あなたは狂っている
父の書斎の前で一呼吸をしてノックをする。

「入れ」
「失礼します」

霧生が中に入ると巌はぱっと顔が華やぎ、立ち上がった。

「冥じゃないか!久しぶりだなー」
「すみません。忙しくしていて」
「会社のことは聞いてる。頑張っているな」
「ありがとうございます」
「今日は泊まっていくのか?」
「いえ、まだ仕事がありまして」

巌は明らかにがっかりした表情だった。

「夕食をご一緒できたら嬉しいです」
「おお、そうか、よし。では今日はお前の好きなものを作らせよう」
「ありがとうございます」

霧生は満面の笑みで息子を演じた。

ここまで父親の信頼を得るには時間がかかった。
霧生冥は、愛されたことがない。
彼は孤児院で育った。
本当の両親の顔も名前も知らない。
10歳の時、霧生家に養子として迎えられた。
それは「愛情」ではなく、「投資」だった。
養父・霧生巌は、冷酷な実業家だった。

「お前は、霧生家の後継者だ。完璧であれ」

「期待」と「圧力」だけがそこにあった。
霧生は、完璧な息子になった。
優秀な成績。完璧な振る舞い。非の打ち所のない人間。
そして完璧な跡取りとなり、副社長となった。
その過程で、霧生は「感情」を失った。
喜び、悲しみ、怒り……
全てが、遠い場所にあった。
他人の感情も、理解できない。
なぜ、笑うのか。
それは霧生にとって相手の信頼を得る簡単なパーツだった。

1時間でようやく解放された霧生は自分の部屋に入った。
シンプルで、無機質な部屋。
霧生は、スーツを脱ぎ、部屋に設置してあるシャワーを浴びた。
霧生は雨に濡れた琴美を思い出していた。
涙を浮かべ、睨みつける琴美の目。

(あの涙……)

霧生の心臓が、わずかに高鳴った。

(もっと、見たい)

霧生の欲望が意図せず、膨れ上がり思わず舌打ちする。
霧生にとって涙だけが特別な感情を表すものになっていた。
でもそれは理解できるものではなく、霧生にとって本能に呼びかけるものであった。
< 21 / 26 >

この作品をシェア

pagetop