【完結】恋はあの人に、堕ちたのは君に。〜今日も意地悪な同期の腕の中で〜
会議中も、黒瀬の発言には最低限の相槌だけ。



その言葉の内容よりも、自分の感情が見えないようにすることのほうが精一杯だった。


視線が向いた気配がしても、
あえて難しい顔で資料に目を落とすふりをする。



「佐伯、今日の進捗、あとで確認させて」

「……うん。チャットでまとめて送っておくね」



パソコンの画面に視線を戻しながら、
できるだけ自然な声で答える。



表情が崩れそうになるのを、なんとかこらえて。



“好き”とか、“嫉妬”とか、“不安”とか。



そんな感情が、ほんの些細なきっかけで表にあふれてしまいそうで。


苦しくて、恥ずかしくて。


そのすべてを、胸の奥深くに押し込めたかった。



──夜。

スマートフォンが、小さく震えた。



画面には、黒瀬からの短いメッセージ。



《今日、来る?》



たったそれだけの言葉なのに、
胸の奥に、鋭く刺さった。

 
すぐには返せなかった。



何度も画面を開いては、また閉じる。



(……行ったら、絶対、また嬉しくなっちゃう)
 

そしてまた、なにも言えないままこの関係を続けてしまう。



都合のいい距離に甘えて、
「特別」なんて、勝手な幻想を握りしめたまま。



けれど、昼間の会話が思い出される。



川上の無邪気な笑い声。



「彼女いるんですか?」と、あっけらかんと聞いた声。



それに対する、黒瀬の「さあな」という曖昧な返事。



──たったそれだけの会話。


何気ない雑談。



けれど、その“何気なさ”が、有紀の心を深く削っていった。



「……ごめん。今日はちょっと無理かも」



震える指で、短くそう打ち込み、送信ボタンを押す。



たったそれだけのやり取りなのに、
胸の奥に、ぽっかりと穴が空いた気がした。



(……なんで、こんなに好きなんだろう)



どこにも向けられない想いが、
夜の静けさに溶けていく。



苦しくて、惨めで、でも……それでも。




彼のことを想う気持ちだけは、簡単に消えてくれなかった。








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