【完結】恋はあの人に、堕ちたのは君に。〜今日も意地悪な同期の腕の中で〜

何も求めない腕の中で


オフィスで机の上の書類を揃えた有紀は、ゆっくりと立ち上がった。


紙コップを手に、人気の少ない給湯室へ向かう。


 

お湯を注ぎながら、ぼんやりと湯気を見つめる。



(……ダメだ。仕事に集中してる“ふり”すら、もうしんどい)



そんな弱音を、心の奥で吐いた瞬間だった。



「佐伯」



静かで落ち着いた声が、背後から届く。



振り返ると、そこには高峰がいた。



「……あ、高峰くん。ごめん、場所、取ってた?」

「いや。違う」


そう言って彼は、有紀の隣に立ち、無言でコーヒーを淹れ始める。


その距離が、少しだけあたたかかった。


「佐伯」

「……ん?」

「平気?」



有紀は、一瞬、言葉の意味が理解できなかった。


「……え?」

「最近、元気ないなって思って」



その一言が、有紀の胸の奥に、静かに突き刺さる。


ずっと、誰にも気づかれないように、笑っていたはずだった。



(……気づかれたくなかったのに)



咄嗟に視線を外す。有紀の笑顔は、少しだけ揺れていた。


「そんなこと……ないよ」


必死に取り繕った声が、少しだけ震える。


「仕事、かな?」

「ちが……っ」

「……黒瀬?」

「っ……」


その名前が出た瞬間、有紀の肩がびくりと揺れる。


喉の奥に、何かが詰まってうまく呼吸ができない。


心にふたをしていたものが、じわじわと膨らんでいく。


(泣きたくない。こんなところで……)



必死に堪えようとしても、熱が込み上げてくる。


かすかな吐息とともに、目元がじんわりと滲む。



「……ごめ、なんでも……ないから」



俯きながら、小さく首を振った。

 
けれど、高峰はなにも言わず、有紀の手から紙コップをそっと取り上げた。



そして、ほんの少しだけ強引に、その手を引く。


「……来て」



それだけ言って、有紀を連れ出した。


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