この空の青を、君は知らない
第五章

「天音、行こっか」

扉を引きながら、声をかける。

天音は座っていたベッドの端から嬉しそうに立ち上がる。

「うん!」

二人して、階段を上る。

天音の呼吸がかすかに揺れる。
僕の心臓は大きく脈打っている。

手すりを握る手が、思わず強くなる。

それでも、重たいはずの体は、どこか浮き足立っていて、僕らの足取りは軽かった。

冷たい取っ手に手をかけて、扉を押す。

その瞬間、目の前に、満点の星空が広がった。

「綺麗……」

思わず、声が漏れる。

「わぁ……っ」

隣から、弾んだ声が聞こえる。

「……私、こんなに眩しい夜空を見るの、初めて」

「僕もだよ」

これまでに見たどの空よりも、たくさんの光がそこにあった。
輝く星々は、明るさを競い合っているようにも、肩を寄せ合っているようにも見えた。

並んでいつもの場所に腰を下ろす。
コンクリートの床は冷たかったけれど、そんなことは気にならなかった。

ただ静かに、二人で星空を見上げる。

夜空を切り裂くように、一筋の強い光が流れる。

「あっ、流れ星!」

どちらからともなく、声が重なる。

驚いて隣に視線を下ろすと、天音も同じことをしていた。

「……っ」

そしてどちらからともなく笑い声を上げた。

「ふふ、真似したでしょ?」

「してないって!天音が真似したんだろ?」

「違うってば〜
ほら、遥人こそいつも私の真似してるじゃん!」

「それとこれとは話別だから」

「別じゃないもん、一緒だもん〜!」

笑い声が、夜に溶けていく。

まるで、この夜空の下には、僕たち二人しかいないみたいだった。

笑い声の余韻だけが、夜に残った。

スケッチブックに手を伸ばす。

この空を、残したい。

そう思った、その時だった。

「……ねぇ、遥人」

なんとか言いかけたような、小さな声。

「今日はさ、描かないで……」

少しだけ迷うように、目を伏せる。

「……え?」

「その代わり……」

そっと手を差し出す。

心臓が、ひとつ大きく跳ねた。

「手、握ってて」

そう言って、目線を合わせる。

その頬は、赤く染まっていた。

「……今日だけだから。いいでしょ?」

天音は、ぷいっとそっぽを向くように、空を見上げる。

差し出されたままの手を、ゆっくりと握る。

温かかった。

きらりと星が降る。

「流れ星って、なんで願いが叶うっていうのかな」

「……さあな」

少しだけ間を置く。

「でも、一瞬の間で言えるくらい、強く願ってるから……とかじゃない?」

「そっか」

小さく、頷く。

「お願いしたら、叶うのかな」

「やってみようよ」

空を見上げたまま、言う。

「それを楽しみにしてたんだろ?」

また一つ、星が流れる。

——どうか。

隣を見る。

天音は俯いたままだった。

「……お願い、した? 」

「……ううん」

小さく、首を振る。

「なにお願いしたらいいか、わかんない……」

その声は、少しだけ弱かった。

「叶えたいこと、お願いするんだよ」

「叶えたいこと……?」

ゆっくりと顔を上げる。

「ああ。天音の叶えたいことは?」

少しの沈黙。

天音の唇が、わずかに震える。

「……言えないよ」

掠れた声。

「だって……」

そこで言葉が止まる。

「絶対、叶わない……」

その目に、光が滲む。
胸の奥が、痛む。

それでも、目は逸らさなかった。

「……絶対なんて、ないだろ……?」

「……じゃあ」

小さく、息を吸う。

「言っても、いいの……?」

静かに、けれど力強く頷く。
天音は、手をぎゅっと強く握った。

「私は……遥人とずっと、一緒にいたい」

一筋、涙が頬を伝う。

「……もう少しでいいから、一緒にいたいの」

何も、返せなかった。

天音の肩が、小さく震えていた。

「また花火を見たいし……
何回だって、一緒に空を見上げたい。
遥人の描く空が見たい……」

ぽつり、ぽつりと言葉が溢れる。

「……まだ、生きてたいよ」

すっと冷たい風が吹き、髪が揺れ、横顔が照らされる。

天音は、顔を覆うようにして涙をこぼす。

「誰かのためじゃなくて、私のために明日が来て欲しい……。
朝が来ても、太陽が昇っても、遥人の隣で笑っていたいの。
本当は、遥人の描いた青空を見るだけじゃなくて、その青空の下で一緒に見上げたい……っ!」

「私は、このまま終わりたくなんてない」

息が詰まる。

「……嫌だよ」

天音の小さい体が、嗚咽とともに震える。

「ねぇ、遥人……。
私、あなたと一緒に、青空の下を歩きたかった。一分でも、一秒でもいい。
普通の女の子として、あなたの隣にいたかった」

泣きじゃくるその姿は、今にも崩れてしまいそうだった。

声にならない嗚咽が、夜に溶ける。

その姿を、これ以上見ていられなかった。

その小さな体を、思わず引き寄せた。

強く、抱きしめる。

「ねぇ、天音」

耳元で、静かに言う。

「出会った頃、言ってたよな」

「……?」

「流れ星の話。
見たことあるけど、お願いしたか忘れたって僕は言ったんだ」

「でも、本当は違う……
僕はさ、母さんに、これ以上辛い顔をさせたくなかった。
だから、病気を治してくださいってお願いしたんだ」

「でも……それって……」

「うん、叶ってないよ……」

「じゃあ……」

掠れた声で天音が言うのに、被せるように言った。

「それがさ……ちゃんと願えてなかったんだよ」
「ルールがあったんだ」

「ルール?」

「両手を重ねて握ってから、目を瞑って願わなきゃいけないんだ。流れ星を見ずに」

「でも、そんなことしたって……」

天音の声が、弱く揺れる。

「……願ってみないと、分かんないんだろ?」

天音がハッとしたような顔をして、それから涙に濡れた頬を緩ませる。

「わがままなお願いだけど、いいの?」

「いいだろ、ちょっとくらい。
だって僕たちは、まだ子供なんだから」

「なにそれ……」

そう言って、僕らはもう一度笑った。

天音は両手を丁寧に重ねて、目を瞑る。
その横顔をそっと見てから、僕も同じように目を閉じた。

——どうか。

今の、この時間だけでいい。

どうか、僕たちに時間をください。

叶うかなんてわからない。

それでも、願わせてほしい。

どうか、あと少し、あと少しだけでいいから。
天音と一緒にいさせてください。


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