無駄を嫌う御曹司とかわいげのない秘書の契約結婚
 会社を辞めるしか逃れる方法はないが、大企業からの収入を手放したくなく、イコールそれは契約結婚を求める大和のそばで仕事を続けるということ。

 海千山千を相手にしてきた男に、千尋程度の女が抗えるはずがない。

(嘘でしょう……なんでこんなことに)

 千尋はため息を呑み込み、ふたたび椅子に腰を下ろした。

 逃げだすと思われているのか、大和に腕を掴まれたままだ。

「お断りしたいのですが……」
「クマトイファクトリーを助けたくはないのか?」

 それは脅しではと思いながらも、半ば諦めの気持ちで口に出す。

「助けたいです。専務と契約結婚すれば、助けてくれるんですか?」
「あぁ、下手なコンサルタントを雇うより俺に任せておけば結果が出ると、君ならわかるだろう? 俺も損をするつもりはない。ただ、立て直したあとは君のお父上次第だが」
「そうでしょうね」

 傲慢な物言いだが、不思議と腹は立たなかった。

 もし大和がクマトイファクトリーの経営に関われば、絶対に救われると確信しているからだ。

 千尋は彼の手腕に関しては少しも疑っていない。

「期間はどれくらいですか? 十年と言われたら、退職を検討させていただきますが」
「俺としては長ければ長い方が助かるが、そうだな……矢木の件が片付いて、なおかつ最低でも一年としよう」
「一年……」

 最低一年なら、と思ってしまった時点で負けなのだろう。
 彼としても契約結婚しクマトイファクトリーを助け、すぐに離婚となれば割に合わない。

 しかし、千尋が一年で離婚を申し出た場合、大和が立て直したクマトイファクトリーを、そのあとは両親と兄の手で存続させていかねばならないのだ。

 大和の手が離れてすぐ会社が窮地に立たされました、では意味がない。

「もしかして……買収も検討されていますか?」

 玖代グループに買収されれば、おそらく未来は明るい。今までは従業員を増やすこともできなかったため生産数に限りがあったが、人材面でも不安はなくなる。

(でも、そうなったらこの人は、福祉施設への発注を切り捨てるだろうな)

 工場を建設し、すべてを機械化すれば、初期費用が嵩んだとしても、将来的に利益の回収は十分に期待できる。そうなれば福祉施設への組み立てなどの発注は不要になるだろう。

 それは、家族が望むクマトイファクトリーではない。
 千尋は窺うように大和を見た。

「俺としてはその方が楽だな。ただ、それを君や君の家族が望むなら、だ。そうなったとしても今の発注先を安易に切り捨てるような真似はしない。もちろん、お兄さんが後を継ぐというのならそれでもけっこう」

 うちの事情は完璧に把握されているらしい。まさか大和が、千尋や千尋の家族の希望を聞いてくれるとは思っていなかった。

(……思ったほど、冷たい人じゃないのかも)

 そして同時に、そこまでして千尋を契約妻に迎えたいと望んでいるのだと気づく。それほど奏恵の存在が煩わしかったのかと思うと、やや気の毒だ。

「……わかりました。あなたとの契約結婚を受け入れます。クマトイファクトリーの件については、家族と相談させてください」

 諦めるしかないかと思っていた父の会社が救われる可能性があるのだ。目の前にその可能性を差しだされて、ついに千尋は観念した。

 最低一年という契約ならば、一年で離婚できるように動くだけ。奏恵だって大和が結婚したと聞けば諦めるだろう。千尋はこのとき、安易にそう考えていた。

「そうか」

 大和は小さく息を吐きだす。
 その顔はどこか安心しているように見えた。

「じゃあ、これからよろしくお願いします」

 千尋が手を差しだすと、大和はほんの少し嫌そうな顔をするも、なにも言わずに手を握り返してきた。

(手を握るだけでそんな嫌そうな顔をする夫、いないと思うけど)

 どこまでも無駄を嫌う男とかわいげのない女の契約結婚だ。契約だから愛がないのは当然だとしても、仲睦まじい夫婦にはとても見えないだろう。

(大丈夫なのかな)

 もう少し夫婦っぽくする必要があるのではと考えるも、両親の仲睦まじい関係に自分たちを当てはめて、無理だと早々に諦めた。

 脳内に「あ~ん」と食べさせあう自分たちの姿が浮かび上がり、慌てて打ち消す。
 千尋は一抹の不安を覚えながら、大和の手を離したのだった。

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