婚約破棄されたぽちゃOL、 元スケーターの年下ジムトレーナーに翻弄されています

 しばらく走って飲み屋街を抜け、静かな通りへとたどり着いた。
 
 人通りが多いわけではないけど、住宅街も近くまだやっているお店もチラホラあり、治安が悪そうな場所ではなかった。

「この辺なら大丈夫か」

 私たちは走る速度を徐々に緩め、息を整えながら歩いていった。
 彼は全然呼吸を乱していない。一方、久しぶりに走った私は喋ることもいっぱいいっぱいだった。

「は、はい……」
「ここタクシー通るんで、家まで直行してください。拾えるまで俺もいるから」
「いやそんな、悪いです。電車で帰ります……」
「さっきのやつらが着いてきたらどうすんの、それにめちゃくちゃ酔ってるくせに」
「え?」

 そんなにお酒臭かったかな。
 慌てて口を両手で覆うと、チラ、と変な目で見られてしまった。

 何してんだこの人、みたいな視線。

「じゃなきゃ、あんな無謀なことしないだろ」

 あ、良かった。臭いがキツかったわけじゃないらしい。
 と安心すると同時に、自分が浅はかな行動をとってしまった事実がジワジワと押し寄せ、いたたまれなくなってきた。

 自動販売機の前まで歩いて来ると、彼は水を買って私に差し出した。

「男助けようなんてバカすぎる、普通しない」
「それは、そうかもしれませんけど」

 お礼を言って水を受け取る。彼が自販機の前にある縁石に腰掛けたので、私も少し間を開けて座った。

「年下の子は、助けてあげなきゃと思って……」
「年下って。俺あんたよりデカい男だけど」

 中途半端に交じっていた彼の敬語は、もう完全になくなった。
 薄々感じていたけど、結構素っ気ない喋り方をする人だ。

「でも、見て見ぬふりできなくて……。君と同じくらいの弟がいるからかも。結局なんもできなかったけどね」
 助けるつもりが、助けられてしまった。
「ごめんね、余計なことして迷惑かけちゃって」

 惨めだなぁと思った。

 もちろん、彼のことを放っておけなかった。
 でもそれと同じくらい、何でもいいから前を向けるきっかけが欲しかったんだ。

 女として見れない。そんな惨めなフラれ方をして、結婚という人生の目標も遠のいて、自信も何もなくなった。
 でも彼を助けることができれば、こんな自分にもきっとまだ価値がある。
 
 ……やっぱり、私は惨めなままだったけど。

「君もタクシーで帰った方がいいよ。あ、お金私出すから」
「いい、いらない」
「ううん、助けてもらったお礼」

 トートバッグから財布を取り出そうとすると、強めの声で制止された。

「いいって、そもそもの原因俺だし」
「でも、勝手に首突っ込んだの私ですし……」

 押し問答を続けていると、バッグの中で財布を探していた手があるものに触れた。
 カサ、と乾いたペーパーバッグの音がして思い出す。

 そうだ、今日は良いものを持っていたんだった。

「じゃあ、これ食べない?」

 バッグの中からずっしりと重いペーパーバッグを取り出し、中身を開けて青年に見せた。

「フィナンシェ、渋皮モンブラン味」

 バターの香ばしい匂い、そして焼き菓子のほんのり甘い匂いがふわっと漂う。

「……ずいぶん買い占めたんだな」
「違うよ、余った試作品をもらったの。まだ販売前だからレア中のレア」
「お菓子屋なの?」
「うん」
「OLかと思った、見た目的に」
「そう、企画開発部っていうところにいるの」
「……ふーん」
 
 11月後半に売り出す期間限定のフィナンシェ。
 何度も試作と会議を重ねて、今日の試食会でやっとチームみんなが納得するものが完成した。

「美味しいよ」
「いい」
「変なものとか入ってないよ」
「カロリーオーバーなんで」
「え? あ、そ……」

 なんだ、どうしても断りたいのね。
 
 この小さな焼き菓子ひとつのカロリーで、何がどう体に変化を起こすかなんて私は考えたこともない。
 考えなかったからフラれたのだけど。
 
 今日は何もかも空回ってばっかりだ。
 もう全部嫌になるなぁと思ってフィナンシェを一口かじった。

「もうああいうおせっかい、やめた方がいい」
「……そうします」

 返す言葉もない。
 本当に、お説教までされて私は何をやっているのか。
 無力感と自分への呆れで、思わず下を向く。

「……さっき言ったよな。いくら男でも、年下だから助けようと思ったって」
「はい」
「なら、俺から言わせれば……」
「はい」
「いくら年上でも、女の子を巻き込みたくなかった」
「……え?」

 また咎めるようなことを言われるかと思った。
 どう見ても女の子って歳じゃないでしょう、からかってるの?
 そう思ったけど、彼がじっとこちらを見ていることに気がついて何も言えなかった。

「こう言えば、あんたにはわかりやすいだろ」

 言いながら、真剣な顔が急にフッと笑う。

 胸がざわつく。

「もう危ないことしないで。わかりました?」
「……はい」

 目が離せないまま、言われるがままに頷いてしまった。

 なんだろうこの恥ずかしいようなムカムカするような気持ちは。急に優しいことを言わないで欲しい。

 いや、思えば彼はずっと優しかった。
 ずっと私を巻き込まないようにしてくれていたし、私が連れていかれそうになった時はちゃんと助けてくれた。

 ざわざわする気持ちを振り切るように、ふたつめのフィナンシェにかぶりつく。

「それ、そんなに美味いの?」
「美味いです」
「ふーん」

 彼はフィナンシェに興味があるのかないのか、よくわからない。

 今日はもう疲れた。
 早く家に帰って、思う存分ご飯とフィナンシェを食べていっぱい寝よう。
 
 冷蔵庫にあったものを思い出しながら二口目のフィナンシェを口に運ぼうとした、その時だった。

 少し間を空けて座っていた私のすぐ隣に、ふいに彼が身を寄せてきた。

「ちょっと欲しくなった」

 あ、とも言えないうちに彼の顔が近づいてくる。

 頬と頬が触れそうな直前。私の食べかけのフィナンシェに、彼がかじりついた。

 息が止まる。
 動けない、今動いたら当たってしまう。頬とか、唇とか。
 
 近すぎて、触れていないのに彼の冷たい頬の温度が自分の頬にも伝わってくる。
 
 ……何が起きてるの?
 
 彼が離れていく時、指に唇が微かに触れて、その柔らかさに心臓が跳ね上がった。

「……ほんとだ、栗の味」
  
 あっさり離れていった彼が素朴な感想を口にするまで、一瞬の出来事だったのに、心臓はひっくり返りそうなほど暴れている。
 
 なに、今のなんなの。
 
 私の手から……しかも食べかけを食べることあった?

「あ、タクシー来た」

 何事もなかったように言って、彼が立ち上がった。

 遠くから、ヘッドライトのぼうっとした光が近づいてくる。
 心臓が宙に浮いているようで、現実感がない。
 
 タクシーが目の前に来てもまだ、魔法にかかったように動けなかった。
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