窓明かりの群れに揺れる
第7章

37.動けない日と、揺らぐ足元

 次の日、会社には行けなかった。
 目は覚めているのに、
 布団から半歩も動けない。

 頭の中では、
 レストランのテーブル越しに聞いた一言だけが
 何度も何度も再生されていた。

 ──「恵と、一緒になる」

 声も表情も、はっきり思い出せるのに、
 自分の返事だけがぽっかり抜け落ちている。

 返せなかったのか、
 返させてもらえなかったのか。
 それすら、もうわからない。

 上司には電話で、
 「インフルエンザみたいで……」と嘘をついた。
 インフルエンザなら、
 数日休んでも許される気がしたからだ。

 実際のところ、
 熱なんてどこにもない。
 あるのは、
 胸の奥がじんじんと痛む感覚だけ。


 二日目も、
 やっぱり会社へ行けなかった。

 スーツに手を伸ばしては引っ込め、
 メイク道具を出してはまたしまう。

 鏡の中の自分は、
 泣きはらした目をしていて、
 “社会人”というより、
 失恋した大学生に逆戻りしたみたいだった。
 (恵さん、妊娠してる……)

 直樹の声が、
 耳の奥に残っている。
 詳細は聞かなかった。
 聞いてしまったら、
 もう立っていられない気がしたからだ。

 でも、
 聞かなくても想像はついてしまう。
 そこが、いちばんつらかった。
 (私とのことは、
  最初から“通り道”だったのかな)

 そんなふうに考えたくないのに、
 考えてしまう自分が情けなかった。

 息を吸っても、胸の奥まで届かない。
 このまま、誰にも見つからない場所で、

 自分の輪郭だけ、
   そっと薄くなれたらいいのに――

 そんな考えが、ふと浮かんで、すぐに沈む。

 ただ――
  今日は、ここにいないふりをしたかった。

 それくらいの弱さは、
 きっと誰にでもあるはずだと思いながら。
 自分でも怖くなるほど静かな気持ちで、
 春奈はもう一度、鏡から目をそらした。
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