この空の青を、君は知らない

あれから数日が過ぎたある夜のことだった。

いつものように天音と屋上で過ごし、夜明け前に自分の病室へと帰っていた。

物音を立てないように足音を忍ばせて廊下を歩く。

夜の廊下を、蛍光灯が一定の間隔で並んで照らしている。はじめは、なんだか不気味に見えていたその光も、今ではどこか落ち着くものになっていた。

静まり返った廊下に、靴底が床に触れる小さな音だけが残る。

さっきまでの会話を思い出しながら、病室の前まで歩き、取っ手へと手を伸ばす。

そこで、ふと気づいた。

扉が少し開いている。

「あれ……?」

締め忘れてたのかな……。

そう思いながら、そっと扉を押して、中へと足を踏み入れる。

すると、暗がりの中、ベッドのそばに人が立っていた。

——だ、だれ?

一瞬、体が固まる。

病室の中に、誰かがいる。

そんなはずはないのに。

そう思った瞬間、その人物が振り向き、眩しいライトをこちらに向ける。

さっきまで暗闇にいたこともあって、一瞬で白い光に視界を奪われ、思わずぎゅっと目を閉じた。

「遥人くん……?」

聞き慣れた声に、ゆっくりと目を開ける。

そこには坂井さんが立っていた。

「こんな時間に、どこ行ってたの?!」

なんで、ここに坂井さんが……?
もう巡回の時間になっていたのか……?

やばい。

焦る言葉が頭の中を次から次へと駆け巡る。

どう言い訳をしようかと必死に考えるけれど、いい案は何も浮かばない。

「えっと……トイレ?に……」

「トイレなら病室についているでしょう?」

「えっとじゃあ……ちょっと体を動かしに?」

「こんな時間に?」

坂井さんは腕を組む。

「っていうか、『じゃあ』ってなによ?
なんでさっきからハテナがついてるわけなのよ」

思いつくままに口を開いた言い訳は、あっさりと崩されていった。

完全なる敗北。

坂井さんの視線から逃げるように、目を逸らす。

「はぁ……とりあえずベッドに来て」

ため息とともに促され、ベッドに腰掛ける。

「体調は?大丈夫?」

「……はい」

「そう。それならとりあえずよかったわ」

眉間に皺を寄せた坂井さんの顔には、心配の色が浮かんでいて、申し訳ない気持ちになる。

「巡回のときにいなかったら、私だけじゃなく、みんな心配するの。
下手すりゃ病院全体に連絡がいって、大事になるわよ?」

「……はい」

思わず視線を落とす。

「どこ行ってたの?」

「……屋上」

「屋上?何しに?」

聞かれたくないところを、ぴたりと突かれる。

この質問から逃げるのはもう無理そうだった。

「えっと……」

言いたくなかった。

このことは、天音と僕だけの秘密だ。

もし知られたら、この時間は終わってしまうかもしれない。

屋上へ行くことも、夜に会うことも、きっと許されなくなる。

ゆっくりと顔をあげると、坂井さんは静かにこちらを見ていた。

逃げ場はなかった。

「……眠れなくて」

「それで?」

「……ちょっと、外の空気吸いたいなって」

「で、それは?」

肩にかかったままの絵の具が入った鞄を、坂井さんは鋭い視線で一瞥する。

「……絵、描いてました」

坂井さんの表情が、ほんのわずかに変わった気がした。

僕の鞄へ、坂井さんの視線がもう一度落ちる。

そして、少しだけの間を置いて言う。

「もしかして……」

胸の奥がドクンと強く鳴る。

「天音ちゃん?」

思わず顔を上げる。

坂井さんの方から、天音の名前が出ると思わなかった。

それに、天音が屋上に行ってることを知ってるのか?

何も言えずにいると、坂井さんは少しだけ困ったように笑った。

「やっぱり……」

それから声を落とす。

「もう長い間、私の担当なのよ。あの子も」

思い出すように、少し上を向いてから、こちらを見る。

「天音ちゃんもそうだけど、遥人くん。
あなたも無理していい体じゃない」

その言葉が胸に残る。

僕は何も言えずに、ただ小さく頷いた。

「とりあえず、この件に関してはいい感じに私が言っといてあげるから」

坂井さんは眉を下げたまま微笑んだ。

「あ、ありがとうございます」

「でもその代わりに三つだけ約束して」

「三つ?」

坂井さんは頷き、人差し指をまっすぐ立てた。

「まず一つ目は、夜出歩くにしても、必ず夜明けの回診までには戻ること」

それから二本目の指を立てる。

「そしてちゃんと寝ること。
夜起きてたいっていうなら、昼でも夕方でもいいから睡眠はとりなさい。
睡眠不足は免疫が落ちるもとよ。」

「は、はい」

三本目の指が立てられる。

「そして、最後。
無理は絶対にしないこと。
少しでも体調が悪かったら、病室から出ちゃダメ。いいわね?」

立てられた三本指を見つめながら、僕は頷いた。

「今日は、っていってももう朝になりそうだけど、とりあえず寝なさい」

そういって坂井さんは病室を出て行った。

静かになった部屋で、僕はベッドに横になる。

窓の外を見る。

夜とも朝とも言えない、混じり合った空が広がっている。

花火の日まで、あと二週間。

坂井さんの言葉を思い出す。

天音も、体調が良くないのだろう。

僕と同じくらいに。

……いや。

もしかしたら、それ以上かもしれない。

天音は長い間入院していると言っていた。
詳しい病気は知らないけれど、きっと簡単なものじゃない。

それでも天音は、そんな様子を一度も見せたことはなかった。

でも。

花火に誘ったとき、嬉しそうに頷いた天音の顔が浮かぶ。

あんなふうに笑った天音を、もう一度見たいと思った。

——見せたい。

夏の夜に咲く、あの空を。


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