婚約破棄されたぽちゃOL、 元スケーターの年下ジムトレーナーに翻弄されています
第3話:「年下の子は、守ってあげなきゃ……なんだろ?」
カウンセリングルームというと、病院の診察室のような白い部屋を思い浮かべていた。
実際に通されたその部屋は、観葉植物に囲まれたブラウンテイストの落ち着いた内装で、都会のオアシス的なゆったりとしたカフェを思い出す。
ひとり掛けのソファとふたり掛けのソファがローテーブルを挟んで向かい合っており、彼は「どうぞ」と私にふたり掛けのソファの方を勧めた。
緊張しながらも腰掛けると、彼も向かいに座る。
「改めて、香原悠貴です」
「あ、えと、白藤です。白藤瑠衣」
街中でぶつかったなんて衝撃的な出会いだったのに、こうしてかしこまって名乗り合うなんてなんだか変な感じだ。
玲央の同級生だから、24歳。
ハルキという名前だけなら聞き馴染みがある。
そういえば、高校生になったばかりの玲央がその名前をよく口にしていた気がする。
玲央は昔から家で友人の話をよくするから大抵の子のことは覚えているけど、彼の高校時代の友人にはあまり詳しくない。
その頃から、私は会社に近い横浜の郊外でひとり暮らしをはじめていたから。
「香原さんは、その……あの後無事に帰れました?」
「じゃなきゃここにいないけど」
「あ、はい」
何か話そうと思って口を開いたけど、サクッと会話を終わらせられた。
さっきからにこりとも笑わないけど、パーソナルトレーナーってもっと愛想が良い方がいい気がする。
それとも、もう仕事モードじゃないところで会ってしまっているから、今さら取り繕うのも面倒くさいのかも。
「では瑠衣さん」
「えっ」
いきなり下の名前で呼ばれてびっくりする。
すると、彼はジムのパンフレットを差し出してきた。
開くと、「仲間同士のオープンでフラットな関係」という見出しが目に入る。
「うちは会員さまを基本下の名前で呼びます。トレーニー同士仲間として、お互い上下なく対等な関係で高め合いましょう、という意図です」
「はあ。なんというか、進んでますね」
「それに、下の名前で呼ばれた方が「自分」という意識が芽生えやすいでしょう。日本ではどこでも苗字呼びが基本だから、ここでは違う自分になれる気がするって言う会員さまも多いです」
「へえ、なるほど」
「先に言っときます。仕事で失敗したとか、人間関係がうまくいかないとか自信がないとか、そういうのはここに引きずってこないでください。ここにいる自分は、なんの肩書きもしがらみもない、ただトレーニングをしている瑠衣さんという人間です」
彼が言う「違う自分」というのは、言い換えれば新しい顔を持つということだと思う。
会社での顔、家庭での顔、友人へ向ける顔。
全部地続きで続いている自分ではあるけど、ある時は切り離して考えることも心の健康に良いのかもしれない。
「ここで体を動かし自分のために頑張っている。それだけで誇らしいことなんで、ここに来た瞬間から胸を張って前を向いてください」
さっきまで素っ気なかった彼が、真剣に淀みなく言うものだから少し心が動いた。
――前を向いて生きていく。
ほとんどの人がそうしたいはずだけど、どうしても心が晴れない時だってある。
そんな時は、前を向くキッカケが欲しい。
このジムの企業理念なんだろうけど、良い考え方だと思う。
ジムのことを事前に調べてみたら、サイトやSNSでもかなり評判が良かった。
ただトレーニングをする場所、というわけでなく、こういうやる気を向上させるマインドが魅力的なのかもしれない。
「とは言え、不快だったら苗字で呼ぶんで言ってください」
「いえ、大丈夫です」
今の話を聞いた上で、嫌だとは思わない。
でも、彼が言った通り他人に下の名前を呼ばれることなんてあまりないから、少しくすぐったい感じがする。
「それでは瑠衣さん、本題に入ります」
彼は青いバインダーを開くと、少し身を乗り出した。
「このジムに通って、どうなりたいですか?」
「それは……、どれくらい痩せたいか、みたいな?」
あまりにも漠然とした問いで、一瞬返答に困ってしまう。
「そういうのも含めてふわっとした答えでいいです。キレイになりたいとか体力をつけたいとか、別に考えてないとか」
「えっと……標準体重ぐらいになりたいです」
158センチ、65.9キロ。調べてみるとBMI的には26.4で肥満の部類に入るらしい。ずっと62キロぐらいだと思い込んでいたので、先日体重計に乗った時はかなりショックだった。
「ダイエット、ですね」
「でもそうなると、最低でも10キロぐらいは落とさなきゃいけないみたいで……」
「それは医者に言われたとか、健康のため? それとも美容?」
「……後者の割合が多いです」
バインダーの資料に、彼が何やら書き込んでいるのを見て少し恥ずかしくなってきた。
「となると、体重の数値だけが全てじゃないからそこは調整して……まあそれはおいおい。もうひとつ、聞きます」
「はい」
思わず身構える。定期的にある会社の個人面談より緊張するし、自分の体のことを話すのは少し恥ずかしい。
「痩せたいのはどうして?」
「え」
そう聞かれると、パッと口にできない。
元彼に、太って女として見られたのが悔しかったから。
痩せて自信を持ちたいから。
そして何よりも――相手を見つけて早く結婚したいから。
理由はたくさんあるけれど、そんなこと言えない。
……何を思われるか、きっと惨めに思うに違いない。
口ごもった私を見て、彼は軽い口調で答えを促した。
「別に何を言っても笑ったり否定したりしませんよ。過去に、いくら貢いでも結婚してくれない一億円プレイヤーホストをどうしても振り向かせたいから。という人もいたし」
「……その人はどうなったの?」
「トレーニングに目覚めて、ホストはやめてました」
「負けちゃったんですね、ホスト」
「本末転倒と言えば、そうですね」
私を話しやすくさせるための話だったかもしれないけど、返答に困る。
もしかして笑えばよかったのかな。
「ダイエット自体を目標にすると、余程自己管理ができてストイックな人じゃないと失敗しやすい。理由を明確にすると、痩せてからのイメージがしやすくてモチベも上がる」
それはもっともだと思う。成功した自分を想像すれば、きっと楽しいばかりではないトレーニングも頑張れる。
「あとは、俺が知りたいから」
「香原さんが?」
「うん」
バインダーの資料から、彼がチラリと目線を上げた。
黒い瞳に捉えられる。
「瑠衣さんのこと、なんでも知りたい」
その一言で、それまでの業務的だったカウンセリングの空気が変わる。