窓明かりの群れに揺れる
 鍋の火加減を弱め、
 テーブルに箸とコップを
 並べ始めたそのとき―― 

 玄関のほうから鍵の回る音がした。

 「……!」

 心臓が、一度だけ大きく跳ねる。

 「ただいまー……」

 少し疲れのにじんだ声が
 リビングまで届く。

 春奈は慌ててエプロンの裾を整え、
 キッチンから顔を出した。

 「お、おかえりなさい」

 玄関に立つ弘樹は、
 ネクタイを緩めながら
 靴を脱いでいる途中だった。

 彼の視線がふっと上がり、
 春奈と目が合う。

 「いい匂い……。
  もしかして、作ってくれた?」

 「はい。あの、お礼も兼ねて……。
  簡単なものしか
  作れなかったんですけど」

 「いや、十分だよ。むしろ、最高」

 弘樹は、ほんの少しだけ表情を明るくして
 リビングに入ってきた。

 鞄をソファの横に置きながら、
 あたりを見回す。

 「あれ、なんか部屋、片付いてる?」

 「す、すみません。勝手に……。
  散らかってるところが
  気になっちゃって」

 「全然、ありがたい。
  いつも“そのうちやろう”って
  思ってたところが、
  きれいになってる」

 笑ってそう言ったあと、
 彼はふっと真顔に戻った。

 「……で」

 その視線が、春奈のほうに戻る。

 「今日さ。……、受かった?」

 その質問に、胸の奥がまた熱くなる。
 図書館でメールが届いた瞬間のこと、
 一人でガッツポーズしたこと、
 そして、
 帰ってきてから見てしまった写真のこと――
 いろんな感情が一度に押し寄せてきて、
 春奈は一瞬だけ言葉を失った。

 「えっと……」

 手の中の菜箸をぎゅっと握りしめる。
 合格の嬉しさと、過去にいた
 “誰か”への嫉妬にも似たざわつきと、
 それでも今ここで
 自分を気にかけてくれている弘樹への
 想いが、
 胸の中で複雑に絡まり合っていた。

 その全部を、どんな順番で、
 どんな顔をして伝えればいいのか――

 春奈は、キッチンに立ったまま、
 小さく息を吸い込んだ。

 「来た?」

 弘樹の問いかけに、
 心臓がまた大きく跳ねた。

 菜箸を握る手に、
 無意識に力がこもる。

 「えっと……」

 口の中が急に乾く。
 けれど、ここで誤魔化すのは違う――
 自分でもそう思った。

 「来ました。……一次、通りました」

 できるだけ冷静に言ったつもりなのに、
 声が少し震えていた。

 弘樹の目が、ぱっと見開かれる。

 「マジで? やったね!」

 彼は、本当に自分のことのような勢いで
 一歩近づいてきた。

 「おめでとう。本当に……
  よく頑張ったな」

 「ありがとうございます」

 そう返しながらも、
 さっき見てしまった写真の残像が、
 頭の片隅から離れてくれない。

 嬉しいはずなのに、
 胸の奥は妙にざわついていた。

 「とりあえず、飯にしよう。
  お祝いは、
  ちゃんと落ち着いてからしよう、
  まずは腹ごしらえ」

 「はい」

 コンソメスープの湯気、彩りのいい野菜炒め、
 少し焦げ目のついたチキン。

 素朴だけど、どこかあったかい食卓だ。

 「いただきます」

 箸をつけながら、
 弘樹は何度も「うまいな、これ」と
 感心したように言った。

 「本当に、助かるよ。
  最近、まともな自炊ってほとんど
  してなかったから」

 「コンビニとか、
  テイクアウトばっかりですか?」

 「ばっかりってほどでもないけど……
  まあ、似たようなもんだし」

 笑いながら言うけれど、
 その笑いの奥に少しだけ疲れがにじむ。

 「でさ」

 スープをひと口飲んでから、
 改めて春奈を見た。

 「良かったね! 一次面接このと、
  もう一度教えて、何て聞かれた?」

 「志望動機と、学生時代に頑張ったことと
  あとは、チームで何かした経験とか」

 「ほお、王道だよな」

 「噛んじゃったところもあって、
  “あそこ、もっとこう言えばよかったな”って
  ところもあったんですけど……」

 「それでも通ったんだから、
  向こうは“話の中身”ちゃんと
  見てくれたんだよ」

 「……ですかね」

 「そうだよ。
  だって準備してたこと、
  ちゃんとやってきただろ?」

 そう言われると、胸の中にほんの少し、
 自分を肯定してもいいような感覚が
 生まれる。

 それでも、さっきの写真のことを思い出すと、
 心は素直に浮かびきれなかった。

 (この人も、きっと誰かのために
  一生懸命だった時期があって……
  その結果、“ここ”にひとりでいるんだ)

 そう想像してしまって、
 うまく視線を合わせられなくなる。

 「どうかした?」

 「あ、いえ……実感がなくて。
  “通った”って言われても、
  まだ夢みたいで」

 「まあ、そこはわかる。
  俺のときも、しばらく
 『ほんとにこれ俺のメール?』って
  何回も見直したし」

 弘樹は、
 わざと少し大げさに肩をすくめて見せる。

 その気遣いがわかるからこそ、
 余計に胸がちくりと痛んだ。

 食事を終え、食器をシンクに運び終わると、
 テーブルの上には
 湯気の消えたマグカップだけが残った。

 「ごちそうさま。本当においしかったよ」

 「よかったです」

 「……ちょっと、座ってもいい?」

 弘樹は、テーブルの向かいではなく、
 少しだけ距離を詰めた横の席に腰を下ろした。

 春奈は
 マグカップを両手で包み込みながら、
 視線を落とす。

 「一次通過ってさ」

 「はい」

 「普通にすごいことなんだよ。
  倍率も高いだろうし、
  あの会社、人気あるし」

 「そんな……たまたまですよ」

 「たまたまじゃないだろ」

 静かな声で、きっぱりと言われる。

 「ちゃんと準備して、
  ちゃんと東京出てきて、
  ちゃんと受け答えして。
  “自分で選んで動いた結果”なんだから、
  胸張っていい」

 その言葉は、あまりにもまっすぐで、
 あたたかくて。

 嬉しいのに、同時にどこか痛い。

 「“頑張るのは当たり前”って、
  自分でも思ってたし。
  “まあ、このくらいは”って、
  どこかで自分に言い訳してたところもあって」

 言葉を並べながら、
 自分の本音がぽろぽろと
 こぼれていくのがわかる。

 「でも、この数日、
  すごく真剣に気にしてくれて……
  なんか、
  “ちゃんと見てくれてる人がいるんだな”
  って、思えました」

 そう言うと、弘樹は少し黙ってから、
 小さく息を吐いた。

 「……春奈ちゃんのことさ」

 呼びかける声のトーンが、
 ほんの少し変わる。

 「最初は、
  ただ“叔母さんに頼まれたから”って
  思ってたんだよ。

 『春奈を数日泊めてやってくれ』って、
  いつもの調子で頼まれて」

 「はい……」

 「でも、こうして実際に会って、
  話して、頑張ってるの見てるとさ。
  なんか、
  従妹ってだけじゃないっていうか……」

 その先を言おうとして、
 一瞬だけ迷うように視線を泳がせる。

 「……“応援したくなる相手
  ”以上のものを、ちょっと感じたりも
  してて」

 遠回しだけれど、
 はっきりとしたニュアンス。

 春奈の喉の奥が、きゅっと鳴った。
 (“以上のもの”って……)

 さっき見た写真の光景が、
 脳裏にちらつく。

 あの隣に立っていた人と、
 同じ場所に自分が
 立とうとしているみたいで――

 それを考えた瞬間、
 足元がぐらりと揺らぐような感覚に
 襲われた。

 「……そ、そんなふうに言われたら、
  期待しちゃいますよ」

 冗談めかして笑おうとするが、
 声は少し上ずっていた。

 「まだ一次ですし、二次もあるし、
  最終もあるし……。
  浮かれたらすぐ足元すくわれそうで」

 「いや、それはそうなんだけど」

 「だから、今は就活モードでいたいです。
  変なこと考えたら、絶対噛みます」

 わざと明るく言い切ることで、
 話の方向をそらそうとする。

 弘樹は、一度口を開きかけてから、
 結局何も言わずにマグカップへと
 視線を落とした。

 「……そっか。
  そうだな。今は、就活モードだよな」

 テーブルの上に、
 少し気まずい沈黙が降りる。
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