窓明かりの群れに揺れる
 数日後の夕方。

 その日は一段と忙しく、
 メールの対応と電話と
 雑務に追われ続けた結果、
 退社時間頃には、
 さすがに顔に疲れが出ていたらしい。

 エントランスを出てビルの前に
 出たところで、
 背後から声が飛んでくる。

 「春奈」

 振り返ると、
 ネクタイを緩めた達也が、
 資料の入ったバッグを片手に立っていた。

 「おつかれ」
 「あ……おつかれさまです」

 「なんか、今日はいつにも増して
  “電池切れました”って顔してるけど」

 「そんなに出てました?」

 「うん。
  モニターの前でフリーズしてた」

 「やだ、見られてたんですか」

 「見てないふりしといたけどね」

 いつもの軽い冗談。

 でも、その奥にある「ちゃんと見てるよ」
 という気遣いを感じて、
 春奈は少しだけ肩の力を抜いた。

 「よかったらさ」

 達也は、言葉を探すように
 一拍おいてから続けた。

 「今日、このあと夕飯行かない?
  豪華なのじゃなくていいから。
  なんか、あったでしょ」

 「……え?」

 「この前、有給取って急に帰ってたし。
  戻ってきてからも、
  たまにぼーっとしてる顔してたから」

 ごまかしようのない観察眼に、
 思わず苦笑する。

 恵の件もあって、
 達也と二人で会うのは、少し戸惑いがあった。

 それでも、
 「心配してくれている」
 という気持ちが伝わってきて、
 断る言葉も出てこなかった。

 「……じゃあ、少しだけなら」

 「よし。
  じゃ、駅のほう行こうか」

 隣を歩きながら、
 春奈はふと、
 前から気になっていたことを切り出した。

 「あの……一つ聞いてもいいですか」

 「うん?」

 「この前、恵に……
  “達也くんとデートしたって?”って
  言われたんですけど」

 「あー……やっぱりか」

 達也は、少しわかりやすく頭をかいた。

 「やっぱり?」

 「この前さ、直樹にちょっと話したんだよね。
  “春奈が疲れてそうだったから、
  気晴らしにドライブ行ってきた”って。
  そしたら、たぶんそこから恵に」

 「……やっぱり」

 想像していたルートそのままで、
 力が抜けるような、
 笑いたくなるような気持ちになる。

 「ごめん。
  別に隠すつもりはなかったんだけど、
  “あいつには話してもいいかな”って
  軽く言っちゃって」

 「謝らないでください。
  私も、ちゃんと恵に話してなかったし」

 そこまで言ってから、
 もうひとつ、気になっていたことを口にする。

 「……あの。
  達也くんも、恵から誘われたんですか?」

 「お、噂早いな」

 達也は苦笑しながら、
 横断歩道の前で信号待ちの列に並んだ。

 「うん。
  この前、恵に
 『よかったら今度、
  ふたりで飲みに行かない?』って
  言われた」

 「……」

 「悪い気はしないよ。
  恵、いい子だし。
  話してて楽しいしさ」

 それは、素直な感想なんだろう。
 聞いていて、変に納得もできる。

 でも――胸の奥が、
 ぎゅうっと縮む。

 「どうするんですか」

 信号が青に変わり、歩き出しながら問う。

 「行くんですか?」

 「……それなんだよね」

 達也は、歩幅を少し落として、
 春奈と足並みを揃えた。

 「正直に言うとさ」

 顔を前に向けたまま、言葉を続ける。

 「俺が一番最初に“ちゃんと好きだ”って
  思ったの、春奈なんだよ」

 タクシーの中での告白が、
 ふっと頭をよぎる。

 「あの時も言ったけどさ。
  今も、その気持ち変わってない」

 「……」

 「恵に誘われたときさ。
  即答で“行きます!”って言えば、
  楽なんだろうなって、一瞬思った」

 そこまで言って、
 達也は小さく笑った。

 「でも、それやったら、
  自分が自分嫌いになりそうで」

 信号待ちの人の流れから少し外れて、
 小さな路地に入る。

 人通りが少し減ったところで、
 彼は立ち止まった。

 「だから、まだ返事してない」

 「……してない、んですか?」

 「うん。
  ちゃんと、自分の気持ちにケリつけて
  からじゃないと、
  誰とも真面目に付き合えないなって」

 そう言われて、
 胸の奥がじんと熱くなる。

 「俺さ。
  状況だけ見たら、
  “恵と飲みに行けば?”って、
  周りから言われるほうが
  自然なんだろうなって思う」

 「そんなこと……」

 「でも、どうしても、
  最初に目で追っちゃうの、
  春奈なんだよね」

 冗談っぽく言ったのに、
 目だけは、笑っていなかった。

 「だから、恵に嘘つくのも嫌だし、
  春奈に中途半端なこと言うのも嫌で。
  結果、
  一番どうしようもない位置に
  立ってる気がする」

 「……私も、似たようなものです」

 思わず、口をついて出た。

 「恵のことも大事だし、
  達也くんにも助けられてばかりで。
  でも、
  自分の気持ちがどこに向いてるのか、
  ちゃんとわかる自信もなくて」

 弘樹の横顔が、
 一瞬だけ脳裏をかすめる。

 すぐに、目の前にいる達也の顔を見た。

 「だから、どう答えていいのか、
  わからないまま、ここまできちゃって」

 「……正直に言ってくれてありがとう」

 達也は、ゆっくりと息を吐いた。

 「“わからない”って言うの、
  本当はけっこう勇気いるよね」

 「自分のことなのに、
  ちゃんと説明できないの、情けなくて」

 「いや、普通だよ」

 彼は、いつもの少し頼りない笑みではなく、
 真剣で、でもどこか優しい目で春奈を見つめた。

 「いきなり全部決めろなんて、
  誰も言ってないし。
  俺も、“今すぐ答え出してくれ”って
  つもりじゃない」

 「……」

 「ただ、こういう状況になっても、
  それでもまだ、
  春奈のことが好きっていう気持ちは
  変わってないから――
  それだけは、覚えておいてくれたら嬉しい」

 言い終えたあと、
 達也は照れ隠しのように視線をそらし、
 近くのファミレスの看板を顎で指した。

 「とりあえず、メシ行こう。
  お腹空いてると、余計ネガティブになるし」

 「……そうですね」

 力の抜けた返事に、
 自分でも小さく笑ってしまう。
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