窓明かりの群れに揺れる
 その日の帰り。
 エレベーターを降りてビルの外に出ると、
 空はすでに群青色に染まっていた。

 「……帰る?」
 背後から声がする。

 「達也くん」

 振り返ると、
 ネクタイを少し乱した達也が立っていた。

 「おつかれさまです」

 「おつかれ」

 その言い方は、
 普段よりわずかに硬い。

 「今日は……大変でしたね」

 「そうだな」
  短く返ってくる。

 「その……」

 どう言葉を選べばいいのか
 わからないまま、
 春奈は口を開いた。

 「私、部長に“資料が良かった”って
  言われたとき、
  すごく嬉しかったです」

 「うん」
 「でも同時に、
  達也くんの気持ちも考えて、
  どういう顔をしたらいいのか
  わからなくなっちゃって」

 「……別に、
  春奈が悪いわけじゃないだろ」

 達也は、
 ポケットに手を突っ込んだまま言う。

 「公平に分析して、
  “B案がいい”って判断しただけだろ。
  それを求めたのは、俺たちのほうだし」

 「でも、悔しいんだよ」

 その一言には、
 笑いも誤魔化しもなかった。

 「正直に言うとな。
  “攻めの案”を通して、
  “あいつらより上を行ってやりたい”
  って気持ちもあった」

 「あいつら」と言ったとき、
 頭に浮かんでいるのが誰かくらいは、
 春奈にも想像がつく。

 「なのに、
  自分で作った案の穴を、
  きっちり突かれて。
  しかも、春奈のまとめた比較資料が、
  結果的に“向こうを正しい”って
  後押しする形になった」

 「……ごめん」

 「謝るなって」

 達也は、少し乱暴に笑った。

 「中途半端だったら、
  文句も言えたのにさ。
  ちゃんと筋通してるから、
  余計に、負けがはっきりした
  っていうか」

 悔しさと、自嘲と、
 それから少しの尊敬が混ざった声だった。

 「……達也くん」

 「今日はさ」

 彼は小さく息を吐く。

 「ごめん。
 あんまり、優しいこと言えそうにない」

 いつもの冗談交じりの空気ではなく、
 どこかピリッとした距離感が
 二人の間に立つ。

 「だから、
  “慰めようとしてくれてる”
  のはありがたいけど――」

 そこで言葉を切って、
 視線をそらした。

 「今の俺、
  春奈にちゃんとした顔
  見せられる自信がない」

 その正直さが、逆に胸に刺さる。
 何も言えなかった。

 冷たい夜風が、
 スーツの裾をそっと揺らす。

 達也は「じゃあ」とだけ言い残して、
 駅のほうへ歩き出した。

 後ろ姿を見送ることしかできない自分が、
 情けなくて、悔しくて。

 それでも、
 「今は追いかけないほうがいい」
 という感覚だけは、
 はっきりとわかっていた。

 ビルのガラスに映る自分の顔は、
 仕事をしているときとはまた違う種類の、
 疲れた表情をしていた。
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