これはもはや事故です!
 キッチンの方から、聞こえてくる。
 豆を挽く、低く乾いた音。
 それから、湯を注ぐ気配。
 少し遅れて、香りが漂う。
 温かい、いつもの朝の匂い。

 美羽は毛布を肩まで引き上げながら、そっと息を吸った。
 昨夜の余韻がまだ身体に残っているのに、世界はもう、日常へ戻ろうとしている。

 やがて、磯崎の足音が近づく。

「起きられそうか?」

「……はい」

 そう答えると、磯崎はカップを差し出した。
 湯気の向こうで、少しだけ照れたような顔。

「美羽は、いつものカフェ・オレな」

「ありがとう……」

 両手で包むと、指先まで温かさが伝わり、ほっとする。

 少しの沈黙。
 コーヒーをすする音だけが、静かに響いた。

 磯崎が、何気ない調子で口を開く。

「……美味いか?」

「はい」

「さっきのここに居るって話し」

美羽の手が、ぴくりと止まる。
(えっ、やっぱ無しとか……?)

でも、次の言葉は、美羽が想像していたものと少しだけ違った。

「いや……美羽、次第なんだが」

 磯崎は、カップを置き、視線を外したまま続けた。

「正直に言うと、美羽の借りてる部屋、もう引き払ったらどうかと思ってる」

 あまりにも自然な言い方で、まるで「ゴミ出し、明日でいいか」みたいな口調だった。

「ここにいればいい。そのほうが……楽だろ」

 “俺が”ではなく、“美羽が”。
 そこが、何よりも磯崎らしかった。

 嬉しさと同時に、怖さが、ほんの少しだけ混じる。

「……いいんですか?」

 思わず、そんな確認が口をついて出た。

 磯崎は、即答しなかった。
 その代わり、真っ直ぐに美羽を見つめる。

「いいかどうか、じゃない。美羽と一緒に居たいと思った。それだけだ」

 美羽は、カップを持ったまま、小さく頷く。

「……少しだけ、時間ください」

「わかった」

 そう言って、磯崎はそれ以上、踏み込まなかった。
 急かさない。
 決めつけない。

 それが、何よりも安心できた。

 窓の外では、いつも通りの朝が進んでいく。
 コーヒーの香りが、まだ残っている。

 
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