恋はあの人に、堕ちたのは君に。〜今日も意地悪な同期の腕の中で〜

動き出した針

向かったのは、駅近くのこぢんまりとしたバーだった。



柔らかな照明に包まれた空間には、静かなジャズが流れている。



さっきまでのにぎやかな飲み会が嘘みたいで、喧騒が少しずつ身体から抜けていくのがわかった。



「ほい、お疲れ。水と軽めのカクテル。……念のためな」

「……ありがとう」



カウンター席に並んで座ると、黒瀬くんがちらりと私の顔をうかがってくる。



私は少し背筋を伸ばしながら、グラスを指先でくるくると回していた。



「……ほんとに大丈夫か? 顔色はだいぶマシだけど」

「うん……ちょっと酔ってただけ、だと思う」

「いやいや、あれは“ちょっと”じゃなかっただろ」



ため息交じりに言いながらも、その口調はどこかやさしい。


からかいも皮肉もない、素の声。



──珍しいな、と思ったそのときだった。



「なあ、お前さ。高峰のこと……そんなに本気だったの?」

「……!」



突然の問いに、息が止まった。



どうして、今それを聞くの。



言葉を返そうとしたけれど、喉の奥がつかえて何も出てこなかった。



「……なんで、そんなこと聞くの?」



やっとの思いで絞り出した声に、黒瀬くんはゆっくりと答える。



「脈なしっぽいって、落ち込んでるように見えたけど……さっきの高峰の顔、見てなかっただろ?」


「え……?」


「“親友”って言ってたくせにさ。俺が、お前の腕を支えたとき──アイツ、明らかに動揺してた。困ったような、なんつーか……焦った顔してた」


「それって……」


「つまり、あいつもお前のこと、少しは意識してるってこと。ま、俺の勘だけどな」



そう言って、黒瀬くんはグラスの中の氷をゆっくりとかき混ぜた。



「意識してるなんて、ありえないよ。高峰くんには、忘れられない人がいるみたいだから。本人が言ってたの」


「へえ、忘れられない人ね」



ぽつりと返されたその言葉に、どこか引っかかるものを感じた。


意味ありげな声音に、胸の奥がざわつく。


「まあ、忘れられないのは勝手だけどさ」


「……?」


「俺さ、“あとになって大事だったって気づく男”って、嫌いなんだよ」



冗談のような口ぶりなのに、視線はまっすぐだった。


その真剣さに、息をのんだ。



「……黒瀬くん、今日、なんか変だよ」

「はあ? なにが」

「いつもみたいに、からかってこないし。……なんか、調子狂う」

「優しい方がいいって、言ってたくせに」


「そ、それはそうだけど……!」


「どっちだよ」



笑いながらグラスを置く黒瀬くんの横顔に、つい目が離せなかった。


いつもと同じようで、どこか違う。



張り詰めていた空気が、少しだけ緩んでいくのを感じた。



「ま、今日はさ。飲み直しってことで。楽しみましょ。」

「……うん」


そう返した声は、少しだけ小さくなっていた。

けれど、不思議と胸の奥の重たいものが、すうっとほどけていく。



──その温度は、高峰くんの隣では感じたことのない、不器用だけど確かなやさしさだった。



< 9 / 44 >

この作品をシェア

pagetop