婚約破棄されたぽちゃOL、 元スケーターの年下ジムトレーナーに翻弄されています

 会計を終えて外に出ると、少し秋めいた10月の夜風が火照った体に肌寒かった。
 
 終電へ急ぐ人たち、二軒目を探す人たち、楽しそうに騒いでいる人たち。
 とにかく飲み屋街はこんなに夜遅くでも人が多い。

 悲しさや怒り、あんなことを言われたのに何故か残る彼への未練を振り払うように、歩きやすさがウリのローヒールのパンプスでガシガシと歩く。
 
 アルコールがほど良く回ったおかげか、しばらく歩いていると調子が出てきた。
 きっと今なら、彼が目の前に現れたらちゃんと殴れる。
 酔っ払って気が大きくなっているんだと自分でもわかっていながら、そう思ったその時だった。
 
 ふいに、横道から人が飛び出してきた。
 高身長で体格の良い――玲央と同じ歳くらいの、おそらく20代半ばほどの青年。
 ぶつかりそうになったのを避けようとしたら足がもつれて、体が後ろに傾く。

「わっ……!」

 思わず空中に手を伸ばす。
 そんな私の手首を、大きな手がパシッと捕まえた。

「危ない」

 小さく呟いた青年にそのまま力強く引き寄せられ、勢い余って胸板にぶつかる。
 その瞬間、甘く爽やかな匂いがして、思わずドキリとする。

 多分、ボディーソープの香りだ。

「平気ですか?」
 
 抑揚のない落ち着いた低めの声が、上から降ってくる。

「す、すみませ――」

 腕を掴まれたまま見上げると、青年と目が合った。
 顔の近さに、また心臓が跳ねる。

 癖のない黒髪はざっくりとセンターで分けてセットされ、形の良い凛々しい眉毛とややつり上がった力強い目元を際立たせている。たくましい体つきに相応しい、まさに精悍な顔立ちだった。

 ただ、スポーツブランドのグレーのトレーニングウェアというスタイリッシュな風貌は、この飲み屋街には不釣り合いに見える。

「すみません、こちらこそ」 

 あまり表情を変えずに謝った彼は、そっと腕から手を離した。
 突然の出来事に頭が追いつかないでいると、向かいの方から「おいお前!」と怒声が響いた。

「何逃げてんだよ! 話終わってねぇだろ!」
 
 自分でも肩が竦んだのがわかった。

「な、なに……?」

 人の怒鳴り声は、自分に向けられていなくてもヒヤッとしてしまう。

「――しつこいな」

 青年が眉間にしわを寄せ舌打ちする。

 面倒ごとに巻き込まれたくない人々がそそくさと道を開けていくと、30代くらいの男ふたり組がこちらにやって来るのが見えた。
 白と金の派手な柄シャツを着た大柄な男と、パープルの色付きレンズ眼鏡をかけた男。
 柄シャツの男は足取りが不確かで、明らかに酔っ払いだ。
 眼鏡の男はその少し後ろから、ニヤニヤしながらゆっくり着いてきた。

「もう行ってください」
「えっ」

 慌てる私に背を向けた青年は、男ふたり組に対峙した。

「なんですか」

 ヤバい大人ふたりを前にしても、彼の背中は堂々としていて全然動じない。

 柄シャツの男が青年に食ってかかった。

「謝れって言ってんだよ!」
「……なにを」
「俺らのこと舐めた目で見てただろうが!」
「見てません」
「目ェ合っただろうが」
「はぁ……。あんなに騒いでたらどうしたって目がいく、それだけだろ」
「ああ? なんだよその態度は!」

 聞く限り、一方的に難癖をつけられているらしい。
 たまに朝の駅で、おじさん同士のこういう不毛な争いを見ることがある。

 どうしよう。

 ここが駅なら、駅員さんを呼んでくればいい。でもここは横浜の飲み屋街だ。
 もう行ってと言われたけど、この状況で立ち去れるほど薄情じゃない。
 
 誰かほかに男の人……と焦って周りを見渡したその時だった。

「なんもされねぇと思ってんのか!」

 柄シャツの男が、両手で青年の胸倉を掴んだ。
 それでも彼はびくともしなかったけど、私はびっくりしてヒッと声が漏れた。

「なんだよ、態度デカいくせにやり返す根性はねぇのかよ」

 煽られても揺さぶられても、青年は毅然と男を見下ろすだけだった。
 余裕な青年にイラついてきたのか、男の罵声がヒートアップしてきた。
 このままじゃ、殴られるのも時間の問題だ。
 
 周りの人は、私たちからみんな目を逸らしていく。

 もう、あれこれ考えている暇はなかった。

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