これはもはや事故です!
 キッチンの奥で、ポットが小さく音を立てる。
 その音に背中を押されたみたいに、磯崎が、ぽつりと言った。

「……なあ、美羽」

「は、はい」

 条件反射で返事をしてしまう。
 その声が少し裏返ったことに、美羽自身が気づいて、胸が落ち着かなくなる。

 磯崎は、一度だけ喉を鳴らし、視線を逸らしたまま続けた。

「その……」

 言い淀む。
 らしくない沈黙。

「名前で、呼んでほしい」

 美羽は、思わず瞬きをした。

「……え?……い、いきなりですね」

 絞り出すように言うと、磯崎は小さく苦笑した。

「自分でも、そう思う」

 照れを隠すように、首の後ろに手をやる。

「でも……」

 一拍、間を置いて話しを続ける。

「これから一緒に暮らすなら、
 いつまでも“さん”付けってのも、妙だろ」

 理屈をつけているのに、耳の先が、はっきり赤い。

 その様子に、美羽の胸が、どくんと鳴った。

(……かわいい)

 そんな感情が浮かんでしまったことに、自分で慌てる。

 少しだけ間を置いて、美羽は深呼吸をした。

「……ま、誠さん」

 初めて呼ぶ名前。
 舌が、うまく動かない。

 声にした瞬間、胸の奥が、きゅっと締めつけられた。

 磯崎の肩が、わずかに揺れる。

「……っ」

 一瞬、言葉を失ったように口を閉ざす。

 それから、観念したみたいに息を吐いた。

「……ん」

 たった一音なのに、
 それまでより、ずっと近い。

 磯崎は、美羽の方を見て、今度は少し照れたまま言った。

「……美羽」

 名前を呼ばれた瞬間、胸が一気に熱くなる。

「……はい」

 返事をするだけで、精一杯だった。

 心臓の音が、うるさい。
 手のひらまで、じんわり熱い。

(……こんなの、聞いてない)

 ただ名前を呼んだだけなのに。
 呼ばれただけなのに。

 距離が、確実に変わったことだけは、はっきり分かった。

 磯崎は、照れ隠しみたいに、視線を逸らして言う。

「……慣れるまでは、ゆっくりでいい」

 その一言が、やさしくて、
 美羽の胸は、さらにいっぱいになる。

 名前で呼ぶ。
 それだけで、こんなに動揺するなんて。

 美羽は、両手でマグカップを握りしめながら、
 小さく頷いた。

「……はい」

 静かな部屋に、二人分の鼓動だけが、そっと重なっていた。
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