窓明かりの群れに揺れる

10.世田谷の部屋 ― 新しく始める「一人」の生活

 四月。
 東京での研修が始まり、
 新入社員六人は毎日同じ会議室で、
 同じ時間割で、同じ課題に向き合った。

 「じゃあ、次のグループワーク、
  リーダーやりたい人〜?」

 元気な同期の声に、
 恵が「じゃあ今回は私やる」と手を上げる。

 気づけば春奈も、
 「じゃあこの部分、まとめてみます」と
 自然に役割を引き受けていた。

 慣れないことばかりで、失敗もある。
 メモは追いつかないし、専門用語も多い。
 でも――
 (ここで頑張るって、
  自分で決めて来たんだ)

 ふとした瞬間、
 心の中でそう思えるようになっていた。

 会社から少し離れた世田谷区で、
 一人暮らしを始めたのは、
 研修が始まる一週間前のこと。

 不動産屋と一緒に見に行ったワンルーム。

 少し古いけれど、
 陽当たりのいい部屋だった。

 「通勤は乗り換え一回。
  ドア・ツー・ドアで30分くらいです」

 そう説明されながら、窓の外を見る。

 遠くに小さく見える高層ビルを見て、
 春奈は心の中でそっと線を引いた。

 (“誰かの住む街”じゃなくて、
  “自分が働きに行く街”。
  東京は、そういう場所にしよう)

 「ここで大丈夫です。
  ここから通います」

 そう言って契約書に署名する。

 ボールペンの先が紙を滑る感触が、
 「自分の選択」に形を与えていくように思えた。

 引っ越しを終えた夜。
 段ボールを二つだけ片付けて、
 小さなベッドに腰を下ろす。

 コンビニで買ったおにぎりと味噌汁。
 実家とは違う、東京とも少し距離のある、
 世田谷の静かな住宅街の空気。
 (ここが、私の“今”の居場所)

 窓の外には、高層マンションではなく、
 似たような高さの建物が並んでいる。

 その先の方角に、
 あのマンションがあるのかもしれない。

 けれど、確かめる必要はないと思った。

 テーブル代わりの段ボール箱の上に、
 スマホを置く。

 画面をつけると、アプリアイコンの後ろに
 たくさんの連絡先が並んでいて、
 そのどこかに「弘樹」の名前も混じっている。

 指先が、一瞬だけそのアイコンの上で止まる。
 (……忘れる、なんて多分できない)

 玄関での感触も、
 新宿の夜景も、
 折れた写真も。

 全部まとめて「なかったこと」にするのは、
 きっと無理だ。
 (でも、“今”の私は、そこに戻らないって
  決めた)

 心の中でそう区切りをつけて、
 春奈はそっと画面を消した。

 完全に忘れることはできなくても、
 「今はここを見て生きる」と、
 自分で選ぶことはできる。

 窓の外の灯りは、
 もう「誰かのいる都市の光」ではなく、
 自分がこれから歩いていく街の光として、
 静かに瞬いていた。
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