窓明かりの群れに揺れる
 ひと通り入力を終えたところで、
 横から声がした。

 「おつかれ」

 顔を上げると、
 達也がファイルを片手に立っていた。

 「きょう、よく頑張ったね」

 「え……あ、ありがとうございます」

 「顔、ちょっと固まってたけどさ。
  資料配るのも議事録も、ミスなかったよ。
  部長も“助かった”って言ってた」

 「ほんとですか?」

 「うん。
  だから、もうちょっとだけ
  力抜いても大丈夫」

 その一言に、
 胸の奥がじんわりと緩んだ。

 「……なんか、
  すごく緊張してたみたいです」

 「そりゃするって。
  初めての大人数の会議だしさ」

 達也は、あえてそれ以上踏み込んでこない。

 どこか、
 いつもより距離を測っているような感じがした。

 「とりあえず、
  報告書書き終わったら一回お茶飲みな。
  俺もさっき同じ会議で死んだとこだから」

 「じゃあ、死んだ仲間として休憩とります」

 「いいね、その表現」

 軽い会話が、
 さっきまで張りつめていた神経を、
 少しずつほどいていった。

 その日の仕事が終わるころには、
 疲労が身体の芯まで染み込んでいた。

 電車に揺られて駅に着き、
 アパートまでの道を歩きながら、
 春奈は何度もため息をつきそうになっては
 飲み込んだ。
 (……本当に会っちゃった)

 玄関のドアを閉めた瞬間、
 張り詰めていたものがふっと解けて、
 バッグを床に落としそうになる。

 スーツのジャケットを脱いで椅子にかけ、
 そのままベッドの端に腰を下ろす。

 仕事の疲れ。
 慣れない会議。
 そして――想定外の再会。

 頭の中で、
 会議室の長テーブル越しの横顔が、
 何度も再生される。
 (取引先としての弘樹くん……か)

 名前で呼ぶのも、
 もう危うい気がして、
 心の中の呼び方すら、ぐらついていた。

 スマホが小さく震えたのは、
 いつもより少し遅い時間だった。
 ディスプレイに表示された名前を見て、
 心臓がまた跳ねる。

 ――弘樹。

 画面を開くと、
 短いメッセージが表示されていた。

 『今日は驚かせてしまってごめん。
  まさか、あの会社に入ってるとは
  思ってなかった』

 そこまで読んだだけで、
 呼吸が浅くなる。

 続けて、もう一文。
 『ちゃんと仕事してる春奈を見て、
  正直、見違えるくらい成長したなって思った』

 指先が、画面の上で止まる。
 (成長……)

 あの三日間。

 玄関のキス。

 岩手に帰る新幹線。

 世田谷で始めた一人暮らし。

 新人研修、同期との飲み会、
 仕事で失敗して、
 少しずつ覚えていった毎日。

 それら全部を、一気にまとめて
 「成長」と言われたような気がして、
 胸の奥がじん、と熱くなる。

 同時に――
 あの会議室で、
 何事もなかったかのように
 ビジネスの顔をしていた弘樹の姿が、
 また頭に浮かんだ。
 (仕事の場では、
  “いとこ”でも“あの人”でもなくて、
  ただの“取引先の担当者”だった)

 それが、たぶん正しい距離感。

 でも、こうしてメッセージが届いてしまうと、
 心は簡単に、
 その境界線を飛び越えようとする。

 返信画面を開いて、文字を打ちかけては消す。

 『今日はお疲れさまでした』
 『驚きましたね』
 『お仕事中の顔、初めて見ました』

 どの言葉も、
 送るには少しだけ、気持ちが近すぎる気がする。
 (なんて返せばいいの)

 ソファ代わりのベッドに
 倒れ込むようにして寝転び、
 スマホを胸の上に置いた。

 天井を見つめながら、
 ゆっくりと深呼吸をする。

 嬉しい。
 怖い。
 照れくさい。
 逃げたい。

 相反する気持ちが、
 波のように寄せては返す。
 (私、ちゃんと
  “東京の社会人”になろうって決めたのに)

 その決意と、
 画面の中の
 「見違えるくらい成長した」という言葉が、
 胸の真ん中で絡まり合う。

 しばらく迷った末に、
 春奈はようやく、短い一文を打ち込んだ。
 『今日はお疲れさまでした。
  私も、とてもびっくりしました』
 それだけ。

 送信ボタンを押したあと、
 しばらくスマホを伏せて目を閉じる。

 返信が来るかどうかも、
 今はまだ、確かめる勇気が出なかった。

 窓の外には、
 世田谷の夜の灯りが、静かにまたたいている。

 東京のどこか別の場所でも、
 きっと同じ空の下で、
 誰かが画面越しの言葉を見つめている。

 そう思うだけで、
 春奈の心は、また静かに揺れ始めていた。
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