これはもはや事故です!
 カップの底が見える頃、美羽の頭の中には、別の部屋の情景が浮かんでいた。

 自分の部屋。

 玄関を開けると、すぐ見える狭いキッチン。
 壁際に寄せた、小さなテーブル。
 そこで一人、コンビニ弁当を食べながら、スマホの動画を眺めた夜。

 クローゼットの奥には、まだ着ていないワンピース。
 お気に入りのヒールに合わせて買った物だ。

 ベッドの脇に置いたスタンドライト。
 夜、眠れないとき、訳もなく見つめていた。

(……全部、ひとりだった)

 誰にも気を遣わなくて済む、気楽な場所だった。
 でも、あの部屋に帰るたび、どこか、胸の奥が冷えていたのも、確かだった。

 美羽は、カップを両手で包んだまま、視線を落とす。

(引き払う、って……)

 それは、家具を片づけることでも、住所を変えることでもなくて、
 “ひとりで居るために作り上げた空間”を、手放すこと。

 そう思うと、少しだけ、怖くなった。

 あの部屋は、誰にも頼らず、誰にも期待せず、それでも生きていくために、必死だった自分の証だったから。

(……あの場所があったから、今の私がいる)

 それを、なかったことにするみたいな感覚に襲われる。

 美羽は、無意識に、胸元の毛布を掴む。
 指先に、布の感触。

 そのとき、ふと気づく。

 (今、私はひとりじゃない。
 ……全部、捨てるわけじゃない)

 あの部屋で過ごした時間も、ひとりで踏ん張ってきた自分も。
 それらを、手放したとしても、思い出すことまでなくならない。

 ただ、前に進むだけ……。

 少しの沈黙のあと、美羽は、息を吸った。
 カップを置き、ゆっくりと顔を上げる。
 隣に居るのは大好きな彼。

 まだ、答えは出ていない。
 でも、逃げたいとも思わなかった。

 美羽は、小さく自分に言い聞かせる。

(……ちゃんと向き合おう)

 過去とも。
 そして、これからとも。
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