窓明かりの群れに揺れる
第3章
14.商社のオフィスと、何気ない一言
新入社員とはいえ、
春奈の毎日はなかなか慌ただしかった。
配属されたのは、大手商社の営業系部署。
華やかなイメージとは裏腹に、
最初に任されるのは、ひたすら「支える」
仕事ばかりだ。
会議用の資料をコピーしてホチキスで
留めたり、
エクセルで数字をそろえたり、
先輩が作った提案書の誤字を
チェックしたり。
(“商社”って聞くと海外飛び回る
イメージだったけど……
最初はこういう地味な仕事の積み
重ねなんだな)
そう思いながらも、
一枚一枚の紙の向こうに、
お客さんとの商談やプロジェクトが
実際にあるのがわかって、
春奈はできるだけ丁寧に仕事を
覚えようとしていた。
「春奈ちゃん、このグラフ、
色分け修正しておいてもらえる?」
「はい、承知しました」
先輩に呼ばれるたび、メモ帳に走り
書きが増えていく。
慣れない専門用語も多くて、
帰宅後にノートにまとめ直すのが、
最近のルーティンになっていた。
そんな中で、よく声をかけてくれるのが、
同期の達也だった。
「おつかれ。なんか顔に
『エクセルと戦いました』って出てるけど?」
「出てました?
隠してたつもりなんですけど」
「いや、バレバレ。
あの先輩の資料補佐は新
人殺しだからね〜。よく生きてるよ」
軽い冗談交じりの一言に、
肩に力が入りっぱなしだった春奈の気持ちが
ふっと軽くなる。
「さっきさ、印刷室から戻ってくるとき、
肩ちょっと上がってたよ」
「そんなところまで
見てたんですか?」
「同期観察が趣味なんで」
「なんですかそれ」
笑い合っているうちに、
張り詰めていた緊張が
少しずつほぐれていくのがわかる。
忙しいフロアの中で、
ぽつっとこういう会話が
差し込まれるだけで、
春奈はずいぶん救われていた。
昼休み。
会社の近くのカフェで、
恵と一緒にサンドイッチをかじりながら、
午前中の出来事を話す。
「でね、印刷室から戻ってきたら、
達也くんが『生還おめでとう』って」
「うわ、それ絶対笑わせにきてるじゃん」
「で、ちょっと笑っちゃったら、
『あ、まだ余裕あるね』って」
「やっぱりあの人、
春奈のことよく見てるよね〜」
恵はストローをくるくる回しながら、
わざとらしくニヤニヤした。
「な、何その顔」
「いやいや、“同期として”
かもしれないけどさ?
達也くん、春奈には声かけ多くない?」
「え、そうかな……。
でも、困ってるときに
話しかけてくれるから、
正直助かってるよ」
「ほら出た、『いい人』ワード」
恵が身を乗り出してくる。
「で、本音どうなんです?
“達也くんって、いい人だよね”って思って
たりする?」
からかわれているのはわかっている。
わかっているけれど、言葉に詰まる。
「……うん。
いい人、だと思う。
話しやすいし、気を遣ってくれるし、
空気も読んでくれるし」
「真剣な顔で“いい人”羅列するの、
逆にガチっぽいんですけど」
「やめてよ、そういう言い方」
恵の笑いにつられて、
春奈も吹き出してしまう。
(でも――)
ふと、頭の隅で別の横顔がちらりと
浮かぶ。
すぐに、目の前のサンドイッチに
意識を戻した。
その日の夕方。
資料の直しを終えて、
自分のデスクに戻ろうとしたところで、
後ろから声をかけられた。
「おつかれ」
振り向くと、直樹が書類ファイルを
片手に立っていた。
「おつかれさまです」
「やっと今日の分、片付いた?」
「たぶん……です。
ミスがなければ」
「最初はみんなそんなもんだよ」
直樹は、穏やかな笑みを浮かべたまま、
少しだけ声を潜めて続けた。
「そういえばさ、
今週末あたり、また飲み行かない?
この前のメンバーで」
「この前の……って、四人で?」
「うん。春奈と恵と、俺と達也。
この前、居心地良かったし」
その名前が出た瞬間、
春奈の胸の奥で、わずかに
何かが動いた。
「あ、いいですね。
私も、行きたいです」
「じゃあ、グループチャット作るから、
日程そこで決めよ」
「はい」
直樹がフロアの向こうに歩いていくのを
見送りながら、
春奈は自分のデスクに戻った。
席に着き、モニターを立ち上げる。
画面に映る今日のスケジュールや
未処理のメールの一覧は、
“社会人としての日常”そのものだ。
(こうやって、
少しずつ輪の中に入っていくんだな、きっと)
同期の声。
先輩の指示。
会議室のざわめき。
コピー機の音。
その中で、自分の居場所が、
少しずつだけど確かに
形を持ち始めていることを、
春奈は静かに実感していた。
春奈の毎日はなかなか慌ただしかった。
配属されたのは、大手商社の営業系部署。
華やかなイメージとは裏腹に、
最初に任されるのは、ひたすら「支える」
仕事ばかりだ。
会議用の資料をコピーしてホチキスで
留めたり、
エクセルで数字をそろえたり、
先輩が作った提案書の誤字を
チェックしたり。
(“商社”って聞くと海外飛び回る
イメージだったけど……
最初はこういう地味な仕事の積み
重ねなんだな)
そう思いながらも、
一枚一枚の紙の向こうに、
お客さんとの商談やプロジェクトが
実際にあるのがわかって、
春奈はできるだけ丁寧に仕事を
覚えようとしていた。
「春奈ちゃん、このグラフ、
色分け修正しておいてもらえる?」
「はい、承知しました」
先輩に呼ばれるたび、メモ帳に走り
書きが増えていく。
慣れない専門用語も多くて、
帰宅後にノートにまとめ直すのが、
最近のルーティンになっていた。
そんな中で、よく声をかけてくれるのが、
同期の達也だった。
「おつかれ。なんか顔に
『エクセルと戦いました』って出てるけど?」
「出てました?
隠してたつもりなんですけど」
「いや、バレバレ。
あの先輩の資料補佐は新
人殺しだからね〜。よく生きてるよ」
軽い冗談交じりの一言に、
肩に力が入りっぱなしだった春奈の気持ちが
ふっと軽くなる。
「さっきさ、印刷室から戻ってくるとき、
肩ちょっと上がってたよ」
「そんなところまで
見てたんですか?」
「同期観察が趣味なんで」
「なんですかそれ」
笑い合っているうちに、
張り詰めていた緊張が
少しずつほぐれていくのがわかる。
忙しいフロアの中で、
ぽつっとこういう会話が
差し込まれるだけで、
春奈はずいぶん救われていた。
昼休み。
会社の近くのカフェで、
恵と一緒にサンドイッチをかじりながら、
午前中の出来事を話す。
「でね、印刷室から戻ってきたら、
達也くんが『生還おめでとう』って」
「うわ、それ絶対笑わせにきてるじゃん」
「で、ちょっと笑っちゃったら、
『あ、まだ余裕あるね』って」
「やっぱりあの人、
春奈のことよく見てるよね〜」
恵はストローをくるくる回しながら、
わざとらしくニヤニヤした。
「な、何その顔」
「いやいや、“同期として”
かもしれないけどさ?
達也くん、春奈には声かけ多くない?」
「え、そうかな……。
でも、困ってるときに
話しかけてくれるから、
正直助かってるよ」
「ほら出た、『いい人』ワード」
恵が身を乗り出してくる。
「で、本音どうなんです?
“達也くんって、いい人だよね”って思って
たりする?」
からかわれているのはわかっている。
わかっているけれど、言葉に詰まる。
「……うん。
いい人、だと思う。
話しやすいし、気を遣ってくれるし、
空気も読んでくれるし」
「真剣な顔で“いい人”羅列するの、
逆にガチっぽいんですけど」
「やめてよ、そういう言い方」
恵の笑いにつられて、
春奈も吹き出してしまう。
(でも――)
ふと、頭の隅で別の横顔がちらりと
浮かぶ。
すぐに、目の前のサンドイッチに
意識を戻した。
その日の夕方。
資料の直しを終えて、
自分のデスクに戻ろうとしたところで、
後ろから声をかけられた。
「おつかれ」
振り向くと、直樹が書類ファイルを
片手に立っていた。
「おつかれさまです」
「やっと今日の分、片付いた?」
「たぶん……です。
ミスがなければ」
「最初はみんなそんなもんだよ」
直樹は、穏やかな笑みを浮かべたまま、
少しだけ声を潜めて続けた。
「そういえばさ、
今週末あたり、また飲み行かない?
この前のメンバーで」
「この前の……って、四人で?」
「うん。春奈と恵と、俺と達也。
この前、居心地良かったし」
その名前が出た瞬間、
春奈の胸の奥で、わずかに
何かが動いた。
「あ、いいですね。
私も、行きたいです」
「じゃあ、グループチャット作るから、
日程そこで決めよ」
「はい」
直樹がフロアの向こうに歩いていくのを
見送りながら、
春奈は自分のデスクに戻った。
席に着き、モニターを立ち上げる。
画面に映る今日のスケジュールや
未処理のメールの一覧は、
“社会人としての日常”そのものだ。
(こうやって、
少しずつ輪の中に入っていくんだな、きっと)
同期の声。
先輩の指示。
会議室のざわめき。
コピー機の音。
その中で、自分の居場所が、
少しずつだけど確かに
形を持ち始めていることを、
春奈は静かに実感していた。