窓明かりの群れに揺れる

6.帰宅の日 ― 嬉しさと、戸惑いのキス

 気づいたときには、
 部屋のカーテンの隙間がうっすら
 白んでいた。
 (……寝ちゃってたんだ)

 そのままベッドの上に
 倒れ込んだらしい。

 顔をこすりながら上半身を起こすと、
 ドアの向こうから、
 かすかな物音が聞こえてきた。

 カチャ、カチャ、と食器の触れ合う音。
 それに混じる、コーヒーの香り。
(キッチン……弘樹くん)

 スマホを見ると、
 思っていたよりも時間は進んでいる。

 今日は、岩手に戻る新幹線に乗る日だ。
 のんびりしている余裕はない。

 「やば……!」

 慌てて顔を洗い、
 最低限だけ身支度を整えてから、
 急いでリビングへ向かった。

 リビングに入ると、
 キッチンカウンターの向こうで
 弘樹がトースターの前に立っていた。

 フライパンの横には、
 焼き上がったトーストと目玉焼き、
 そしてマグカップに注がれたコーヒー。

 「おはよう」

 「……おはようございます」

 言ったあと、春奈はすぐに頭を下げた。

 「ごめんなさい。
  片付けもしないで、
  そのまま寝ちゃって……」

 シンクには、
 昨夜の食器はきれいに洗われて
 水切りかごに並んでいる。

 床にもテーブルにも、
 散らかった気配はない。
 (全部、一人でやらせちゃったんだ……)

 申し訳なさと、昨夜の自分の態度への後悔で、
 胸がじんわりと重くなる。

 「いや、別に。気にしなくていいよ」

 弘樹は、トーストを皿に移しながら、
 いつもの調子を装うように言った。

 「こっちこそ、ごめん。変な話して」

 “変な話”――
 昨夜の写真のこと、離婚のこと。
 触れたくない場所に、
 急に光を当てられたみたいな気がして、
 春奈は思わず視線を落とした。

 「……いえ。
  私のほうこそ、勝手に見ちゃって。
  何も言わずに部屋戻っちゃって、
  ごめんなさい」

 「いいんだよ。・・・」

 苦笑まじりにそう言われても、
 胸のざわつきは簡単には収まらない。
 
 「とりあえず、座って。
  朝ごはんだけは食べていきな。
  新幹線、時間決まってるんだろ」

 「……はい」

 テーブルに並んだのは、トーストと目玉焼き、
 シンプルなサラダ。

 いつもの朝食なのに、
 今日はどこか味が遠く感じられた。

 「何時の新幹線だっけ?」

 「えっと……このあと、
  40分後くらいのに乗ろうと思ってます。
  だから、そろそろ出ないと」

 「なるほど。じゃあ、
  食べたらすぐ、だな」

 会話は途切れ途切れで、
 どちらも必要以上に
 目を合わせようとしない。

 カトラリーの触れ合う音と、
 時計の秒針だけが、
 やけに大きく聞こえた。

 トーストを半分ほど残して、
 春奈はカップのコーヒーを飲み干した。

 「……ごちそうさまでした。
  本当に、
  いろいろありがとうございました」

 「こっちこそ。泊まってくれて、
  ちょっと賑やかになったよ」

 弘樹は、笑おうとして、
 少しだけぎこちない笑みを浮かべる。

 「そろそろ、行かないと」

 「うん。送ってきたいところだけど、
  時間ギリギリだよな」

 「はい。駅までは大丈夫です。
  ここからなら、もう迷わないので」

 立ち上がって、
 春奈は自分の部屋にスーツケースを取りに行き、
 戻ってくるとそのまま玄関へ向かった。

 靴を履くために屈むと、
 目の前の床に見覚えのある写真が
 もう見えないことに気づく。
 (やっぱり、片付けたんだ……)

 胸のどこかが、
 また少しだけきゅっと痛んだ。

 「じゃあ……行きますね」

 スーツケースの取っ手を握り、
 ドアノブに手をかける。

 その瞬間、
 背中からふっと手首をつかまれた。

 「っ……」

 驚いて振り返ると、
 弘樹がすぐそこに立っていた。

 「ごめん」

 短い言葉。
 それが何に対しての謝罪なのか、
 一瞬で全部わかる。

 「昨日のこと、全部ひっくるめて。
  写真のことも、変な話したことも……
  今、こうやって送ろうとしてることも」

 握られている手は、痛くない程度の力。
 でも、決して軽くもなかった。

 「……離してくれないと、
  間に合わなくなります」

 言葉ではそう言うのに、自分の声が震えているのがわかった。
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