この空の青を、君は知らない


夏の夜風がふわりと頬を撫でた。
遠くで木々がかすかに揺れている。

その静けさの中で、
トントントン、と軽い足音が背後から近づいてきた。

左側が少し欠けた橙色の月が、低く浮かんでいた。

明日は満月だろうか。

そのとき、足音がぴたりと止んだ。

後ろを振り向こうとした瞬間、視界がパッと暗くなる。
目元に覆われた手から、ほのかに温かい体温が伝わってくる。

「だーれだ?」

弾むような声が僕に問いかけた。
こんなことするのは、1人しかいない。

「あーまね」

口調を真似て答えると、すぐ近くでくすっと笑う声がした。

振り向くと、楽しそうに笑う天音がいた。

「ふふ、正解!」

「声でバレてるし。ってか天音以外こんなことしないから」

つられて僕も笑う。

「じゃあ、十五ってなんの数字でしょう?」

天音が、これなら無理でしょうと言わんばかりの、自信満々な顔で尋ねる。

だから、ニヤリと笑って答えた。

「花火までの、残りの日数」

天音は、パッと目を大きく開く。

「え!なんで?なんで分かるの?!」

少し不満げな顔をしながら、声を弾ませた。

「だって天音、昨日言ってたじゃん。
あと十六日だーって」

「え?嘘……言ったっけ。
なんかそう言われれば、言ったような気がしてきた……」

頭を抱えながら、悩む姿に思わず笑い声を漏らす。

「っちょっと!笑わないでよ……!」

そう言いながら、天音も笑った。

ふたりして、扉の横の段差に腰を下ろす。
いつの間にか、ここが僕らの定位置になっていた。
並んで座ると、目の前には夜空が広がっていた。

カバンからスケッチブックを取り出す。
表紙をめくって膝に乗せ、絵の具を選び取る。
真っ白な空が、藍色に染まっていく。
筆先から紫苑色の雫が落ち、淡く滲んだ。

天音はすぐそばで、その光景を覗き込んでいた。

「遥人、毎日空描いてるね」

「んー、そうだな」

改めて考えてみると確かに、僕は当たり前のように毎日筆をとって、空を見上げていた。

「他のものは描かないの?」

唐突に天音が尋ねてくる。

「他のもの?」

「んー。人とか、物とか。空じゃない景色とか」

天音は少し考えるように言った。

「あんまり描いたことないな」

天音はいつも僕が描いていく空をじっと見つめて、それから嬉しそうに受けとる。
けれど、このままずっと空ばかりでいいのだろうか。

「空じゃないの描こうか?」

少し迷いながらも、それを気づかれまいと明るい声で提案する。

すると天音は、ぶんぶんと勢いよく首を横に振った。

「ううん、いいの。
私、遥人の描く空が好きだから」

薄く染められた頬。
形の良い唇が、やわらかくほころぶ。

少し細められた澄んだ瞳は、真っ直ぐに僕をとらえていた。

その目を見つめ返すことができなくて、僕はそっと視線を外す。

なんとなく、胸の奥がざわついた。

そして、話題を逸らすように口を開いた。

「明日は満月かな」

空を見上げて僕が言うと、天音も同じように月を見上げた。

「ねぇ。こういう満月の前の日の月、なんて言うか知ってる?」

頭の中を探してみるけれど、まったく分かりそうもない。

「なんだろ、分かんない」

すると、少し得意げな顔で天音が口を開く。

「二つ呼び方があってね。
一つは小望月(こもちづき)
もう少しで望月、つまり満月になるから」

そう言いながら、天音は視線を月へ戻す。

「もう一つはね、待宵の月(まつよいのつき)

少し間を置いて、続けた。

「大切な人に会えるのを待つ夜の月、なんだって」

橙色の月明かりが、天音の横顔をやわらかく照らしていた。
僕は、なんとなく目を離せなかった。

「待宵の月、か……」

聞き慣れない響きだった。
それなのに、この静かな夜には不思議としっくりくる。

僕は、その月を絵の中にそっと浮かべた。
橙色の光が、藍色の空の上で優しく広がった。

満月を待つ月。
それは、花火の日を待つ僕たちと少し似ている気がした。

ふと隣を見ると、天音はまだ月を見上げていた。

「いい言葉だな……」

「でしょ?私、好きなんだ」

天音は満足そうに目を細めた。
もう一度、月を見上げる。
それから二人で、しばらく黙って空を見上げた。

あと二週間もすれば、
この夜空に鮮やかな花火が打ち上がる。

煌びやかな光が、藍色の空に重なるような気がした。

それを思い浮かべるだけで、胸の奥が少し明るくなった。

「なぁ、天音」

「……ん?」

「天音?」

ぼんやりとした返事に、隣を見る。
俯いた天音の顔は、どこか赤く見えた。

「大丈夫……?」

「え……あ、うん……」

少し遅れて答える声が、どこか弱い。

「熱?」

額に手を当てると、はっきりとした熱さが手のひらに伝わった。
そのとき、天音は小さく目を伏せた。

「……熱いな」

「今日はもう、戻った方がいいんじゃない?」

「そう、かも……。
ごめんね、今日はもう戻るね」

困ったように笑いながら、天音が立ち上がる。
その体が、わずかによろめいた。

咄嗟に腕を支える。

「病室まで一緒に行くよ」

「え?いや、大丈夫だよ……」

そう言うけれど、どう見ても無理をしている。

「大丈夫じゃないだろ」

「ううん、ほんとに平気。
ほら、いつものことだし……!」

その言葉に、僕はそれ以上言えなくなる。

「そっか……」

少し間を置いてから言った。

「けど、気をつけて、な?」

「うん、ありがと」

天音はいつものように、ひらひらと手を振った。
僕は、ただそれを見送ることしかできなかった。

振り返ると、さっきと同じ橙色の月が静かに浮かんでいた。

病室番号くらい、聞いておけばよかったかもしれない。

そう思ったけれど、
また明日も会える気がして、そのままにした。

手元には、天音に渡しそびれた空が残っていた。
その中で、月だけが静かに光っている。

それからしばらくして、
僕も屋上を後にした。


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