窓明かりの群れに揺れる

13.夏の終わり、世田谷の部屋と多摩川沿いの休日

 あっという間に、夏休みは終わった。

 岩手の空気や、ご飯の匂いや、
 母のなんでもない会話。

 それらを後ろに置いて、新幹線に乗り、
 また東京へ戻ってきた春奈は、
 世田谷のアパートのドアを開けて、
 小さく息を吐いた。

 「……ただいま」

 もちろん、
 中から「おかえり」と返す声はない。

 一人暮らしを始めてから何度も経験した
 静けさなのに、
 お盆明けの部屋はいつもより少し、
 広く感じられた。

 スーツケースを部屋の隅に置き、
 エアコンのスイッチを入れる。

 窓の外には、東京の夏らしい、
 白っぽい光がぼんやりと広がっていた。
 (やっぱり、一人なんだよな、ここでは)

 寂しい、とまでは言わない。
 でも、実家で数日「娘」に戻っていたぶん、
 また「社会人一年目の自分」に
 着替えるみたいで、
 少しだけ胸の奥がくすぐったい。

 カレンダーを確認すると、
 会社が始まるまで、
 まだ一日だけ余裕があった。

 「……せっかくだし、出かけよ」

 部屋にこもっていると、
 いろんなことをぐるぐる
 考えてしまいそうで。

 春奈は、ワンピースに着替え、
 軽いショルダーバッグだけ持って外に出た。

 世田谷区のはずれ。

 アパートから少し歩くと、
 多摩川へ向かう緩やかな下り坂が続いている。

 多摩川の近くには、
 最近できたばかりのショッピングセンターや、
 ガラス張りのオシャレな
 デパートが立ち並んでいた。

 休日の昼下がり、
 家族連れやカップル、
 友達同士のグループが行き交う中を、
 春奈もゆっくりと歩く。

 (こういう場所に、“住んでる側”として来るの
  ちょっと不思議)

 エスカレーターで上のフロアへ上がると、
 雑貨屋さんやカフェ、
 コスメショップが並んでいた。

 ガラスケースに並んだ
 リップやネイルを眺めながら、
 ふと、自分の通勤スタイルを思い浮かべる。

 (こういうの、一本くらいなら
  買ってもいいかな。
  社会人っぽいメイク、
  もうちょっとちゃんと覚えたいし)

 前までは「もったいない」と思って
 素通りしていた価格帯のコスメも、
 「お給料が出た社会人」として眺めると、
 少しだけ現実的な買い物に見えてくる。

 服屋では、
 オフィスにも着られそうなブラウスに
 手を伸ばす。

 鏡の前で肩に当ててみて、
 同期と並んで歩く自分の姿を
 想像してみる。
 (会社の帰りに、
  この辺で待ち合わせしてご飯とか……
  ありかも)

 そんな未来の光景が、
 ほんのりと頭の中に浮かぶ。

 館内の窓際にあるカフェで、
 アイスコーヒーを注文する。

 席に座ると、
 大きなガラス越しに多摩川の流れと、
 その向こうに並ぶ
 住宅街の屋根が見渡せた。

 東京なのに、
 少しだけ地元の川を思い出すような景色。

 でも、すぐそばには、
 大きなショッピングセンターと、
 人の多いフードコート。
 (“田舎”と“都会”が、
  半分ずつ混ざったみたいな場所だな)

 ストローをくるくる回しながら、
 春奈は、自分の置かれている生活を改めて
 眺めるような気持ちになる。

 岩手で育って、東京で働き始めて。
 会社まで通う電車は、
 まだ完全には慣れていないけれど、
 ここから毎日通っているうちに、
 たぶんいつかは「慣れた道」に
 なるんだろう。

 (きっと私は、この街で、
  もう少し大人になっていくんだ)

 そう思うと、
 胸の中に、
 じわっと小さな期待が広がる。

 川沿いの歩道を歩く親子連れ、
 ショッピングバッグを提げて
 笑い合うカップル。

 友達同士で写真を撮り合う女の子たち。
 そのどれもが、
 自分にはまだ少し遠いようで、
 でも決して届かない世界ではない
 ようにも思えた。
 (仕事も、生活も。
  いつか恋愛だって、きっと)

 アイスコーヒーを飲み干して
 席を立つとき、
 春奈の足取りは、
 来たときよりも少し軽くなっていた。

 世田谷のはずれ、
 多摩川沿いのオシャレな空間の中で、
 「東京で暮らす自分」が、
 少しずつ輪郭を持ち始めていた。
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