これはもはや事故です!
 コーヒーを飲み終えたあと、しばらく、言葉のない時間が流れていた。

 テレビもつけていないのに、不思議と、沈黙は重くない。

 美羽は、空になったマグカップを見つめながら、何度か、小さく息を吸っては吐いた。

「……あの、磯崎さん」

 声をかけると、磯崎が顔を上げる。

「ん?」

「……さっきの話なんですけど」

 『引き払う』という言葉を、まだ口にするのが少し怖い。
 でも、逃げたくはなかった。

 美羽は、ゆっくりと磯崎を見つめた。

「私……自分の部屋、整理しようと思います」

 一瞬、空気が止まる。
 磯崎は、驚いた様子も、焦った様子も見せなかった。

「……決めたのか」

 問いかけは、確認だけだった。

 美羽は、頷く。

「はい。あそこは……ひとりで頑張るために、必要だった場所だったんです。
 でも、今は……戻ると思うと、少し苦しくて」

 正直な気持ちだった。

「逃げたいわけじゃありません。磯崎さんと一緒に居たいんです」

 “ここにいたい”と、
 “ひとりに戻りたくない”は、違う。

 その違いを、きちんと伝えたかった。

 磯崎は、少しだけ視線を落とし、それから静かに言った。

「……無理してないか」

「してません」

 即答だった。

「本音を言えば、少し怖いですけど……それは、前に進む時の怖さだと思うので」

 磯崎は、それ以上、何も聞かなかった。
 代わりに、短く頷く。

「わかった。じゃあ、業者に手配しておく……美羽が、ひとりで無理しないでいいように」

 提案するような声。

 美羽は、少し驚いてから、微笑んだ。

「……ありがとうございます」

「礼はいらない」

 立ち上がりながら、ぽつりと付け足す。

「美羽が一緒に暮すと決めてくれて……嬉しいよ」

 その言葉に、胸の奥が、静かに温かくなる。

 美羽は、小さく頷いた。

「……はい」

 自分で選んだ決意だった。
 だから、怖くても、歩いていける。
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