私の生きる理由 ~君の鼓動に、永遠の愛を誓って~
その日、緑川グローバル本社に、甘ったるく、かつ毒々しい香水の匂いが充満した。
悪夢は、ハイヒールの音と共にやってきた。
「あら、相変わらず地味なオフィスね。もっと華やかに改装すればいいのに」
社長室のドアが無遠慮に開かれ、楠箕田園子――今はソノコ・ミシェルナと名乗る女が姿を現した。
豪奢な毛皮のコートに、指には巨大な宝石が光る。その派手な装いは、洗練されたオフィスの空気の中で異物のように浮いていた。
「…何の用だ。アポイントは取っていないはずだが」
「堅いこと言わないでよ、あなたと私の仲じゃない」
桜介が睨みつける視線を、園子は鼻で笑い飛ばし、勝手にソファへ腰掛けた。
彼女はミシェルナ・グループの提携条件を突きつけに来たのだ。その内容は、緑川グローバルの株式の一部譲渡と、園子自身の役員待遇での迎え入れ。
つまり、実質的な乗っ取り宣言だった。
「お断りだ。帰ってくれ」
「強気ねえ。でも、断ればうちの主人が黙っていないわよ?緑川のメインバンクに圧力をかける準備もできているの」
園子は愉悦に歪んだ笑みを浮かべる。
桜介は拳を握りしめた。かつて愛を誓ったはずの口から出るのは、欲望と脅迫の言葉だけ。
園子はさらに、部屋に飾られていた写真立てに目を留めた。亡き母・京華の写真だ。
「まだこんな写真飾ってるの?死んだ人間なんて、何の役にも立たないのに。いつまでもマザコンみたいで気持ち悪いわ」
「…貴様ッ!!」
桜介が激昂し、立ち上がった瞬間だった。
園子がわざとらしく手を滑らせ、サイドテーブルにあった花瓶を床に落とした。
ガシャーン!
激しい破砕音と共に、水と花がカーペットに散乱する。
「あら、ごめんなさい。安っぽい花瓶だから手が滑っちゃった。…おい、そこの掃除婦!さっさと片付けなさいよ!」
園子が怒鳴りつけた先にいたのは、ちょうど廊下の清掃をしていた澪音だった。
騒ぎを聞きつけ、おどおどと入ってくる澪音。
園子は彼女を見るなり、蔑んだ目で嘲笑した。
「うわ、何この汚い女。こんなのが出入りしてるなんて、会社のレベルが知れるわね。ほら、這いつくばって拭きなさいよ。それがお似合いよ」
澪音は無言で膝をつき、ガラス片を拾い始めた。その手は震えている。
桜介の怒りが頂点に達した。自分の城を汚され、母を侮辱され、罪のない社員まで虐げられる。
だが、彼が怒鳴ろうとしたその時――。
澪音が、ガラス片を拾いながら、小さな、しかし凛とした声で呟いた。
「…Il n'y a pas de fleurs bon marché. Seuls les cœurs sont pauvres.(安っぽい花などありません。貧しいのは、人の心だけです)」
そのフランス語は、園子には聞き取れなかったようだ。
だが、隣に控えていたフランス人の側近が、ハッとして澪音を見た。
澪音は顔を上げず、流れるような所作で破片を片付けると、園子の足元にある水たまりを丁寧に拭き取った。
そして立ち上がり、一瞬だけ園子を直視した。
分厚い眼鏡の奥の瞳が、氷のように冷たく光る。
「…お足元が滑りやすくなっております、マダム。これ以上、ご自身の品位を落として転ばれませんよう、ご注意ください」
それは完璧な敬語だったが、込められた皮肉は鋭利な刃のようだった。
園子は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「な、何よその言い草は! たかが掃除婦の分際で!」
「行きましょう。……ここは、空気が悪すぎます」
澪音は園子の罵声を無視し、桜介に一礼すると、清掃用具を持って静かに退室した。
その背筋は、どんなドレスを着た園子よりも気高く伸びていた。
あっけにとられる園子を放置し、桜介もまた部屋を出た。胸のすくような一撃だったが、同時に彼の心は限界を迎えていた。母を愚弄された怒りと悲しみが、体内を嵐のように暴れ回っている。
悪夢は、ハイヒールの音と共にやってきた。
「あら、相変わらず地味なオフィスね。もっと華やかに改装すればいいのに」
社長室のドアが無遠慮に開かれ、楠箕田園子――今はソノコ・ミシェルナと名乗る女が姿を現した。
豪奢な毛皮のコートに、指には巨大な宝石が光る。その派手な装いは、洗練されたオフィスの空気の中で異物のように浮いていた。
「…何の用だ。アポイントは取っていないはずだが」
「堅いこと言わないでよ、あなたと私の仲じゃない」
桜介が睨みつける視線を、園子は鼻で笑い飛ばし、勝手にソファへ腰掛けた。
彼女はミシェルナ・グループの提携条件を突きつけに来たのだ。その内容は、緑川グローバルの株式の一部譲渡と、園子自身の役員待遇での迎え入れ。
つまり、実質的な乗っ取り宣言だった。
「お断りだ。帰ってくれ」
「強気ねえ。でも、断ればうちの主人が黙っていないわよ?緑川のメインバンクに圧力をかける準備もできているの」
園子は愉悦に歪んだ笑みを浮かべる。
桜介は拳を握りしめた。かつて愛を誓ったはずの口から出るのは、欲望と脅迫の言葉だけ。
園子はさらに、部屋に飾られていた写真立てに目を留めた。亡き母・京華の写真だ。
「まだこんな写真飾ってるの?死んだ人間なんて、何の役にも立たないのに。いつまでもマザコンみたいで気持ち悪いわ」
「…貴様ッ!!」
桜介が激昂し、立ち上がった瞬間だった。
園子がわざとらしく手を滑らせ、サイドテーブルにあった花瓶を床に落とした。
ガシャーン!
激しい破砕音と共に、水と花がカーペットに散乱する。
「あら、ごめんなさい。安っぽい花瓶だから手が滑っちゃった。…おい、そこの掃除婦!さっさと片付けなさいよ!」
園子が怒鳴りつけた先にいたのは、ちょうど廊下の清掃をしていた澪音だった。
騒ぎを聞きつけ、おどおどと入ってくる澪音。
園子は彼女を見るなり、蔑んだ目で嘲笑した。
「うわ、何この汚い女。こんなのが出入りしてるなんて、会社のレベルが知れるわね。ほら、這いつくばって拭きなさいよ。それがお似合いよ」
澪音は無言で膝をつき、ガラス片を拾い始めた。その手は震えている。
桜介の怒りが頂点に達した。自分の城を汚され、母を侮辱され、罪のない社員まで虐げられる。
だが、彼が怒鳴ろうとしたその時――。
澪音が、ガラス片を拾いながら、小さな、しかし凛とした声で呟いた。
「…Il n'y a pas de fleurs bon marché. Seuls les cœurs sont pauvres.(安っぽい花などありません。貧しいのは、人の心だけです)」
そのフランス語は、園子には聞き取れなかったようだ。
だが、隣に控えていたフランス人の側近が、ハッとして澪音を見た。
澪音は顔を上げず、流れるような所作で破片を片付けると、園子の足元にある水たまりを丁寧に拭き取った。
そして立ち上がり、一瞬だけ園子を直視した。
分厚い眼鏡の奥の瞳が、氷のように冷たく光る。
「…お足元が滑りやすくなっております、マダム。これ以上、ご自身の品位を落として転ばれませんよう、ご注意ください」
それは完璧な敬語だったが、込められた皮肉は鋭利な刃のようだった。
園子は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「な、何よその言い草は! たかが掃除婦の分際で!」
「行きましょう。……ここは、空気が悪すぎます」
澪音は園子の罵声を無視し、桜介に一礼すると、清掃用具を持って静かに退室した。
その背筋は、どんなドレスを着た園子よりも気高く伸びていた。
あっけにとられる園子を放置し、桜介もまた部屋を出た。胸のすくような一撃だったが、同時に彼の心は限界を迎えていた。母を愚弄された怒りと悲しみが、体内を嵐のように暴れ回っている。