私の生きる理由 ~君の鼓動に、永遠の愛を誓って~
2
緑川桜介にとって、緑川グローバルという会社は単なる職場ではなかった。それは父が築き上げ、自分が守り抜くべき「城」であり、彼の誇りそのものだった。
不貞を働いた元妻との泥沼離婚、そして母の死。個人的な不幸に見舞われた彼が、唯一正気を保っていられたのは、この城をより高く、強固にすることに没頭していたからだ。
不正を許さず、妥協を排し、完璧な利益を生み出すこと。それが彼の信念であり、母を失った喪失感を埋める唯一の手段だった。
だが、その城に亀裂が入ろうとしていた。
「…副社長。例のフランスの投資会社との提携話ですが、先方が強硬な姿勢を崩しておりません」
数日後の重役会議。営業部長が脂汗を浮かべながら報告する。
議題に上がっているのは、新興の投資会社『ミシェルナ・グループ』との大型業務提携だ。相手は豊富な資金力を武器に、緑川グローバルとの独占契約を迫っていた。
「条件が悪すぎる。相手の素性も不透明だ。この件は保留だと言ったはずだ」
桜介は冷たく切り捨てた。
利益は魅力的だ。だが、直感が警鐘を鳴らしている。ミシェルナ・グループのやり口は強引で、どこか品がない。桜介が最も嫌悪する「金さえあれば何でも買える」という驕りが透けて見えるのだ。
「し、しかし…先方の代表夫人が、どうしても緑川グローバルと手を組みたいと熱望されておりまして……。実は、本日午後、先方の使者が極秘に来社されることになっています」
「勝手に話を進めるな!」
桜介が机を叩いた瞬間、会議室が凍りついた。
無能な部下への苛立ちと、見えない相手への不快感。桜介はネクタイを少し緩め、大きく息を吐いた。
「…いいだろう。その使者とやらがどれほどの人物か、私が直接見極めてやる」
その日の午後。
一階のエントランスホールは、異様な空気に包まれていた。
「No! No! I said, I want to see the President! Now!」
受付カウンターの前で、恰幅の良いフランス人男性が怒鳴り散らしていた。英語とフランス語が混ざった早口の言葉に、受付嬢たちはパニックに陥っている。
彼はミシェルナ・グループから派遣された先行視察員だった。約束の時間より一時間も早く到着し、アポイントの手違いで通訳も不在という最悪の状況だ。
「ど、どうしましょう…英語担当の佐藤さんは外出中で……」
「誰か、フランス語ができる人はいないの!?」
ロビーを行き交う社員たちは、関わり合いになるのを恐れて遠巻きに見ているだけだ。
騒ぎを聞きつけた桜介が、エレベーターホールから早足で向かおうとした、その時だった。
怒り狂う男性の前に、すっと音もなく進み出た影があった。
清掃カートを押した、あの清掃員・天城澪音だ。
「おい、君!清掃員が出る幕じゃない!下がっていろ!」
警備員が制止しようとする声を、彼女は無視した。
澪音は男性の前に立つと、分厚い眼鏡の奥の瞳で相手を真っ直ぐに見据え、静かに口を開いた。
「Monsieur, calmez-vous, s'il vous plaît.(ムッシュ、どうか落ち着いてください)」
その発音は、驚くほど流暢で、音楽のように洗練されていた。
怒りで顔を赤くしていた男性が、虚を突かれたように口を閉じる。
澪音は怯むことなく、穏やかな微笑みを浮かべて続けた。
「Le président vous attend. Permettez-moi de vous guider vers le salon VIP.(社長はあなたをお待ちしています。VIPサロンへご案内いたします)」
完璧な敬語、そして相手を尊重する優雅な仕草。それは、薄汚れた作業着を着ていることさえ忘れさせるほど、高貴な気品に満ちていた。
男性の表情がみるみるうちに和らいでいく。
「Oh... merci, mademoiselle.(おお…ありがとう、お嬢さん)」
男性は機嫌を直し、澪音の案内で大人しく奥の応接室へと歩き出した。
呆気にとられる受付嬢や警備員たち。
そして、柱の陰でその一部始終を見ていた桜介もまた、目を見開いていた。
(…あの発音、ただの学習者のレベルじゃない。ネイティブ、いや、それ以上の教養を感じさせる話し方だ)
桜介の中で、彼女への違和感が確信へと変わりつつあった。
ただの清掃員ではない。
彼女は何者なのだ?
不貞を働いた元妻との泥沼離婚、そして母の死。個人的な不幸に見舞われた彼が、唯一正気を保っていられたのは、この城をより高く、強固にすることに没頭していたからだ。
不正を許さず、妥協を排し、完璧な利益を生み出すこと。それが彼の信念であり、母を失った喪失感を埋める唯一の手段だった。
だが、その城に亀裂が入ろうとしていた。
「…副社長。例のフランスの投資会社との提携話ですが、先方が強硬な姿勢を崩しておりません」
数日後の重役会議。営業部長が脂汗を浮かべながら報告する。
議題に上がっているのは、新興の投資会社『ミシェルナ・グループ』との大型業務提携だ。相手は豊富な資金力を武器に、緑川グローバルとの独占契約を迫っていた。
「条件が悪すぎる。相手の素性も不透明だ。この件は保留だと言ったはずだ」
桜介は冷たく切り捨てた。
利益は魅力的だ。だが、直感が警鐘を鳴らしている。ミシェルナ・グループのやり口は強引で、どこか品がない。桜介が最も嫌悪する「金さえあれば何でも買える」という驕りが透けて見えるのだ。
「し、しかし…先方の代表夫人が、どうしても緑川グローバルと手を組みたいと熱望されておりまして……。実は、本日午後、先方の使者が極秘に来社されることになっています」
「勝手に話を進めるな!」
桜介が机を叩いた瞬間、会議室が凍りついた。
無能な部下への苛立ちと、見えない相手への不快感。桜介はネクタイを少し緩め、大きく息を吐いた。
「…いいだろう。その使者とやらがどれほどの人物か、私が直接見極めてやる」
その日の午後。
一階のエントランスホールは、異様な空気に包まれていた。
「No! No! I said, I want to see the President! Now!」
受付カウンターの前で、恰幅の良いフランス人男性が怒鳴り散らしていた。英語とフランス語が混ざった早口の言葉に、受付嬢たちはパニックに陥っている。
彼はミシェルナ・グループから派遣された先行視察員だった。約束の時間より一時間も早く到着し、アポイントの手違いで通訳も不在という最悪の状況だ。
「ど、どうしましょう…英語担当の佐藤さんは外出中で……」
「誰か、フランス語ができる人はいないの!?」
ロビーを行き交う社員たちは、関わり合いになるのを恐れて遠巻きに見ているだけだ。
騒ぎを聞きつけた桜介が、エレベーターホールから早足で向かおうとした、その時だった。
怒り狂う男性の前に、すっと音もなく進み出た影があった。
清掃カートを押した、あの清掃員・天城澪音だ。
「おい、君!清掃員が出る幕じゃない!下がっていろ!」
警備員が制止しようとする声を、彼女は無視した。
澪音は男性の前に立つと、分厚い眼鏡の奥の瞳で相手を真っ直ぐに見据え、静かに口を開いた。
「Monsieur, calmez-vous, s'il vous plaît.(ムッシュ、どうか落ち着いてください)」
その発音は、驚くほど流暢で、音楽のように洗練されていた。
怒りで顔を赤くしていた男性が、虚を突かれたように口を閉じる。
澪音は怯むことなく、穏やかな微笑みを浮かべて続けた。
「Le président vous attend. Permettez-moi de vous guider vers le salon VIP.(社長はあなたをお待ちしています。VIPサロンへご案内いたします)」
完璧な敬語、そして相手を尊重する優雅な仕草。それは、薄汚れた作業着を着ていることさえ忘れさせるほど、高貴な気品に満ちていた。
男性の表情がみるみるうちに和らいでいく。
「Oh... merci, mademoiselle.(おお…ありがとう、お嬢さん)」
男性は機嫌を直し、澪音の案内で大人しく奥の応接室へと歩き出した。
呆気にとられる受付嬢や警備員たち。
そして、柱の陰でその一部始終を見ていた桜介もまた、目を見開いていた。
(…あの発音、ただの学習者のレベルじゃない。ネイティブ、いや、それ以上の教養を感じさせる話し方だ)
桜介の中で、彼女への違和感が確信へと変わりつつあった。
ただの清掃員ではない。
彼女は何者なのだ?