【完結】恋はあの人に、堕ちたのは君に。〜今日も意地悪な同期の腕の中で〜
水族館を出ると、外はすっかり夕暮れだった。



 
雨が降った後なのか、グラデーションの空が、水たまりの水面に映ってゆらゆら揺れている。



「ちょっと歩いたところに、いい感じの店見つけてさ。……よかったら、寄ってく?」

「うん。……行きたい」



少し照れながら、わたしは頷いた。



今日は、最後までちゃんと“楽しい”で終わらせたかった。






入ったのは、駅から少し離れた落ち着いたビストロだった。


木の温もりと優しいランプの灯り。料理の香りと静かな笑い声。



すべてが心地よくて、肩の力がふっと抜ける。



グラスに注がれた赤ワインが、キャンドルの灯りに照らされてゆらりと揺れる。


ほんのりとした酸味と、舌に残る余韻。



普段あまり飲まないけれど、今日は少しだけ、飲んでみようと思った。



「今日、ほんとによく笑ってたね、佐伯」



グラスを軽く合わせたあと、高峰くんがふっと目を細める。


「そう……かな?」

「うん。俺さ、最初に話したときの佐伯、すっごい真面目で緊張してて、どこか遠い人って感じだったんだよね」

「えっ……そんなふうに見えてた?」

「うん。でも、ちゃんと目を見て挨拶してくれて、資料とかもきっちり作り込んでて。……“仕事、好きなんだな”って思った」

「それは……うん。好き、かも」

「そういうとこ、すごくいいなって思ったんだ。たぶん俺、佐伯のその頑張り方に、ちょっと憧れてたのかもしれない」

「──え」


驚いて顔を上げたわたしに、高峰くんはいつもの穏やかな笑顔を向けてくれた。



「ちょっと近寄りがたいなって思ってたけど、話すとおっとりしてて、天然っぽいところもあって。……そのギャップもいいなって思ってた」


「……そんなに、見てくれてたんだね」



その言葉に、胸がじんわりとあたたかくなる。







──でも。



赤ワインを一口、ふとグラスに口をつけた瞬間。



その熱が、別の熱と重なった。



(……黒瀬くん)


ふいに、肌の奥に染みついた記憶が疼いた。
指先、唇、熱。
ふれて、重なって、名前を呼ばれて。



(あのときの彼の声……今でも、身体が覚えてる)


真剣で、ひたむきで。


どこか苦しいほどのまっすぐさに、心まで奪われた夜。



思い出した瞬間、顔にふっと熱がのぼる。


たぶん、頬が赤くなっていたと思う。



「……平気? 顔赤いよ?佐伯って、前も思ったけど、お酒弱い?」



高峰くんが心配そうにのぞきこんできて、わたしは反射的に目をそらした。



「だ、大丈夫。……たぶん、ちょっと酔っただけ」



──ちがう。
お酒のせいじゃない。



高峰くんのやさしさに包まれながら、
わたしの中で思い出されるのは、あの人の熱と声。



その事実が、息苦しいほど胸を締めつけた。






帰り道。



夜風が少し冷たくて、わたしはそっと腕を組んだ。



駅までの道を歩きながら、ふたりは自然と口数を減らしていく。



でも、それは嫌な沈黙じゃなかった。



「今日は……ありがとう。楽しかった」

「俺こそ。……また行こう。水族館もいいけど、今度は動物園とか?」

「えっ、動物園?」

「ダメ?」

「ううん、ありがとう。行きたい」

そう言った瞬間、ふたりの歩みが止まった。

「……じゃあ、また」


「うん。またね」



目が合ったまま、ふいに、彼が一歩近づく。

ほんのわずか、顔の距離が縮まって。


まつげが揺れて、彼の瞳がそっとこちらを覗き込む。


(──あ、キス、されるかも)



そう思った瞬間、心臓が跳ねた。


でもそれと同時に、肩がピクリと動いた。


思わず、身体がこわばってしまったのが自分でもわかる。



ほんの一瞬の、沈黙。



彼の目がわずかに揺れた気がして、



次の瞬間、彼はそっと距離を戻した。



「……じゃあ、気をつけて」

「……うん」



どこか名残惜しそうに手を振る彼に、
わたしも同じように、笑顔を返すふりをして、手を振り返した。



でも──



胸の奥には、どうしようもない違和感が残っていた。



(どうして……緊張したんだろう)


(キス、されたら嬉しいって、思ってたはずなのに)



──ほんの少し触れそうになっただけで、
身体が“拒否反応”みたいに、固まってしまった。



その理由を、自分ではまだ、ちゃんと認めたくなかった。



(……キス、しなかった)


———そのことに、少し、ホッとしてしまってる自分がいた。



高峰くんの背中がどんどん遠くなる。


そのたびに、胸の奥が、チクッと痛んだ。


(わたし、なにやってるんだろ)


足元に視線を落としたまま、小さく深呼吸をする。



ポケットの中のスマホが、じんわりとあたたかい。



取り出して、ホーム画面を開く。




──なにも届いていないのに、つい、メッセージを確認してしまう自分がいた。




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