窓明かりの群れに揺れる
17.会議室での再会
月曜日の朝。
出社ラッシュをなんとか抜けて
オフィスのフロアに入ると、
いつもの空調の音と、
キーボードを叩く音が迎えてくれた。
「おはようございます」
デスクに向かう途中、
春奈は思い切って声をかけた。
「おはよう、達也くん」
コピー機のところで
資料をまとめていた達也が、
ぱっと顔を上げる。
「あ、おはよう」
少しだけ、嬉しそうな声色。
けれど、それ以上余計なことは言わない。
金曜のタクシーの中の会話に
触れることもなく、
いつも通りの笑顔を向けてくる。
「今日、午後の会議用の資料、
バタバタしてるからさ。
もし手空いたら、
また手伝ってくれる?」
「はい、もちろん」
そのやり取りが、
どこか救いになっていた。
(“仕事の同期”として、ちゃんと戻れてる)
金曜の夜の告白は消えないけれど、
少なくとも、
今ここで気まずさだけが
支配しているわけではない――
そう思えるだけでも、
少しだけ胸が楽になった。
午前中は、あっという間に過ぎた。
午後の会議に向けて、資料の印刷、
製本、配布用の準備。
議事録フォーマットのチェック。
会議室のレイアウト表の確認。
フロアには、
いつもより少し緊張した空気が漂っている。
「今回のミーティング、
かなり重要な案件だからね」
先輩が小声で教えてくれた。
「先方も役職クラスが複数来るし、
うちも部長が出るから。
新人は主にサポートだけど、
失敗はできれば少ない方がいい」
「は、はい」
資料の最終チェックに目を走らせながら、
春奈は、
自然と背筋が伸びるのを感じていた。
参加者は、うちの会社から六人、
相手先から六人。
計十二名の顔ぶれが並ぶらしい。
(そんな大人数の会議、
間近で見るの初めてかも)
緊張と同時に、少しだけ高揚感もある。
ここはもう、学生の教室ではなく、
「仕事で何かが決まる場所」なのだ。
開始時間が近づき、
先方が少し早めに来ているという
連絡が入る。
「じゃ、俺たち先に会議室行って
準備するから。
春奈ちゃんは後から部長たちと
入ってきて」
「わかりました」
会議室前の廊下で、
コピーした資料を抱えたまま待機する。
ガラス越しに中の様子が
ぼんやり見えた。
長いテーブルが中央に一本。
片側に、
スーツ姿の男性たちが座り始めている。
相手先の社名が印刷されたファイルや
ノートが並び、
落ち着いた笑い声が小さく漏れてくる。
(人、多い……)
手に持った資料の角が、
少し汗でしっとりとしてきた。
指先でそっと持ち直した瞬間、
後ろから声がかかる。
「準備、大丈夫?」
振り向くと、
部署の先輩と部長が歩いてきていた。
「はい。人数分、揃ってます」
「じゃ、入ろうか。
緊張しなくていいからね。
笑顔で“失礼します”って言えれば十分」
「……はい」
深呼吸を一つして、
先輩たちの少し後ろをついていく。
会議室のドアが開く。
エアコンの冷たい空気と、
資料の紙の匂い、
コーヒーの香りが混ざった空間。
「本日はお忙しい中、
お時間いただきありがとうございます」
部長の声が、柔らかく場の空気を掴んでいく。
春奈は、
テーブルの端から順に資料を配りながら、
相手先の顔ぶれを横目で見ていった。
(相手の部長さんっぽい人がいて……
その隣が課長さんかな。
あの人はこの間メールで
やりとりした名前……)
そうやって、淡々と仕事モードで
人の肩書きや顔を確認していた、
そのとき――
視線が、ひとつの席で止まった。
心臓が、どくん、と跳ねる。
スーツの色も、ネクタイの柄も、
少し前と違っている。
髪も、
ほんの少し短くなっている気がする。
それでも、一度見てしまえば、
見間違えようがなかった。
(……弘樹くん)
息が詰まる。
資料の束を持つ指先から、
一瞬、
力が抜けそうになるのを必死でこらえた。
名前を呼びそうになる。
喉の奥でかろうじて飲み込む。
弘樹も、こちらに気づいたのかどうか――
その瞳が、
ほんの一瞬春奈のほうに向いたような気がした。
けれど、表情は崩れない。
ビジネスの場にいる、大人の顔。
先輩の背中を追うようにして、
春奈は、
表情筋をなんとか「新人社員」の
位置に固定したまま、
相手のテーブルに資料を置いて回った。
胸の奥だけが、
さっきまでとはまったく違う速度で
ざわつき始めていた。
出社ラッシュをなんとか抜けて
オフィスのフロアに入ると、
いつもの空調の音と、
キーボードを叩く音が迎えてくれた。
「おはようございます」
デスクに向かう途中、
春奈は思い切って声をかけた。
「おはよう、達也くん」
コピー機のところで
資料をまとめていた達也が、
ぱっと顔を上げる。
「あ、おはよう」
少しだけ、嬉しそうな声色。
けれど、それ以上余計なことは言わない。
金曜のタクシーの中の会話に
触れることもなく、
いつも通りの笑顔を向けてくる。
「今日、午後の会議用の資料、
バタバタしてるからさ。
もし手空いたら、
また手伝ってくれる?」
「はい、もちろん」
そのやり取りが、
どこか救いになっていた。
(“仕事の同期”として、ちゃんと戻れてる)
金曜の夜の告白は消えないけれど、
少なくとも、
今ここで気まずさだけが
支配しているわけではない――
そう思えるだけでも、
少しだけ胸が楽になった。
午前中は、あっという間に過ぎた。
午後の会議に向けて、資料の印刷、
製本、配布用の準備。
議事録フォーマットのチェック。
会議室のレイアウト表の確認。
フロアには、
いつもより少し緊張した空気が漂っている。
「今回のミーティング、
かなり重要な案件だからね」
先輩が小声で教えてくれた。
「先方も役職クラスが複数来るし、
うちも部長が出るから。
新人は主にサポートだけど、
失敗はできれば少ない方がいい」
「は、はい」
資料の最終チェックに目を走らせながら、
春奈は、
自然と背筋が伸びるのを感じていた。
参加者は、うちの会社から六人、
相手先から六人。
計十二名の顔ぶれが並ぶらしい。
(そんな大人数の会議、
間近で見るの初めてかも)
緊張と同時に、少しだけ高揚感もある。
ここはもう、学生の教室ではなく、
「仕事で何かが決まる場所」なのだ。
開始時間が近づき、
先方が少し早めに来ているという
連絡が入る。
「じゃ、俺たち先に会議室行って
準備するから。
春奈ちゃんは後から部長たちと
入ってきて」
「わかりました」
会議室前の廊下で、
コピーした資料を抱えたまま待機する。
ガラス越しに中の様子が
ぼんやり見えた。
長いテーブルが中央に一本。
片側に、
スーツ姿の男性たちが座り始めている。
相手先の社名が印刷されたファイルや
ノートが並び、
落ち着いた笑い声が小さく漏れてくる。
(人、多い……)
手に持った資料の角が、
少し汗でしっとりとしてきた。
指先でそっと持ち直した瞬間、
後ろから声がかかる。
「準備、大丈夫?」
振り向くと、
部署の先輩と部長が歩いてきていた。
「はい。人数分、揃ってます」
「じゃ、入ろうか。
緊張しなくていいからね。
笑顔で“失礼します”って言えれば十分」
「……はい」
深呼吸を一つして、
先輩たちの少し後ろをついていく。
会議室のドアが開く。
エアコンの冷たい空気と、
資料の紙の匂い、
コーヒーの香りが混ざった空間。
「本日はお忙しい中、
お時間いただきありがとうございます」
部長の声が、柔らかく場の空気を掴んでいく。
春奈は、
テーブルの端から順に資料を配りながら、
相手先の顔ぶれを横目で見ていった。
(相手の部長さんっぽい人がいて……
その隣が課長さんかな。
あの人はこの間メールで
やりとりした名前……)
そうやって、淡々と仕事モードで
人の肩書きや顔を確認していた、
そのとき――
視線が、ひとつの席で止まった。
心臓が、どくん、と跳ねる。
スーツの色も、ネクタイの柄も、
少し前と違っている。
髪も、
ほんの少し短くなっている気がする。
それでも、一度見てしまえば、
見間違えようがなかった。
(……弘樹くん)
息が詰まる。
資料の束を持つ指先から、
一瞬、
力が抜けそうになるのを必死でこらえた。
名前を呼びそうになる。
喉の奥でかろうじて飲み込む。
弘樹も、こちらに気づいたのかどうか――
その瞳が、
ほんの一瞬春奈のほうに向いたような気がした。
けれど、表情は崩れない。
ビジネスの場にいる、大人の顔。
先輩の背中を追うようにして、
春奈は、
表情筋をなんとか「新人社員」の
位置に固定したまま、
相手のテーブルに資料を置いて回った。
胸の奥だけが、
さっきまでとはまったく違う速度で
ざわつき始めていた。