【完結】恋はあの人に、堕ちたのは君に。〜今日も意地悪な同期の腕の中で〜
水族館を出ると、外はすっかり夕暮れだった。
雨が降った後なのか、グラデーションの空が、水たまりの水面に映ってゆらゆら揺れている。
「ちょっと歩いたところに、いい感じの店見つけてさ。……よかったら、寄ってく?」
「うん。……行きたい」
少し照れながら、わたしは頷いた。
今日は、最後までちゃんと“楽しい”で終わらせたかった。
*
入ったのは、駅から少し離れた落ち着いたビストロだった。
木の温もりと優しいランプの灯り。料理の香りと静かな笑い声。
すべてが心地よくて、肩の力がふっと抜ける。
グラスに注がれた赤ワインが、キャンドルの灯りに照らされてゆらりと揺れる。
ほんのりとした酸味と、舌に残る余韻。
普段あまり飲まないけれど、今日は少しだけ、飲んでみようと思った。
「今日、ほんとによく笑ってたね、佐伯」
グラスを軽く合わせたあと、高峰くんがふっと目を細める。
「そう……かな?」
「うん。俺さ、最初に話したときの佐伯、すっごい真面目で緊張してて、どこか遠い人って感じだったんだよね」
「えっ……そんなふうに見えてた?」
「うん。でも、ちゃんと目を見て挨拶してくれて、資料とかもきっちり作り込んでて。……“仕事、好きなんだな”って思った」
「それは……うん。好き、かも」
「そういうとこ、すごくいいなって思ったんだ。たぶん俺、佐伯のその頑張り方に、ちょっと憧れてたのかもしれない」
「──え」
驚いて顔を上げたわたしに、高峰くんはいつもの穏やかな笑顔を向けてくれた。
「ちょっと近寄りがたいなって思ってたけど、話すとおっとりしてて、天然っぽいところもあって。……そのギャップもいいなって思ってた」
「……そんなに、見てくれてたんだね」
その言葉に、胸がじんわりとあたたかくなる。
──でも。
赤ワインを一口、ふとグラスに口をつけた瞬間。
その熱が、別の熱と重なった。
(……黒瀬くん)
ふいに、肌の奥に染みついた記憶が疼いた。
指先、唇、熱。
ふれて、重なって、名前を呼ばれて。
(あのときの彼の声……今でも、身体が覚えてる)
真剣で、ひたむきで。
どこか苦しいほどのまっすぐさに、心まで奪われた夜。
思い出した瞬間、顔にふっと熱がのぼる。
たぶん、頬が赤くなっていたと思う。
「……平気? 顔赤いよ?佐伯って、前も思ったけど、お酒弱い?」
高峰くんが心配そうにのぞきこんできて、わたしは反射的に目をそらした。
「だ、大丈夫。……たぶん、ちょっと酔っただけ」
──ちがう。
お酒のせいじゃない。
高峰くんのやさしさに包まれながら、
わたしの中で思い出されるのは、あの人の熱と声。
その事実が、息苦しいほど胸を締めつけた。
*
帰り道。
夜風が少し冷たくて、わたしはそっと腕を組んだ。
駅までの道を歩きながら、ふたりは自然と口数を減らしていく。
でも、それは嫌な沈黙じゃなかった。
「今日は……ありがとう。楽しかった」
「俺こそ。……また行こう。水族館もいいけど、今度は動物園とか?」
「えっ、動物園?」
「ダメ?」
「ううん、ありがとう。行きたい」
そう言った瞬間、ふたりの歩みが止まった。
「……じゃあ、また」
「うん。またね」
目が合ったまま、ふいに、彼が一歩近づく。
ほんのわずか、顔の距離が縮まって。
まつげが揺れて、彼の瞳がそっとこちらを覗き込む。
(──あ、キス、されるかも)
そう思った瞬間、心臓が跳ねた。
でもそれと同時に、肩がピクリと動いた。
思わず、身体がこわばってしまったのが自分でもわかる。
ほんの一瞬の、沈黙。
彼の目がわずかに揺れた気がして、
次の瞬間、彼はそっと距離を戻した。
「……じゃあ、気をつけて」
「……うん」
どこか名残惜しそうに手を振る彼に、
わたしも同じように、笑顔を返すふりをして、手を振り返した。
でも──
胸の奥には、どうしようもない違和感が残っていた。
(どうして……緊張したんだろう)
(キス、されたら嬉しいって、思ってたはずなのに)
──ほんの少し触れそうになっただけで、
身体が“拒否反応”みたいに、固まってしまった。
その理由を、自分ではまだ、ちゃんと認めたくなかった。
(……キス、しなかった)
———そのことに、少し、ホッとしてしまってる自分がいた。
高峰くんの背中がどんどん遠くなる。
そのたびに、胸の奥が、チクッと痛んだ。
(わたし、なにやってるんだろ)
足元に視線を落としたまま、小さく深呼吸をする。
ポケットの中のスマホが、じんわりとあたたかい。
取り出して、ホーム画面を開く。
──なにも届いていないのに、つい、メッセージを確認してしまう自分がいた。
雨が降った後なのか、グラデーションの空が、水たまりの水面に映ってゆらゆら揺れている。
「ちょっと歩いたところに、いい感じの店見つけてさ。……よかったら、寄ってく?」
「うん。……行きたい」
少し照れながら、わたしは頷いた。
今日は、最後までちゃんと“楽しい”で終わらせたかった。
*
入ったのは、駅から少し離れた落ち着いたビストロだった。
木の温もりと優しいランプの灯り。料理の香りと静かな笑い声。
すべてが心地よくて、肩の力がふっと抜ける。
グラスに注がれた赤ワインが、キャンドルの灯りに照らされてゆらりと揺れる。
ほんのりとした酸味と、舌に残る余韻。
普段あまり飲まないけれど、今日は少しだけ、飲んでみようと思った。
「今日、ほんとによく笑ってたね、佐伯」
グラスを軽く合わせたあと、高峰くんがふっと目を細める。
「そう……かな?」
「うん。俺さ、最初に話したときの佐伯、すっごい真面目で緊張してて、どこか遠い人って感じだったんだよね」
「えっ……そんなふうに見えてた?」
「うん。でも、ちゃんと目を見て挨拶してくれて、資料とかもきっちり作り込んでて。……“仕事、好きなんだな”って思った」
「それは……うん。好き、かも」
「そういうとこ、すごくいいなって思ったんだ。たぶん俺、佐伯のその頑張り方に、ちょっと憧れてたのかもしれない」
「──え」
驚いて顔を上げたわたしに、高峰くんはいつもの穏やかな笑顔を向けてくれた。
「ちょっと近寄りがたいなって思ってたけど、話すとおっとりしてて、天然っぽいところもあって。……そのギャップもいいなって思ってた」
「……そんなに、見てくれてたんだね」
その言葉に、胸がじんわりとあたたかくなる。
──でも。
赤ワインを一口、ふとグラスに口をつけた瞬間。
その熱が、別の熱と重なった。
(……黒瀬くん)
ふいに、肌の奥に染みついた記憶が疼いた。
指先、唇、熱。
ふれて、重なって、名前を呼ばれて。
(あのときの彼の声……今でも、身体が覚えてる)
真剣で、ひたむきで。
どこか苦しいほどのまっすぐさに、心まで奪われた夜。
思い出した瞬間、顔にふっと熱がのぼる。
たぶん、頬が赤くなっていたと思う。
「……平気? 顔赤いよ?佐伯って、前も思ったけど、お酒弱い?」
高峰くんが心配そうにのぞきこんできて、わたしは反射的に目をそらした。
「だ、大丈夫。……たぶん、ちょっと酔っただけ」
──ちがう。
お酒のせいじゃない。
高峰くんのやさしさに包まれながら、
わたしの中で思い出されるのは、あの人の熱と声。
その事実が、息苦しいほど胸を締めつけた。
*
帰り道。
夜風が少し冷たくて、わたしはそっと腕を組んだ。
駅までの道を歩きながら、ふたりは自然と口数を減らしていく。
でも、それは嫌な沈黙じゃなかった。
「今日は……ありがとう。楽しかった」
「俺こそ。……また行こう。水族館もいいけど、今度は動物園とか?」
「えっ、動物園?」
「ダメ?」
「ううん、ありがとう。行きたい」
そう言った瞬間、ふたりの歩みが止まった。
「……じゃあ、また」
「うん。またね」
目が合ったまま、ふいに、彼が一歩近づく。
ほんのわずか、顔の距離が縮まって。
まつげが揺れて、彼の瞳がそっとこちらを覗き込む。
(──あ、キス、されるかも)
そう思った瞬間、心臓が跳ねた。
でもそれと同時に、肩がピクリと動いた。
思わず、身体がこわばってしまったのが自分でもわかる。
ほんの一瞬の、沈黙。
彼の目がわずかに揺れた気がして、
次の瞬間、彼はそっと距離を戻した。
「……じゃあ、気をつけて」
「……うん」
どこか名残惜しそうに手を振る彼に、
わたしも同じように、笑顔を返すふりをして、手を振り返した。
でも──
胸の奥には、どうしようもない違和感が残っていた。
(どうして……緊張したんだろう)
(キス、されたら嬉しいって、思ってたはずなのに)
──ほんの少し触れそうになっただけで、
身体が“拒否反応”みたいに、固まってしまった。
その理由を、自分ではまだ、ちゃんと認めたくなかった。
(……キス、しなかった)
———そのことに、少し、ホッとしてしまってる自分がいた。
高峰くんの背中がどんどん遠くなる。
そのたびに、胸の奥が、チクッと痛んだ。
(わたし、なにやってるんだろ)
足元に視線を落としたまま、小さく深呼吸をする。
ポケットの中のスマホが、じんわりとあたたかい。
取り出して、ホーム画面を開く。
──なにも届いていないのに、つい、メッセージを確認してしまう自分がいた。