定時退社の主任には秘密がある

9話

 次の日、すっかり熱は下がり柚亜は軽い身体で出社することができた。東海林の持ってきてくれた薬のおかげだろう。普段柚亜が買わないような値段が張る風邪薬で、なんだか大切にされている錯覚を見る。実際はただの上司と部下以上の感情なんてなかったのに。
「中村さん、おはようございます」
 東海林のデスクの横を通ると挨拶の先手を取られる。柚亜はわざとらしくない笑みを作って返した。きちんと笑えているだろうか。
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
「いえ、治ったようでよかったです」
 デスクに戻り、パソコンを起動させる。プレゼンの資料は完璧に終わった。原稿も終わった。部長へのチェックも済んでいる。今日は軽く最終チェックをした後、通常の業務を終わらせて早めに仕事を切り上げるつもりだ。
「中村ちゃん、主任の噂聞いた?」
 昼休みに手洗いに立つと、情報通と自認しているらしい女性社員に捕まった。
「なんですか?」
「京都本社に異動になるらしいって」
「え……そんな……」
 東海林が東京支社からいなくなるなんて。まるで頭を殴られたような衝撃だった。いや、たかが噂だ。どうなるかなんて確定した話ではない。
「営業成績もいいし栄転準備って考えれば妥当だけど寂しいよね」
「そう、ですね……」
 それから女性社員とどう別れたから記憶が朧げだ。柚亜は寂しげな足取りで廊下を歩く。このままデスクに戻って東海林を目の前にしたら泣き出してしまいそうだった。
 人気のない屋上前の階段踊り場。そこに柚亜は腰掛ける。
(何をこんなにショックを受けてるんだろう。主任が京都に行っても私には何も関係ないのに)
 柚亜と東海林は上司と部下で、それ以上の感情は拒否されてしまった。今後どうなることもなければ、可能性もない。キッパリ諦めるにはいい機会だ。なのに、どうしても胸の奥がざわつく。
 気分が重く、晴れない。少し休んでからデスクに戻ろう。柚亜は考える。自分は東海林とどうなりたいんだろう。
(付き合いたい? ううん、そうなれればいいなとは思うけど)
 それ以前に、東海林の一挙一動に愛しさが溢れてくるのだ。自分で止めようとしても止められない。それが苦しいのに、会えなくなるのはもっと苦しい。
(しんどいな……)
 体育座りの柚亜は膝に顔を埋める。
 なんだか本当に具合が悪くなってきた気すらする。これは末期だな、と自嘲気味に笑むと頭上から思いびとに似た声が聞こえてきた。
「大丈夫ですか」
 顔を上げると、そこには心配そうに顔を顰める東海林が缶コーヒーを持って立っていた。
「だいじょうぶ、です」
「唇真っ白じゃないですか。これ、あげます」
 東海林は隣に座り、缶コーヒーを渡す。スチール缶は熱いくらい身体を温めてくれて、なんだかホッとした。ふとパッケージを見ると、マホクエのモンスターがこちらを見ていて柚亜は微笑みを溢してしまう。
「ありがとうございます……またマホクエ」
「好きなんです」
 やけに通る声で東海林は言った。
「ちょっと羨ましいくらいです」
「そうですかね」
 静寂が続く。それを断ち切ったのは柚亜だった。
「……主任」
「はい」
「噂って本当ですか」
 少しの間の後、東海林の口から「困ったな」と漏れた。それだけで、噂が確定したものだと分かった。
「三年だけってことにはなってます。しばらくしたら東京支社に帰ってこれると」
 三年。だとしても帰ってきた時に営業企画部だとは限らない。
「いつ行くんですか」
「話ではニヶ月後には」
 三年後には柚亜が部署異動しているかもしれない。部署異動ならまだいいか、支社まで違う未来があるかもしれない。
「このプレゼン終わったらペアの仕事ないですよね」
「もうそろそろ引き継ぎを大々的にやらないとまでありますから、ないかと」
 柚亜は滲みかけた視界を歯を食いしばって蹴散らした。切り替えよう。自分と東海林は今後とも何もない。自分の恋心は報われない。会うことももう無くなるかもしれない。
 ーーでも、仕事は目の前にある。
 これが東海林との最後の仕事だ。
「主任、明日のプレゼン絶対成功させましょう」
「不安とかないんですね」
「ないわけないです。でも、これが主任とのラストの仕事になるので気合い入れます」
 威勢よく言い切ったものの、何も喋れなくなったり、上手く進行がいかなかったり、質問に答えられなかったり、仮定の不安要素は多い。
「……しくじらないか、不安ですけど」
 自分でもわかるくらい顔を歪ませると、東海林が柚亜の背中を軽く叩いた。
「大丈夫ですよ。だって、僕がついてますから」
 東海林の方を思わず見る柚亜に優しく笑いかける。安心できる落ち着いた声。
「中村さんの側にいます。だから頑張りましょう」
 柚亜はその表情を見て決意を固く固めた。力強く答える。
「はい」
 自分の気持ちが今後報われなくても、それでも構わない。自分は自分の今できることを精一杯やるだけだ。少しだけ元気が出た。柚亜の負の感情を、缶コーヒーが体温と一緒に吸い取ってくれたみたいだ。
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