私の生きる理由 ~君の鼓動に、永遠の愛を誓って~
廊下には再び静寂が戻る。
残されたのは、桜介と、床に膝をついたままの清掃員だけ。
桜介は小さく舌打ちしたくなるのを堪え、その場を立ち去ろうとした。
礼など言われたくない。
ただ、目障りな騒音を排除しただけだ。
だが、すれ違いざま。
清掃員がゆっくりと顔を上げ、桜介を見上げた。
「…あの…」
分厚いレンズの奥にある瞳と、視線が絡み合う。
ドクン。
心臓が、大きく跳ねた。
桜介は思わず足を止め、自分の胸元を片手で押さえた。
なんだ? 今、全身を駆け巡った電流のような感覚は。
ただの地味な清掃員だ。年齢は30過ぎだろうか。
おどおどとして、冴えない風貌。
それなのに、その瞳を見た瞬間、桜介の奥底で眠っていた「何か」が激しく共鳴したのだ。
懐かしさ、安らぎ、そして泣きたくなるほどの切なさ。
まるで、長い旅の果てに、ようやく帰るべき場所にたどり着いたような。
「…君は」
無意識に声をかけていた。
不意に彼女の名札が目にとまった。
天城澪音(あましろ・れいん)…その名前を見ると、桜介はなんとなく重みを感じた。
彼女の顔を見ていると、頬に擦り傷があるのが見えた。
かすり傷だが、その傷が気になった桜介は自分の意志とは別に体が勝手に動いた。
ハンカチをだして、彼女の頬をそっと拭っていたのだ。
「あ…」
澪音は驚いて声を漏らした。
「これで大丈夫だ」
ぶっきらぼうな桜介だが、澪音は口元に小さく笑みを浮かべた。
「有難うございました…。ハンカチ…新しいものを弁償しますので…」
「あ?構わない、このくらい。洗えばすぎおちるし」
言いながらポケットにハンカチをしまった桜介。
「…申し訳ございませんでした…」
そっと視線をそらした澪音は、逃げるように清掃用具をまとめ、足早に去っていく。
その背中は小さく、どこか儚げだった。
だが、桜介はその場から動けなかった。
遠ざかる彼女の背中を見つめながら、自分の掌に伝わる鼓動が、今までになく速く、そして温かいことに戸惑っていた。
(…気のせいだ)
桜介は自分に言い聞かせるように、強く拳を握りしめた。
疲れているのだ、父に変なことを言われたせいで、少し感傷的になっているだけだ。
自分はもう、誰も愛さないと誓ったのだから。
しかし、彼はまだ気づいていない。
その胸の鼓動が、自分の意思によるものではなく、亡き母の命が発した「再会の合図」であることに。
そして、あの冴えない清掃員が、世界を変えるほどの力と秘密を隠し持っていることに。
11月の雨が、窓ガラスを静かに叩き続けていた。
止まっていたはずの運命の時計の針が、微かに、カチリと音を立てて動き出した。