私の生きる理由 ~君の鼓動に、永遠の愛を誓って~
「お前の仕事ぶりには誰も文句は言わん。だがな、人間には潤いが必要だ。…どうだ、そろそろ新しい出会いを考えてみないか? お前もまだ28だ。人生はこれから…」
「その話なら、もううんざりです」
桜介は冷ややかに遮った。
父が心配してくれているのは分かる。だが、その優しさが今は痛い。
「僕はもう、結婚も恋愛もするつもりはありません。緑川グローバルの発展、それだけが僕の生きる理由です」
「桜介…」
「それに、母さんのような人は、この世に2人といませんから」
母の名が出た瞬間、忍の表情が曇った。
父もまた、母の死から立ち直れていないのだ。母はドナー登録をしており、その臓器は誰かの命へと受け継がれた。
父はよく『京華はまだどこかで生きている』と言うが、桜介にはそれが空虚な慰めにしか聞こえなかった。死んだ者は戻らない。それが冷徹な現実だ。
「…すまない。無理強いはしないよ」
忍は力なく立ち上がると、ドアノブに手をかけ、振り返った。
「ただ、忘れないでくれ。お前が幸せになることが、母さんの願いでもあるんだぞ」
父が出て行った後、桜介は深く息を吐き出した。
幸せ。そんな不明瞭な概念など、今の彼には砂上の楼閣に過ぎない。
気分転換にコーヒーでも買おうと、桜介は執務室を出た。
廊下は空調が効いているはずなのに、どこか肌寒かった。
給湯室へ向かう途中、女子社員たちの甲高い笑い声が耳に障った。
「ねえ、ちょっと。そこ邪魔なんだけど」
「あーあ、ホコリが舞うじゃない。やめてよ」
「本当、どんくさいわね。…見てよあの眼鏡。牛乳瓶の底みたい」
数人の社員が、通路を塞ぐように立って談笑している。
その足元、彼女たちのハイヒールの陰に、うずくまるような人影があった。
清掃員だ。
グレーのくたびれた作業着。ひっつめた黒髪。顔の半分を覆うような分厚い黒縁眼鏡。
彼女は何も言い返さず、ただ黙々とモップを動かしている。
「…申し訳、ありません…」
聞こえてきたのは、消え入るような小さな声だった。
その声の響きに、桜介の足がふと止まる。
怯えているようでいて、どこか芯のある不思議な音色。
女子社員の1人が、わざとらしく清掃員のバケツを爪先で小突いた。
水が少しだけ床に零れる。
「あ、ごめんなさぁい。見えなくてぇ」
「きゃはは! やだ、意地悪ぅ」
その光景に、桜介の眉間に深い皺が刻まれた。
弱者をいたぶって喜ぶ醜悪な精神。かつての妻、園子が見せていた選民意識と重なり、吐き気がこみ上げる。
「何をしている!」
低く、抑揚のない声で桜介は告げた。
その場の空気が一瞬で凍りつく。
振り返った女子社員たちが、桜介の姿を見て青ざめた。
「ふ、副社長!お、お疲れ様です!」
「ち、違うんです、この清掃員が私の靴を汚したので、注意を……」
「仕事中に無駄話をして、清掃の妨害をするのが君たちの業務か?」
氷の刃のような視線に射抜かれ、彼女たちは言葉を失う。
言い訳すら許さない威圧感。
彼女たちは「失礼しました!」と叫ぶと、逃げるようにその場を去っていった。