窓明かりの群れに揺れる
「そろそろ、電車大丈夫?」
直樹が時計を見て言うと、
店内のざわめきが、
少しずつ「お開きモード」に変わっていく。
「やば、もうこんな時間か」
「名残惜しいけど、
今日はこのへんにしとこっか」
会計を済ませ、四人で店を出る。
外の空気は、
さっきよりも少しだけ涼しくなっていた。
駅に向かって歩き出したところで、
春奈はふと足元がおぼつかないのに気づく。
「あれ……ちょっと、飲みすぎたかも」
足がふらりと揺れた瞬間、
すぐそばにいた達也の手が、
そっと腕を支えた。
「大丈夫?」
「あ、ごめんなさい。
平気だと思ったんですけど……
ちょっとくらっとして」
「無理して歩かなくていいよ。
駅、もう少しあるし」
支える手は強すぎず、でも確かな力で、
春奈が転ばないように支えてくる。
「大丈夫です……」
そう言いながら歩き出そうとするけれど、
数歩進んだところで、
また少しふらついてしまう。
「ほら、やっぱり」
達也は苦笑しながら、
肩に腕を回すようにそっと支え直した。
「方向、一緒だしさ。途中まで送るよ。
タクシー拾ったほうが早いな、これ」
「でも……」
「気にしなくていいよ。
明日、生きて会社来てくれたら、
それで十分」
冗談交じりの言い方に、
春奈は「すみません」と小さく頭を下げた。
恵と直樹が、少し先を歩きながら振り返る。
「春奈、いけそう?」
「タクシー拾うから大丈夫。
二人は先に電車行って」
「了解。ちゃんと家まで帰るんだよー」
手を振る恵に、
春奈も片手を上げて応えた。
少し歩いた先の大通りで、
達也が手を挙げると、
タクシーがすぐに停まった。
「じゃ、乗ろうか」
ドアが自動で開き、
達也に支えられながら
春奈は後部座席に乗り込む。
達也も後から続いて
座席に腰を下ろした。
「二子玉川駅の近くまでお願いします。
途中で道、説明します」
運転手にそう伝えると、
タクシーは静かに発進した。
窓の外で、街の灯りがゆっくりと
流れていく。
看板の明かり、マンションの窓、
信号の光。
それらが混ざり合って、
ぼんやりと滲んで見えた。
(ちょっと、飲みすぎたな……)
頭の奥がじんわりと重い。
でも、車内の空気は不思議と
落ち着いていた。
ふと横を見ると、
達也が少し緊張したような横顔で
前を向いている。
「……ごめんなさい、迷惑かけて」
「迷惑なんかじゃないよ。
むしろ、送らずに帰ったほうが
あとで怒られそう」
「誰にですか」
「自分に」
短い応酬のあと、しばらくは、
メーターのカチカチという音だけが
車内を満たした。
街の灯りが、
ゆっくりと窓の外をスライドしていく。
達也の手が、
ちょっと触れたような感覚がしたとき
急に、
息を整えるように小さく息を吸った。
「春奈」
「はい?」
呼ばれて、ゆっくりと横を向く。
達也は、
少しだけ視線を下げたまま
言葉を探していた。
「今こういうタイミングで言うの、
正直どうかなって思ったんだけどさ…」
声のトーンが、
さっきまでの冗談混じりのものとは違う。
春奈は、
胸の奥がすっと冷えるのを感じた。
「俺さ」
一拍置いてから、
はっきりとした声で続ける。
「春奈のこと、好きなんだと思う。
もしよければ――付き合ってほしい」
タクシーのエンジン音が、
やけに大きく聞こえた。
車内の空間だけ、
急に時間が引き伸ばされたみたいに感じる。
「……達也くん」
名前を呼ぶ声が、少し震える。
(どうしよう)
目の前にいるのは、
新人研修で何度も助けてくれた同期。
同い年で、話しやすくて、
仕事の愚痴も笑い飛ばしてくれる人。
好感がないわけじゃない。
むしろ、「いい人だ」と
何度も口にしてきた。
それでも――
「嬉しいです。
そんなふうに言ってもらえるのは、
本当に嬉しいです」
正直な気持ちだけを、まず言葉に乗せる。
「でも……今は、」
達也の視線が、少しだけ揺れた。
「仕事のことで
頭がいっぱいなのもあるし、
自分の気持ちが、ちゃんと向いてるのか
どうかも、まだよくわからなくて」
“まだ、別の誰かの影を引きずっている”
なんてことは言えない。
けれど、その事実が心の奥にあるのは、
自分が一番よく知っていた。
「中途半端な気持ちで“はい”って言うのは、
達也くんにも失礼だと思うんです」
言葉を選びながら、
精一杯まっすぐに伝える。
運転手は、前を向いたまま何も言わない。
車内は、
ふたたびエンジン音だけに満たされた。
「……そっか」
短い返事。
期待していた答えではなかったはずなのに、
達也の声は、思ったより穏やかだった。
「変なタイミングで言って、ごめん」
「いえ……ちゃんと話してくれて、
ありがとうございます」
「答え急かすつもりはないからさ。
今の春奈の気持ち、
聞けただけでもよかった。
それ、ちゃんと言ってくれたのが嬉しい」
正面を向き直った横顔は、
少しだけ寂しそうで、
でもどこかほっとしたようにも見えた。
タクシーがアパートの近くで停まり、
メーターが止まる。
「ここで大丈夫です」
達也を横目で見ながら、
春奈はゆっくりとシートから
身体を起こした。
ドアが開くと、
夜風より少し冷たい都会の空気が、
頬に触れる。
「今日は、ありがとうございました」
「ちゃんと家まで行ける?
階段、気をつけてね」
「はい。もう大丈夫です。
アルコールもだいぶ抜けました」
笑ってみせる。
「じゃあ、また月曜。
死んだ顔してたら、コーヒーおごるよ」
「それ、楽しみにしてます」
軽く会釈して、タクシーから降りる。
車がゆっくり走り出し、
テールランプの赤い光が、
少しずつ遠ざかっていった。
アスファルトの上に立ち尽くすと、
夜の街の静けさが、
じわりと肌に染みてくる。
(……答えられなかった)
自分の選んだ言葉を思い返しながら、
春奈は、小さく息を吐いた。
都会の空気は、
思ったよりも冷たくて、
火照った頬を、少しだけ冷ましてくれた。
直樹が時計を見て言うと、
店内のざわめきが、
少しずつ「お開きモード」に変わっていく。
「やば、もうこんな時間か」
「名残惜しいけど、
今日はこのへんにしとこっか」
会計を済ませ、四人で店を出る。
外の空気は、
さっきよりも少しだけ涼しくなっていた。
駅に向かって歩き出したところで、
春奈はふと足元がおぼつかないのに気づく。
「あれ……ちょっと、飲みすぎたかも」
足がふらりと揺れた瞬間、
すぐそばにいた達也の手が、
そっと腕を支えた。
「大丈夫?」
「あ、ごめんなさい。
平気だと思ったんですけど……
ちょっとくらっとして」
「無理して歩かなくていいよ。
駅、もう少しあるし」
支える手は強すぎず、でも確かな力で、
春奈が転ばないように支えてくる。
「大丈夫です……」
そう言いながら歩き出そうとするけれど、
数歩進んだところで、
また少しふらついてしまう。
「ほら、やっぱり」
達也は苦笑しながら、
肩に腕を回すようにそっと支え直した。
「方向、一緒だしさ。途中まで送るよ。
タクシー拾ったほうが早いな、これ」
「でも……」
「気にしなくていいよ。
明日、生きて会社来てくれたら、
それで十分」
冗談交じりの言い方に、
春奈は「すみません」と小さく頭を下げた。
恵と直樹が、少し先を歩きながら振り返る。
「春奈、いけそう?」
「タクシー拾うから大丈夫。
二人は先に電車行って」
「了解。ちゃんと家まで帰るんだよー」
手を振る恵に、
春奈も片手を上げて応えた。
少し歩いた先の大通りで、
達也が手を挙げると、
タクシーがすぐに停まった。
「じゃ、乗ろうか」
ドアが自動で開き、
達也に支えられながら
春奈は後部座席に乗り込む。
達也も後から続いて
座席に腰を下ろした。
「二子玉川駅の近くまでお願いします。
途中で道、説明します」
運転手にそう伝えると、
タクシーは静かに発進した。
窓の外で、街の灯りがゆっくりと
流れていく。
看板の明かり、マンションの窓、
信号の光。
それらが混ざり合って、
ぼんやりと滲んで見えた。
(ちょっと、飲みすぎたな……)
頭の奥がじんわりと重い。
でも、車内の空気は不思議と
落ち着いていた。
ふと横を見ると、
達也が少し緊張したような横顔で
前を向いている。
「……ごめんなさい、迷惑かけて」
「迷惑なんかじゃないよ。
むしろ、送らずに帰ったほうが
あとで怒られそう」
「誰にですか」
「自分に」
短い応酬のあと、しばらくは、
メーターのカチカチという音だけが
車内を満たした。
街の灯りが、
ゆっくりと窓の外をスライドしていく。
達也の手が、
ちょっと触れたような感覚がしたとき
急に、
息を整えるように小さく息を吸った。
「春奈」
「はい?」
呼ばれて、ゆっくりと横を向く。
達也は、
少しだけ視線を下げたまま
言葉を探していた。
「今こういうタイミングで言うの、
正直どうかなって思ったんだけどさ…」
声のトーンが、
さっきまでの冗談混じりのものとは違う。
春奈は、
胸の奥がすっと冷えるのを感じた。
「俺さ」
一拍置いてから、
はっきりとした声で続ける。
「春奈のこと、好きなんだと思う。
もしよければ――付き合ってほしい」
タクシーのエンジン音が、
やけに大きく聞こえた。
車内の空間だけ、
急に時間が引き伸ばされたみたいに感じる。
「……達也くん」
名前を呼ぶ声が、少し震える。
(どうしよう)
目の前にいるのは、
新人研修で何度も助けてくれた同期。
同い年で、話しやすくて、
仕事の愚痴も笑い飛ばしてくれる人。
好感がないわけじゃない。
むしろ、「いい人だ」と
何度も口にしてきた。
それでも――
「嬉しいです。
そんなふうに言ってもらえるのは、
本当に嬉しいです」
正直な気持ちだけを、まず言葉に乗せる。
「でも……今は、」
達也の視線が、少しだけ揺れた。
「仕事のことで
頭がいっぱいなのもあるし、
自分の気持ちが、ちゃんと向いてるのか
どうかも、まだよくわからなくて」
“まだ、別の誰かの影を引きずっている”
なんてことは言えない。
けれど、その事実が心の奥にあるのは、
自分が一番よく知っていた。
「中途半端な気持ちで“はい”って言うのは、
達也くんにも失礼だと思うんです」
言葉を選びながら、
精一杯まっすぐに伝える。
運転手は、前を向いたまま何も言わない。
車内は、
ふたたびエンジン音だけに満たされた。
「……そっか」
短い返事。
期待していた答えではなかったはずなのに、
達也の声は、思ったより穏やかだった。
「変なタイミングで言って、ごめん」
「いえ……ちゃんと話してくれて、
ありがとうございます」
「答え急かすつもりはないからさ。
今の春奈の気持ち、
聞けただけでもよかった。
それ、ちゃんと言ってくれたのが嬉しい」
正面を向き直った横顔は、
少しだけ寂しそうで、
でもどこかほっとしたようにも見えた。
タクシーがアパートの近くで停まり、
メーターが止まる。
「ここで大丈夫です」
達也を横目で見ながら、
春奈はゆっくりとシートから
身体を起こした。
ドアが開くと、
夜風より少し冷たい都会の空気が、
頬に触れる。
「今日は、ありがとうございました」
「ちゃんと家まで行ける?
階段、気をつけてね」
「はい。もう大丈夫です。
アルコールもだいぶ抜けました」
笑ってみせる。
「じゃあ、また月曜。
死んだ顔してたら、コーヒーおごるよ」
「それ、楽しみにしてます」
軽く会釈して、タクシーから降りる。
車がゆっくり走り出し、
テールランプの赤い光が、
少しずつ遠ざかっていった。
アスファルトの上に立ち尽くすと、
夜の街の静けさが、
じわりと肌に染みてくる。
(……答えられなかった)
自分の選んだ言葉を思い返しながら、
春奈は、小さく息を吐いた。
都会の空気は、
思ったよりも冷たくて、
火照った頬を、少しだけ冷ましてくれた。