私の生きる理由 ~君の鼓動に、永遠の愛を誓って~
 緑川桜介にとって、緑川グローバルという会社は単なる職場ではなかった。それは父が築き上げ、自分が守り抜くべき「城」であり、彼の誇りそのものだった。
 不貞を働いた元妻との泥沼離婚、そして母の死。個人的な不幸に見舞われた彼が、唯一正気を保っていられたのは、この城をより高く、強固にすることに没頭していたからだ。
 不正を許さず、妥協を排し、完璧な利益を生み出すこと。それが彼の信念であり、母を失った喪失感を埋める唯一の手段だった。

 だが、その城に亀裂が入ろうとしていた。

「…副社長。例のフランスの投資会社との提携話ですが、先方が強硬な姿勢を崩しておりません」

 数日後の重役会議。営業部長が脂汗を浮かべながら報告する。
 議題に上がっているのは、新興の投資会社『ミシェルナ・グループ』との大型業務提携だ。相手は豊富な資金力を武器に、緑川グローバルとの独占契約を迫っていた。

「条件が悪すぎる。相手の素性も不透明だ。この件は保留だと言ったはずだ」

 桜介は冷たく切り捨てた。
 利益は魅力的だ。だが、直感が警鐘を鳴らしている。ミシェルナ・グループのやり口は強引で、どこか品がない。桜介が最も嫌悪する「金さえあれば何でも買える」という驕りが透けて見えるのだ。

「し、しかし…先方の代表夫人が、どうしても緑川グローバルと手を組みたいと熱望されておりまして……。実は、本日午後、先方の使者が極秘に来社されることになっています」
「勝手に話を進めるな!」

 桜介が机を叩いた瞬間、会議室が凍りついた。
 無能な部下への苛立ちと、見えない相手への不快感。桜介はネクタイを少し緩め、大きく息を吐いた。

「…いいだろう。その使者とやらがどれほどの人物か、私が直接見極めてやる」
その日の午後。
 一階のエントランスホールは、異様な空気に包まれていた。

「No! No! I said, I want to see the President! Now!」

 受付カウンターの前で、恰幅の良いフランス人男性が怒鳴り散らしていた。英語とフランス語が混ざった早口の言葉に、受付嬢たちはパニックに陥っている。
 彼はミシェルナ・グループから派遣された先行視察員だった。約束の時間より一時間も早く到着し、アポイントの手違いで通訳も不在という最悪の状況だ。

「ど、どうしましょう…英語担当の佐藤さんは外出中で……」
「誰か、フランス語ができる人はいないの!?」

 ロビーを行き交う社員たちは、関わり合いになるのを恐れて遠巻きに見ているだけだ。
 騒ぎを聞きつけた桜介が、エレベーターホールから早足で向かおうとした、その時だった。

 怒り狂う男性の前に、すっと音もなく進み出た影があった。
 清掃カートを押した、あの清掃員・天城澪音だ。

「おい、君!清掃員が出る幕じゃない!下がっていろ!」

 警備員が制止しようとする声を、彼女は無視した。
 澪音は男性の前に立つと、分厚い眼鏡の奥の瞳で相手を真っ直ぐに見据え、静かに口を開いた。

「Monsieur, calmez-vous, s'il vous plaît.(ムッシュ、どうか落ち着いてください)」

 その発音は、驚くほど流暢で、音楽のように洗練されていた。
 怒りで顔を赤くしていた男性が、虚を突かれたように口を閉じる。
 澪音は怯むことなく、穏やかな微笑みを浮かべて続けた。

「Le président vous attend. Permettez-moi de vous guider vers le salon VIP.(社長はあなたをお待ちしています。VIPサロンへご案内いたします)」

 完璧な敬語、そして相手を尊重する優雅な仕草。それは、薄汚れた作業着を着ていることさえ忘れさせるほど、高貴な気品に満ちていた。
 男性の表情がみるみるうちに和らいでいく。

「Oh... merci, mademoiselle.(おお…ありがとう、お嬢さん)」

 男性は機嫌を直し、澪音の案内で大人しく奥の応接室へと歩き出した。
 呆気にとられる受付嬢や警備員たち。
 そして、柱の陰でその一部始終を見ていた桜介もまた、目を見開いていた。

(…あの発音、ただの学習者のレベルじゃない。ネイティブ、いや、それ以上の教養を感じさせる話し方だ)

 桜介の中で、彼女への違和感が確信へと変わりつつあった。
 ただの清掃員ではない。
 彼女は何者なのだ?
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