窓明かりの群れに揺れる

23.大口案件の開幕 ― 恋と仕事が交差するとき

 その案件の話が具体的に動き始めたのは、
 父の退院が決まり、
 春奈の生活もようやく“通常運転”に
 戻りかけていた頃だった。

 月曜の朝、部会が終わりかけたタイミングで、
 課長がホワイトボードの前に立つ。

 「前から話が出ていた開発プロジェクト、
  本格的にスタートすることになりました」

 朝会で課長がそう告げた瞬間、
 室内の空気が少しだけ変わった。

 地方工場との長期提携――
 成功すれば大きな売上になる、注目案件だ。

 「先方のキーマンは日本テックの斎藤さんと……
  開発側の責任者として、
  営業部の高橋弘樹さんが
  フロントに立つ形になります」

 その名前が出た瞬間、
 春奈の心臓が小さく跳ねる。
 (やっぱり、そうなるんだ)

 先日の会議室の姿、病院ロビーで見た背中。

 そこに「取引先の担当者」として、
 ふつうに
 “高橋弘樹”の名前が並んでいる現実が、
 妙に鮮明だった。

 「うちのチームからは、
  達也、直樹、それと――春奈」

 「は、はい」

 「資料の整理と数値サポートは春奈。
  実務で動くのは達也と直樹。
  まずこの三人で回していく」

 横で達也が小さく親指を立てる。

 「頑張ろうな」と口の動きだけで
 言っているように見えて、
 春奈はこっそり息を吐いた。

 その週のうちに、
 初回キックオフが開かれた。

 広めの会議室。
 片側に自社メンバー、
 反対側に日本テックと開発部門。

 「本日はお時間いただきありがとう
  ございます」

 形式的な挨拶と名刺交換。

 「日本テック 営業部 高橋弘樹」の名刺が
 ほんの一瞬、春奈の手の上に乗る。
 (仕事。今日は仕事)

 何度もそう言い聞かせながら、
 ノートPCを開いた。

 案件の構図はシンプルだ。

 •自社:大手商社。
  コストとスピード重視で製造を
  外部委託したい。

 •先方:日本テック。
  地方の複数工場を束ねる立場。

 •テーマ:長期供給契約と、その条件
  (価格・生産能力・リスク分散)。

 「私どもとしては、
  単純に“単価を合わせる”というより、
  現場の安定稼働を優先したいと
  考えています」

 弘樹の落ち着いた声が、
 スクリーンに映る地方工場の配置図と
 生産能力のグラフをなぞる。

 「特に東北の工場は、
  人員削減と設備更新が続いていて、
  現状でもギリギリです。
  この状態で短期の過度な増産をかけると、
  品質・安全両面でリスクが高まります」

 (東北……)

 スクリーンの片隅に、
 見慣れた地名がちらりと見えた。

 弘樹はあくまで「先方担当者」として
 淡々と話しているが、
 その背景を想像してしまう自分がいる。

 「ですので、初年度はこのラインまで。
  二年目以降、設備投資と人員補強を
  行ったうえで、段階的に増産していく――
  それが我々のB案です」

 画面上の曲線は、
 自社の一気に立ち上げるA案より
 明らかに緩やかだった。

 キックオフ後、
 社内だけでの検討会が開かれた。

 「さて。どう見る?」

 課長がホワイトボードに
 「A案(自社)」「B案(先方)」と書く。

 「本社の好みはおそらくA案だな。
  数字が早く立ち上がる」

 部長の言葉に、数人が頷く。

 「ただ、一気に増産をかけた場合の
  クレームや品質事故のリスクは
  無視できない。
  責任の所在もはっきりさせたい」

 そんな会話を聞きながら、
 春奈は黙って議事録を打っていた。

 「達也、お前は?」

 「ビジネス的にはA案のほうが魅力的です。
  ただ、先方がB案にこだわる理由も
  筋が通っている。
  どこまで歩み寄れるかですね」

 ざっと意見が出揃ったところで、
 部長が春奈に視線を向けた。

 「春奈」

 「はい」

 「悪いけど、A案とB案の比較資料、
  君に任せたい。
  コスト・リスク・現場負荷・将来性――
  そのあたりを一覧で。
  数字は達也たちが集めるから、
  君は“見える化”に徹してくれ」

 「……承知しました」

 「それと」

 部長は少し言いにくそうに眉を寄せる。

 「オフィシャルじゃないけど、
  その資料の最後に、
  “もし推薦案を一つだけ挙げるなら”
  という前提で、
  君自身の考えも書いてくれないか」

 「私の、ですか?」

 「新人だからこそ、変な利害抜きで
  “数字と筋”だけ見えることもあるからね。
  最終判断は上がするが、
  君がどう見たかは知っておきたい」

 信頼の言葉であり、
 同時に“どちらかを選べ”という
 重さでもあった。
 (どっちかを、選ばなきゃいけないんだ)

 デスクに戻った春奈は、
 渡された資料と過去データに目を通し始めた。

 生産実績、クレーム履歴、東北工場の稼働報告。

 数字の行間に、
 見慣れた地名がぽつぽつと現れる。

 (ここ、家から車で一時間くらいのところだ……)

 作業服で帰ってきた父の背中が浮かぶ。

 「まだまだ若いもんには負けん」と
 笑っていた顔と一緒に、
 「人員削減」「設備老朽化」「短期増産要請」
 そんな言葉が並ぶ紙面を見ると、
 胸の奥がざわついた。

 (私が、どっちかを選ぶ)

 会社の一員として。

 東北で育った誰かの娘として。

 比較資料の最後の「推薦案」の欄だけが、
 空白のままじわりと重たかった。
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