに」
「音が出るから」
「無音でやってるじゃないですか」
この1DKにはゲームの電子音なんて、微かにだって聞こえない。東海林は気まずそうに眉間に皺ん寄せた後、観念したように口を開く。
「怖いかな、気持ち悪いかなって、不安で」
「なんで」
「だって、密室であんな重いこと言われたら怖いでしょう」
確かに、他の人なら怖いかもしれない。でも、東海林なら、と思った。東海林なら怖くないと。
「怖くないですよ。むしろ、胸が暖かくなりました。私のことを見つけてくれる人がいたんだって」
柚亜は東海林の隣に腰掛ける。
「……元旦那とは恋愛結婚だったんですけど、浮気されて、詰め寄ったら逆ギレされて、それから離婚調停が終わるまで徹底的に無視されました」
もう実際の記憶は朧げだけど、その時の恐怖は今でも夢に見る。透明人間になることは、とても怖いことだ。
「だから、透明ならどこに行ってもいいだろうってあの日、ろくに荷物も持たずに電車に乗ろうとしてーー。でも主任が見つけてくれたから立ち直れました」
あの日、あの待ち時間の数分の間に気が変わって家に戻ったり、行き先を変えたりしたら、今の自分はなかった。
「感謝、いや……感謝以上の気持ちを貴方に持ってます」
高鳴る胸を抑える。破裂してしまいそうだった。
もう裏切られたくないから、二度目は本当に折れてしまうから、直球勝負で伝えるつもりはない。ただ、自分の気持ちの整理として、自分だけがわかる言葉で伝えたかった。
「それ…どういう意味で言ってます?」
東海林は柚亜の頬に触れる。自分の体温よりひんやりとしたその手が気持ち良くて柚亜は頬を擦り寄せた。静かな部屋に息を呑む音が響いた気がした。
「……帰ります」
東海林は頬から手を離し、立ち上がる。
「薬、ビニール袋に入ってるんで絶対飲んでくださいね」
足早に荷物を床からひったくり、コートを羽織らずに小脇に抱えて玄関に向かっていく。東海林はこちらに一瞥もせずに玄関を出て行った。部屋には柚亜だけがひとり座っている。
「……振られちゃった、な」
シンクに置いた食器がカタリと音を立てたのがやけにうるさかった。
トントンと一定のリズムで刻む音はなんだか安心した。重い瞼をゆっくり開けると、柚亜はベッドの上で横になっていた。
(私……倒れて、それで……)
それで、東海林が。
東海林はどこだろう、帰ってしまっただろうか。でもそうしたらこの音は?
「起きました?」
答えを告げたのは東海林自身だった。緩く微笑む彼、手には盆に乗せた茶碗が載っている。
「すみません、勝手にキッチン借りました」
盆をサイドテーブルに置き、ベッド横に跪く。
「起きれますか。薬飲んで欲しいのでお粥作りました。食べれます?」
「え、そんなことまでさせちゃって申し訳ないです」
「僕がやりたくてやってるので気にしないでください」
柚亜はベッドに腰掛ける。東海林が土鍋から茶碗によそった粥をかき混ぜて冷まして、手渡してくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます……あ! ドレッサーの椅子! 座ってください!」
柚亜が促すと、東海林は椅子に座る。それを見届けて安心した柚亜は、蓮華に息を吹きかけ、粥を口に入れる。卵が混ざった粥は出汁の優しい味がした。
「おいしい……主任、料理お上手なんですね」
「そりゃ、一人暮らしも長いですから。でもよかった。ただの熱で」
「え?」
「また、出会った時みたいにメンタルがぐらついてて、それで休んだのかと不安になりました」
「誤解ですって。それだけボロボロだったんでしょうけど」
この会社に入る前、東海林に駅のホームで出会った。
「飛び込み自殺と間違えれて、大騒ぎになりましたよね」
「フラフラな人がいるなって電車が来る数分前くらいから注意深く見てたんです。だからこっちもパニックになっちゃって……」
「荷物も少なかったから駅員さんの誤解を解くのが大変でした。でも、それがあるから今会社で働けてる。聞いてなかったですけど、どうしてあの時会社紹介してくれたんですか?」
プチ旅行は大騒ぎで無くなり、駅員と東海林の誤解を解くのにだいぶ気力を使った柚亜は、東海林と並んで駅員室を出た。その時不意に聞かれた。「今働いてらっしゃらないんですか」と。それは駅員に所属を聞かれた時に答えた通りだ。働いていないと言うと、東海林は柚亜に名刺を渡したのだ。
『よければうちの会社に来ませんか?』
それを思い返すように話すと東海林はポリポリと首を掻く。
「……言わなきゃダメですか?」
「聞きたいです」
そう言い切ると、東海林はポツリとこぼした。
「消えてしまいそうな人がいるなって一目見た時から目が離せなくて」
東海林は真っ直ぐ柚亜を見て言う。
「貴方が放っておいたらどこかに行ってしまいそうな気がして、ほっとけなくて近くで見守っていたかった。……本当に入社してくれるかは賭けでしたけどね」
「そんな、たった一回会った人間にそこまで」
「ほんと、なんででしょうね。でも直感的にそうしなきゃと思った」
東海林は立ち上がり「台所片付けてきますね」とキッチンへ向かう。その後ろ姿を柚亜は粥を口に運びながらいつまでも眺めていた。
心配されていたことが、なんだかこそばゆかった。もぞもぞとした感情に叫び出しそうになる。誰かに心配されたと言うことが、人生であまり実感することがなかった。離婚した時も医師と事務員の立場の違いから誰も助けてくれず、とても心細かった。ずっとひとりぼっちだった気がした。
(ひとりじゃないってこんなに心強いんだ)
お手製の粥が胸に沁みる。なんだか少し涙が出そうになった。最後の米の一粒まで空にして、洗い物を済ませようとキッチンに食器を持っていく。キッチンに座ってスマートフォンをいじっていた東海林と目が合った。
「なんでそんなところにいるんですか」
「ゲームがしたくて」
「こっちでやればいいのに」
「音が出るから」
「無音でやってるじゃないですか」
この1DKにはゲームの電子音なんて、微かにだって聞こえない。東海林は気まずそうに眉間に皺ん寄せた後、観念したように口を開く。
「怖いかな、気持ち悪いかなって、不安で」
「なんで」
「だって、密室であんな重いこと言われたら怖いでしょう」
確かに、他の人なら怖いかもしれない。でも、東海林なら、と思った。東海林なら怖くないと。
「怖くないですよ。むしろ、胸が暖かくなりました。私のことを見つけてくれる人がいたんだって」
柚亜は東海林の隣に腰掛ける。
「……元旦那とは恋愛結婚だったんですけど、浮気されて、詰め寄ったら逆ギレされて、それから離婚調停が終わるまで徹底的に無視されました」
もう実際の記憶は朧げだけど、その時の恐怖は今でも夢に見る。透明人間になることは、とても怖いことだ。
「だから、透明ならどこに行ってもいいだろうってあの日、ろくに荷物も持たずに電車に乗ろうとしてーー。でも主任が見つけてくれたから立ち直れました」
あの日、あの待ち時間の数分の間に気が変わって家に戻ったり、行き先を変えたりしたら、今の自分はなかった。
「感謝、いや……感謝以上の気持ちを貴方に持ってます」
高鳴る胸を抑える。破裂してしまいそうだった。
もう裏切られたくないから、二度目は本当に折れてしまうから、直球勝負で伝えるつもりはない。ただ、自分の気持ちの整理として、自分だけがわかる言葉で伝えたかった。
「それ…どういう意味で言ってます?」
東海林は柚亜の頬に触れる。自分の体温よりひんやりとしたその手が気持ち良くて柚亜は頬を擦り寄せた。静かな部屋に息を呑む音が響いた気がした。
「……帰ります」
東海林は頬から手を離し、立ち上がる。
「薬、ビニール袋に入ってるんで絶対飲んでくださいね」
足早に荷物を床からひったくり、コートを羽織らずに小脇に抱えて玄関に向かっていく。東海林はこちらに一瞥もせずに玄関を出て行った。部屋には柚亜だけがひとり座っている。
「……振られちゃった、な」
シンクに置いた食器がカタリと音を立てたのがやけにうるさかった。