無駄を嫌う御曹司とかわいげのない秘書の契約結婚
第一章 無駄を嫌う男とかわいげのない女の契約結婚
大和と契約内容について話し合い、千尋は埼玉県内にある自宅に帰った。
引っ越しは一月を予定しており、場所は大和が暮らしているマンション。彼の部屋は幸い3LDKと広いようで、完全に生活をわけられる。
実家暮らしの千尋はひとり暮らしの経験がなく不安もあるが、家事は一通りこなせる。
家賃や光熱費の支払いも、個人的な買い物以外はすべて彼が負担し、共用スペースの掃除は週に二回ほどハウスキーパーを入れてくれるらしい。
契約書を作成し、来週にでも判を押すことになった。
千尋に得の多い契約のように思えるが、そもそも大和の部屋の家賃を折半となった時点で、金銭的な事情から千尋が契約を呑めなくなるのだから致し方ない。
「ただいま~」
玄関の鍵を開けて中に入ると、リビングから「おかえり」という声が聞こえてくる。
千尋はリビングに向かわず、コートを脱ぎ洗面所で手を洗った。二階の自室にコートを置いてリビングに戻ると、兄の真人《まこと》が千尋のためにお茶を入れてくれていた。
「外、寒かっただろう」
「ありがと~あったかい。あ、これお土産」
千尋は椅子にかかっていた着るタイプのブランケットを羽織り、椅子を引いた。
駅前で買ってきたクッキーを取りだしテーブルに広げたあと、湯飲みを両手で包む。お茶をひと口飲むだけでじんわりと体が温まっていく。
「まぁ、ありがとう。おしゃれね~」
母は小声で言って、クッキーを摘まんだ。
隣に座る父はそんな母をにこにこと笑ってみている。
「俺ももらうよ。ん、うまいね」
父はクッキーを咀嚼し飲み込むと、母のお茶を入れ直していた。
父がここまで甲斐甲斐しくなったのは、千尋が生まれて何年かして、母が原因不明の突発性難聴に見舞われてかららしい。
片耳がまったく聞こえなくなり、なにかおかしいと思いながらも、病院に行くのが遅れ、結局そのまま直らなかったと聞いた。
片耳だけだから不自由はあまりないと思われがちだが、背後から車が近づいてきても距離感がわからなかったり、人混みの中での会話が聞き取れなかったりと困難は多い。また、自分の声が大きく聞こえるため、小声で話してしまい、相手に聞こえないこともある。
母は自分が病気にかかったことで耳の聞こえない不自由さを知り、なんとか治す方法をと調べる中で、聴覚だけでなく、あらゆる障がいを抱える人たちの就職の困難さを知った。
クマトイファクトリーが福祉施設に玩具の組み立ての発注をしているのは、自分と同じように困難を抱えている人たちが少しでも生きやすいようにという母の思いからだ。
また、子どもの虐待や飢餓の問題解決のための活動にも熱心に取り組み、全国の子ども食堂などの施設にも、クマトイファクトリーの玩具を無償で提供している。
決して楽な生活ではないが、母のその思いは千尋も大事にしてあげたい。ただ、そういった活動が困難になるくらい、すでに会社の状況は悪いのだ。
「千尋、ご飯は食べてきたのよね? 夕飯の残りがあるけど食べる?」
「食べてきたから大丈夫。それは明日の昼にでもして」
「そう?」
光熱費をなるべく節約するため、椎名家はリビングの暖房しかつけておらず、しかも設定温度が二十度とかなり低めだ。
床には厚手の絨毯を敷き、皆がもこもこのスリッパを履き、上着を羽織っている。
「そういえば、今日、彼氏とデートって言ってなかったか? 帰ってくるの早いな」
クリスマスが近いのにと言いたげだが、そんな兄もここ何年も恋人がいない。
貧乏なせいで恋人ができないのではないかと、両親は心配しているようだ。
「ちょっと早くに別れたの。みんなに話があったから」
「話?」
父と母が同時に言うと、揃って首を傾げた。
千尋は両親たちに恋人の名前を知らせておらず、付き合っている人がいるとだけ伝えていた。
なにをしているのかと聞かれたが、普通のサラリーマンだと無難に答えたはずだ。
そのため交際中の恋人が大和であるとして、結婚話を進めようということになったのだ。
交際中の大和からプロポーズされたとすれば、クマトイファクトリーの今後の話も容易に進められる。
「あのね、実は彼氏にプロポーズされて……」
「プロポーズ~!?」
母の悲鳴のような声、父の唸るような声、そして兄の驚くような声が合わさり、食器棚のガラスが小さく揺れる。
「もう、近所迷惑よ!」
「いやぁ……だってなぁ。とりあえずおめでとう。千尋が結婚するって聞くと、嬉しいけど寂しいな」
父は複雑そうな顔をして、同意を求めるように母を見るが、母は嬉しそうに笑っていた。
「それでね……クマトイファクトリーのことなんだけど」
「いいんだよ、千尋はうちの会社のことは気にしなくて。お前はそもそもべつのとこで働かせてもらっているんだから、そっちで頑張りなさい」
「そうよ……自分の幸せを一番に考えていいの」
「母さんの言うとおりだよ。いろいろと調べたり考えたりしてくれるのは嬉しいけど、俺たちでっていうか、俺がなんとかするからさ」
両親と兄の温かさに涙が出そうになるが、それでは千尋が契約結婚をする意味がない。
大和と契約内容について話し合い、千尋は埼玉県内にある自宅に帰った。
引っ越しは一月を予定しており、場所は大和が暮らしているマンション。彼の部屋は幸い3LDKと広いようで、完全に生活をわけられる。
実家暮らしの千尋はひとり暮らしの経験がなく不安もあるが、家事は一通りこなせる。
家賃や光熱費の支払いも、個人的な買い物以外はすべて彼が負担し、共用スペースの掃除は週に二回ほどハウスキーパーを入れてくれるらしい。
契約書を作成し、来週にでも判を押すことになった。
千尋に得の多い契約のように思えるが、そもそも大和の部屋の家賃を折半となった時点で、金銭的な事情から千尋が契約を呑めなくなるのだから致し方ない。
「ただいま~」
玄関の鍵を開けて中に入ると、リビングから「おかえり」という声が聞こえてくる。
千尋はリビングに向かわず、コートを脱ぎ洗面所で手を洗った。二階の自室にコートを置いてリビングに戻ると、兄の真人《まこと》が千尋のためにお茶を入れてくれていた。
「外、寒かっただろう」
「ありがと~あったかい。あ、これお土産」
千尋は椅子にかかっていた着るタイプのブランケットを羽織り、椅子を引いた。
駅前で買ってきたクッキーを取りだしテーブルに広げたあと、湯飲みを両手で包む。お茶をひと口飲むだけでじんわりと体が温まっていく。
「まぁ、ありがとう。おしゃれね~」
母は小声で言って、クッキーを摘まんだ。
隣に座る父はそんな母をにこにこと笑ってみている。
「俺ももらうよ。ん、うまいね」
父はクッキーを咀嚼し飲み込むと、母のお茶を入れ直していた。
父がここまで甲斐甲斐しくなったのは、千尋が生まれて何年かして、母が原因不明の突発性難聴に見舞われてかららしい。
片耳がまったく聞こえなくなり、なにかおかしいと思いながらも、病院に行くのが遅れ、結局そのまま直らなかったと聞いた。
片耳だけだから不自由はあまりないと思われがちだが、背後から車が近づいてきても距離感がわからなかったり、人混みの中での会話が聞き取れなかったりと困難は多い。また、自分の声が大きく聞こえるため、小声で話してしまい、相手に聞こえないこともある。
母は自分が病気にかかったことで耳の聞こえない不自由さを知り、なんとか治す方法をと調べる中で、聴覚だけでなく、あらゆる障がいを抱える人たちの就職の困難さを知った。
クマトイファクトリーが福祉施設に玩具の組み立ての発注をしているのは、自分と同じように困難を抱えている人たちが少しでも生きやすいようにという母の思いからだ。
また、子どもの虐待や飢餓の問題解決のための活動にも熱心に取り組み、全国の子ども食堂などの施設にも、クマトイファクトリーの玩具を無償で提供している。
決して楽な生活ではないが、母のその思いは千尋も大事にしてあげたい。ただ、そういった活動が困難になるくらい、すでに会社の状況は悪いのだ。
「千尋、ご飯は食べてきたのよね? 夕飯の残りがあるけど食べる?」
「食べてきたから大丈夫。それは明日の昼にでもして」
「そう?」
光熱費をなるべく節約するため、椎名家はリビングの暖房しかつけておらず、しかも設定温度が二十度とかなり低めだ。
床には厚手の絨毯を敷き、皆がもこもこのスリッパを履き、上着を羽織っている。
「そういえば、今日、彼氏とデートって言ってなかったか? 帰ってくるの早いな」
クリスマスが近いのにと言いたげだが、そんな兄もここ何年も恋人がいない。
貧乏なせいで恋人ができないのではないかと、両親は心配しているようだ。
「ちょっと早くに別れたの。みんなに話があったから」
「話?」
父と母が同時に言うと、揃って首を傾げた。
千尋は両親たちに恋人の名前を知らせておらず、付き合っている人がいるとだけ伝えていた。
なにをしているのかと聞かれたが、普通のサラリーマンだと無難に答えたはずだ。
そのため交際中の恋人が大和であるとして、結婚話を進めようということになったのだ。
交際中の大和からプロポーズされたとすれば、クマトイファクトリーの今後の話も容易に進められる。
「あのね、実は彼氏にプロポーズされて……」
「プロポーズ~!?」
母の悲鳴のような声、父の唸るような声、そして兄の驚くような声が合わさり、食器棚のガラスが小さく揺れる。
「もう、近所迷惑よ!」
「いやぁ……だってなぁ。とりあえずおめでとう。千尋が結婚するって聞くと、嬉しいけど寂しいな」
父は複雑そうな顔をして、同意を求めるように母を見るが、母は嬉しそうに笑っていた。
「それでね……クマトイファクトリーのことなんだけど」
「いいんだよ、千尋はうちの会社のことは気にしなくて。お前はそもそもべつのとこで働かせてもらっているんだから、そっちで頑張りなさい」
「そうよ……自分の幸せを一番に考えていいの」
「母さんの言うとおりだよ。いろいろと調べたり考えたりしてくれるのは嬉しいけど、俺たちでっていうか、俺がなんとかするからさ」
両親と兄の温かさに涙が出そうになるが、それでは千尋が契約結婚をする意味がない。