窓明かりの群れに揺れる

16.静かな土曜日と、日曜カフェの本音

 土曜日
 目が覚めたのは、
 いつもよりだいぶ遅い時間だった。

 カーテンの隙間から差し込む光は
 もうすっかり昼で、
 枕元には、昨日の夜のバッグと、
 脱ぎっぱなしのジャケットが転がっている。
 (……飲みすぎた)

 頭の奥がじんわり重くて、
 身体を起こすと、
 ふわっと小さなめまいがした。

 キッチンで水を飲み、
 簡単にパンをかじって、
 シャワーを浴びたあとも、
 外に出る気力は湧いてこなかった。

 ソファ代わりのベッドに腰を落とし、
 天井を見上げながら、
 昨夜のことを少しずつ思い出す。
 (達也くん、家まで送ってくれて……
  タクシーの中で……)

 「好きなんだと思う」「付き合ってほしい」

 あのはっきりとした言葉。

 それに対して、自分が言った
 「今は答えられない」という返事。
 (いい人、なんだよな、本当に)

 同期で、同い年で、
 仕事で困っているときにさりげなく
 声をかけてくれて。

 話していると楽しくて、気が楽になる。
 (でも、恵も、達也くんのこと……)

 カフェでからかってくるときの目が、
 どこか楽しそうで、
 真剣だったことを思い出す。

 胸の奥が、少しぎゅっと掴まれる感じがして、
 春奈は寝転んだまま、
 枕をぎゅっと抱きしめた。

 頬が温かみをおび、
 ふわっとした高揚感に包まれていた。

 そのとき、
 枕元に置いてあったスマホが、
 かすかに震える。

 画面を覗くと、
 恵からのメッセージだった。

 『昨日、大丈夫だった?
  帰るとき、ちょっとフラフラしてたから
  心配したよ』
 (……見られてたんだ)

 タクシーに乗る前の自分の足取りを
 思い出して、頬が熱くなる。

 しばらく迷ってから、短く返した。

 『大丈夫だよ。
  ちゃんと帰れた。
  心配かけてごめんね』

 送信してしまってから、
 続けて何か書くべきか、
 指が画面の上で止まる。
 (“達也くんが送ってくれて……”って
  書くべきかどうか)

 悩んだ末に、スマホをうつ伏せにして、
 ベッドの上に置いた。

 返事はすぐに来た。

 『ならよかった。
  今日はゆっくり休んで〜』

 文面はあっさりしている。 

 でも、その向こうで、
 恵がどんな表情をしているのかまでは、
 さすがに読めなかった。

 土曜日は、そのまま、
 外に出る気になれなかった。

 洗濯機を回して、適当に食事をして、
 あとはだらだらとネットでドラマを
 流し見する。

 頭のどこかでは、
 達也の言葉と、恵の顔と、
 そして自分の「答えられなかった返事」が、
 交互に浮かんでは消えていた。

 日曜日
 昼過ぎに、また恵からメッセージが来た。

 『都内でお茶しよー。
  ××駅のカフェ空いてたらそこでどう?』

 『行く。
  2時くらいで大丈夫?』

 『オッケー。
  昨日の二日酔い報告も含めて、
  根掘り葉掘り聞くから覚悟しといて』

 (……やっぱり、そうなるよね)

 苦笑しながらスマホを置き、
 簡単にメイクを直して外に出た。

 待ち合わせたのは、
 ビルの二階にある、
 落ち着いた雰囲気のカフェだった。

 木のテーブルに、窓際の席。
 ガラス越しに、通りを歩く人たちが
 ゆっくり流れていく。

 「春奈〜」

 先に来ていた恵が、手を振る。
 ワンピースにカーディガンという、
 いつものきれいめな格好だ。

 「ごめん、ちょっと遅れた」

 「全然。私もさっき来たとこ」

 メニューをひと通り眺めて、
 それぞれドリンクとスイーツを頼む。

 店員が去った瞬間――

 「で!」

 恵が、身を乗り出した。

 「聞いてよ。
  昨日、私も
  “二人で帰る組”だったんだけどさ」

 「え?」

 「直樹にね、告白された」

 「えっ」

 思わず声が裏返る。
 ドリンクがまだ来ていなかったのが
 幸いだった。

 「駅まで一緒に歩いてたらさ、
  急に『ずっと一緒にいると落ち着くし、
  よかったら付き合わない?』って」

 「……直樹くんが?」

 「そう。あの穏やかメガネの。
  仕事できるし、優しいし、
  悪い人では全然ないんだけど……」

 そこで恵は、ストローの代わりに
 テーブルの端を指でつついた。

 「なんか、違うんだよね」

 「タイプじゃない?」

 「うん。
  “いい人”なのはわかるし、
  彼氏にしたら絶対安定感ある
  タイプだと思うんだけど――
  胸がドキドキする方向が、
  ちょっと違うというか」

 正直すぎる言葉に、春奈は苦笑した。

 「で、なんて答えたの?」

 「今は仕事でいっぱいいっぱいだからって、
  やんわり濁した。
  正直に“タイプじゃないです”って
  言うのも、さすがに酷だしね」

 「……そうだね」

 返事の仕方に、妙な親近感を覚える。
 自分も似たような理由で、
 昨日のタクシーの中で言葉を選んだことを
 思い出す。

 「でもさー」

 そこまで話してから、
 恵はじっと春奈の顔を覗き込んだ。

 「春奈こそ、なんかあったでしょ。
  金曜の帰り、ちょっと雰囲気違ったよ」

 「え、私?」

 「達也くんと二人で
  タクシー乗ったあとの話。
  なんもナシってこと、ある?」

 核心にストレートで踏み込んでくる。
 さすが、
 学生時代から一緒にいる友達だ。

 「……」

 春奈は、視線をテーブルに落とした。
 しばらく、
 指でカップの受け皿の縁をなぞる。

 正直に言えば、
 恵の表情が変わるのが怖かった。
 
 「なにも……ないよ」

 少し間を空けてから、
 ようやく言葉を出す。

 「酔ってたし、タクシーの中のこと、
  正直あんまり覚えてなくて。
  ちゃんと家まで送ってもらって、
  ありがとうございました、って感じ」

 「ほんとに?」

 「うん。
  それ以上のこと、考える余裕なかった」

 半分は本音で、
 半分は逃げのニュアンスを込める。

 あの告白を「なかったこと」に
 するわけじゃない。 

 でも、今ここで話すのは、違う気がした。

 恵はしばらくじっと春奈を見つめていたが、
 やがて小さく肩の力を抜いた。

 「そっか。
  ならいいんだけどさ」

 ほんの少し、
 ほっとしたような笑みが浮かぶ。

 「なんか、“達也くんサイド”もいろいろ考えて
  そうだったからさ。
  もし変なこと言われてたら、
  私もどうしようかなって」

 「ううん。
  ちゃんと送ってくれただけだから」

 言いながら、心の中では、
 自分の言葉の選び方が正しいのかどうか、
 答えの出ない問いがくるくる回っていた。

 ドリンクが運ばれてきて、
 二人でストローを手に取る。
 
 「じゃ、とりあえず――」

 恵が小さく笑った。

 「“明日から仕事、
  ちょっと気まずい組”に乾杯」

 「やめて、なんかリアル」

 そう言いながらも、
 春奈はグラスを軽くぶつけた。

 ふたりとも、
 心のどこかで同じことを考えている。
 (明日、顔合わせるの、気まずいな)

 直樹と。
 達也と。
 それぞれ違う告白を抱えたまま、
 同じフロアで、
 何事もなかった顔をして働くことになる。

 「ま、仕事は仕事。
  プライベートはいったん置いとくしか
  ないよね」

 「だね……」

 言葉ではそう言いながら、
 ふたりは同時に、少しだけ苦笑した。

 カフェの窓の外を、
 都内のせわしない午後の光が流れていく。

 コーヒーの香りと、
 微妙な胸のざわつきと――

 明日からの少しだけ気まずい
 職場の空気を、
 ふたりともまだ想像しきれずにいた。
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