窓明かりの群れに揺れる
 「……これ、見てほしくて」

 達也は封筒を手に取った。
 紙の軽さが、逆に怖い。

 中には数枚の書類。
 数字、日付、短い所見。
 見た瞬間、頭が“読む”ことを拒む。
 文字がただの線に見える。
 (……何の書類だよ)

 そう思ったのに、
 視線は勝手に“日付”を探した。
 指先が、そこで止まる。
 喉の奥が、きゅっと縮む。

 息が浅くなる。
 コーヒーの匂いが急に強くて、
 気持ちが悪い。

 「昨日、お休みしたのは……」

 恵が、
 テーブルの木目を見つめたまま言った。

 「これ、もらいに行ってたから」

 達也はもう一度、数字を追う。
 追おうとするのに、目が滑る。
 それでも――“結論だけ”が、
  無遠慮に浮かび上がってくる。

  (……まさか)

 いや、違う。

 “まさか”の形をした確信が、
  体の内側を冷たく撫でていく。

 「……こ、これって」

 声が出たのが、自分でも意外だった。
 紙の端が、指先の震えで小さく揺れる。

 「本当に……?」

 言いながら、
 もう否定できないことをわかっている。

 恵は黙っていた。

 それから、カップを見つめたまま、
 声だけ落とした。


 「……妊娠、してたみたい」


 その一言で、世界の音が遠のいた。

 繁華街のネオンも、店内のBGMも、
 隣の席の笑い声も――
 全部、薄い膜の向こうに沈む。

 白い天井。乱れたシーツ。
 タクシーの窓。

 あの夜が、
 時間を無視して“今”に押し寄せてくる。

 (……思い出すな)

 思い出したくないのに、勝手に繋がる。

 日付と、体調と、あの朝の光景。
 逃げ道のない一本線。
 胸の奥が、じわりと締め付けられる。

 吐き気に近い感覚。

 “途方に暮れる”が、
  ただの言葉じゃなく重さを持って
  落ちてきた。

 「……ごめ――」

 謝ろうとした。

 でも、謝罪が何を救うのかも
 わからなかった。

 恵が、小さく首を振った。


 「大丈夫」


 その「大丈夫」は、軽い慰めじゃない。

 むしろ、
 崩れそうなものを必死に立たせている音だった。

 「みんなには、このこと言わないで。
  春奈にも、直樹にも。
  私は……大丈夫だから」

 「大丈夫なわけ――」

 言いかけた達也の言葉を、
 恵は静かに遮る。

 椅子を引く音が、やけに大きく響いた。
 恵は立ち上がり、店のドアへ向かう。

 その背中が、
 ほんの少しだけ丸まって見える。

 達也は、追いかけられなかった。

 足が動かないのではなく、
 “追いかける資格”が
 自分にはもうない気がした。

 テーブルの上には、
 冷めていくコーヒーと、紙の束と、
 現実だけが、重たく残っていた。 
< 103 / 122 >

この作品をシェア

pagetop