私の生きる理由 ~君の鼓動に、永遠の愛を誓って~
 澪音との逢瀬から一週間。
 彼女の姿は、忽然と緑川グローバル本社から消えた。
 清掃カートを押す儚げな背中も、廊下の片隅にひっそりと生けられていた季節の花々も、もうどこにもない。
 無機質なオフィスは、ただの「職場」に戻ってしまったようだった。

「…なぁ、あの清掃員の人、最近見なくないか?」
「ああ、あの眼鏡の人だろ?冴えない格好だったけど、近くで見ると肌が透き通るみたいに綺麗だったよな」

 給湯室の近くで、若手社員たちが小声で噂をしているのを桜介は耳にした。

「俺さ、実は話がしたくて、わざとぶつかるふりしたことあるんだよ」
「えっ、お前もか?実は俺も…だって、普通に話しかける度胸なくてさ」
「フランス語やドイツ語まで話してただろ?一体何者だったんだろうな…」

 社員たちの声には、明らかな喪失感が滲んでいた。
 彼女を「トロい」「暗い」と馬鹿にしていた女子社員たちでさえ、今は沈んでいる。彼女がこっそり飾っていたラベンダーや百合の花に、実は誰もが癒やされていたのだ。
 「今度会ったら、意地悪したこと謝ろうと思ってたのに……」そんな呟きも聞こえてくる。
 澪音という存在は、いつの間にかこの冷たいビルの「心」になっていたのだ。

 桜介自身もまた、心にぽっかりと穴が開いたような日々を送っていた。
 仕事をしていても、ふとした瞬間に彼女の残り香を探してしまう。あのカフェで聞いた、悲しげな声が耳から離れない。

「桜介。…少し、顔色が悪いぞ」

 社長室で、父の忍が心配そうに声をかけてきた。

「実はな、この前。お前が素敵な女性と一緒にいるところを見たんだ」
「え?見ていたんですか」
「ああ。カフェに入っていくお前たちの姿をな。お前が女性に対して、あんなに必死な顔をするのは初めて見たよ。…相手は、私でも胸がきゅんとするような、凛とした女性だった」

 桜介は言葉を詰まらせ、俯いた。

「…彼女は、俺を拒絶しています。俺が近づくと、逃げてしまうんです」
「押しが足らんなぁ。まあ、それだけお前が本気で、慎重になっている証拠だ」
「…もう、誰も好きになんてなれないと思っていました。でも…」

 言葉が続かない。認めるのが怖かった感情が、堰を切って溢れ出してくる。
 忍はゆっくりと歩み寄り、震える息子の肩に手を置いた。

「止まっていた時間が動き出しただけだ。桜介、何も恐れることはない。自分に正直になればいい」

 自分に、正直に。
 その言葉が、桜介の胸に深く突き刺さった。
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